毎朝5分の自分語り 2024/05/09
今当たり前にあることが実は贅沢なことなのだという感覚がある。
く言われるのが資源の問題で先進国と同じ水準の資源消費を全世界が行ったら資源が足りなくなるというもの。
これだけでは無い。
私が思いつくのは身近なもので2つ
1つはライブだ。 人が対面でリアルタイムに行うものは全て何かの録画やロボット(画像のみ含む)に置き換え可能で、コスト的に許せば置き換えられるだろうと思っている。
もうすでに置き換わりつつあるものは小売店のレジであったり、みどりの窓口だったり、コールセンターだったりするわけだが。
他にも学校の授業なんかも置き換わると思っている。
今先生がカリキュラムや授業内容を検討して板書や資料の表示で行っている。
しかし、それでは各々の先生の負荷が高いままだ。
サービスを受ける側の目線で見たら、教員の当たり外れもあるし、競争も起こらない。
授業内容は神授業の録画をベースに分からないところを個別指導(これも最初はAIでそれでも分からなければ先生がつく感じ)でやることで負荷を下げる。
下がった負荷は先生のワークライフバランス向上と児童ごとの個別指導に充てることが出来る。
児童の指導と授業を分業化した形だ。
授業の動画作成にはインセンティブ次第だが競争領域になるだろう。
もうひとつが移動だ。
今は様々な理由で人が移動している。
コロナ禍でリモートによって様々な事が移動せずに行えるようになった。
個人が車を購入運用したり、公共交通機関でのすし詰め大移動なんかは不要になる。
コストやリスクが高かったりするからだ。
メタバースなんかの仮想空間がよりリアリティを増していけば、仮想空間であたかも別のリアルな場所に居るかのような感覚が作れるのかも知れない。
それが実現できれば旅行も帰省も贅沢品になる。
物を買いに行くという物理もあるだろうが、物流が最適化されれば個人宅に届く事が当たり前になり必要なくなったりするだろう。
近所の移動を徒歩で行う以外の移動身近な存在ではなくなり、利用者が少なくなればサービスとして高コストにならざるを得ない。
すなわち贅沢な事だという認識になる。
移動の自由というのはあるが、時代が変われば、銃刀法のある日本から見たUSAの銃保持の自由並み隔絶感のになるのかも知れない。
移動がしたいなら〇〇に住め的な。
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