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男性育休325日目。育児についての今の気持ち

娘が初めてハイハイの状態からつかまり立ちが出来たのは、今からちょうど3ヶ月前の11月29日。娘が7ヶ月半くらいのこと。

娘の成長記録をスプレッドシートに付けていて、その成長の早さに驚く。

あと少しの勇気があれば、手を離しても立てるし歩けるくらいつかまり立ちが安定しているけど、まだその先の世界を知らない。
「うちの子は生後10ヶ月で歩いた」と将来言いたいがために、(あ~、歩いてくれたら嬉しいのに!)と身勝手な気持ちが心の内に無いわけではない。

育休も終盤になってきた。
1年間の育休のうち、今日(これを書いている2月29日)で325日目。娘が生まれてから、325日。

育休が終わる前に、娘が1歳という節目を迎える前に、これまでのことや今の気持ちを残しておきたい。

そんな気持ちで、このnoteを書いてみる。


良い人生って何でしょうね?

先日、25歳のフランス人の女の子Claraを2泊ホストした。
時々こうして、外国人旅行者を家に泊めて、互いにとって良い刺激のある時間を過ごしてる。

Claraは「私は子どもはいらない」と言いながらも、娘とはとても楽しく遊んでくれた。

子どもがいらないと言う理由は、「気候変動などで世界が変わっていく中、こんな世の中に子どもを生きさせたくない」というものだった。
そのこと自体にとやかく言うつもりはないけど、そこで思ったのは、子どもを持つということは、”親の満足が目的ではなく、その子自身が幸せに生きること”であるはずだ、ということ。

僕がコーチをしているのも、モンテッソーリ教育を取り入れているのも、自分のためではなく、その人が主体的に自分らしく豊かな人生を歩むことを願っているからだ。
だから、Claraの考えには納得する面もあった。

僕が考える良い人生というのは、たった今書いた「その人が主体的に自分らしく豊かに生きること」だと思う。

そこで大切にされるべきことは、誰かからの評価とか、常識とか、周りの目とか、何かの数値的な高さというよりもむしろ、
自分の価値観とか、主体性とか、好奇心とか、感性とか、心の豊かさとか、自己肯定感とか、自己効力感とか、自信とか、絶対的に味方になってくれる存在とか、
そういうものなんだと思う。

数値で測れないもの。
より主観的なもの。

三つ子の魂百まで。

日本の諺的にも、モンテッソーリ教育的にも、その基盤となるのが、特に0~3歳までの時間であるらしい。


育っていく環境を、こんな場にしたい

仙台の古民家に引っ越してきて本当に良かったと思う。

行動の自由

もちろんそこそこ古いけど、その代わりにある程度の広さはあるし、家賃もかからない。多分、光熱費は新しい家よりかかると思うけど。

だけど、古いからか床の上に水や食べ物をぶちまけても全然気にならないし、障子を破ったって(それを食べなければ)全然いい。むしろ手先の練習になると思ってるくらい。
大きい声を出しても、テーブルをドンドン叩いてもいい。

大人のスタイリッシュな生活からしたら、それらはきっとストレスになるんだろうけど、全然気にならないし、子どもとしてはそうやって制限なく好奇心のままに行動できる環境が、大きな人間へと育つことに繋がると思う。

安心と主体性

家庭というのは最小単位の社会であり、生まれた子どもが初めに経験する人間関係でもある。
その環境が、安心でき楽しく自分らしくいられる場であるかどうか。それがその後の人生の中で目に映る景色の色を変えていく。

だから、子どもと一緒に過ごすという言葉に収まらずに、子どもと向き合ったり子どもの心の機微を感じ取って過ごそうと心掛けてる。
コーチングを学ぶ中で身につけた、相手の感覚を感じ取る力は、育児でも活かされているように思う。

ちょっと油断すると、大人は「このおもちゃ面白いよ!」とか「この絵本が好きなんじゃない??」とか、(良かれと思っての)押し付けをしてしまう。
そうではなくて、子どもの世界観で、子どもの好奇心の赴くままに遊べる環境を整えようとしているし、そういう関わり方を心掛けてる。

例えば、お手玉を噛んでいたらそれでいいし、床に叩きつけていたらそれでいい。
「ちょうだい」「どうぞ」というやり取りが好きなら、子どもが飽きるまでずっとそれに付き合う。

自らの好奇心や気持ちを軸とした主体的な行動を促進していきたい。

力技禁止

ちょっと話は違うけど、グズったらお菓子や動画の力技で黙らせるのではなく(我が家は基本的に動画を見せないし、甘いお菓子もあげない)、子どもの心の声を聞いて、甘えたいのか、眠いのか、退屈で遊びたいのか、それを一緒に確かめる。それに、そうやってるとかなりの確率でどんな気持ちがそこにあるのかわかってくる。

機会

少し古い感覚では、色々な経験をするにはお金が必要だったかもしれない。
だけど、今の時代、視野を広げてみればほとんどお金をかけずとも本当にいろんな機会を得ることができる。

僕にとってその最たるものの一つが、外国人旅行者を家に泊めること。
彼らとの交流は楽しく刺激的だし、子どもにとっても英語が当たり前の環境になったり、人種もバックグラウンドも全然違う大人と楽しく安心して関われるというのは、今後の成長においてもかなりプラスに働く気がしている。


仕事はどうするか

多分、仕事は辞める。
育休が終わり、会社を辞めてからもしばらくは今と同じような過ごし方をしようと思う。

”大学を出て会社に入ったら、あとは定年まで働き詰めだ。”

二十歳前後の僕は、当時そんな風に社会を見ていた。嫌な気持ちで。

だけど、人生ってそんなに単調なモノクロではない。
一年に四季があるように、人生にも季節に似たものがあるんじゃないかと思ってる。

子どもの頃や大学生の頃はエネルギーに満ちているし、
30歳代で仕事に打ち込んでもいい。

そんな季節の一つが、子どもが小さい内なんだと思う。

前半でも0~3歳までと書いたけど、それは子どもにとっても大切だし、親にとってもかけがえのないもの。

社会構造的に、子どもの年齢なんか関係なくバリバリ働くことになっているのかもしれないけど、人類進化論的には、ゆったりと子どもと向き合った方がいい。知らんけど。
でも、僕はそんな気がしているので、人間が後付けした良いのか悪いのかわからない社会の常識に倣うのではなく、生き物として、主体的な人生として選びたい方を選ぶ。

仕事については正直不安もあるけど、これまでの貯蓄は平均的なそれよりもそこそこ多くあるし、いざとなったらどこかで働けるだけのスキルと実績はあると思ってる。
なんとかなる。
ラグジュアリーな生活よりも、本当に大事にしたいものを大事にする心豊かな生き方を選ぶ。


子どもは最高に可愛い。多分そういう風にできているんだけど、それでいい。

僕が仰向けに寝ていると、子どもがよじ登ってきて胸の上に来る。向かい合って頬を僕の胸にペタっと付ける。そのまま眠るんじゃないかって風に。

それがめちゃくちゃ可愛くて、なんとも形容し難い気持ちになる。

笑顔ややり取り遊びをする姿だけでなく、何をやっていても可愛い。
大泣きしていても、何を求めてるのかわからない時でも。

人間の赤ちゃんは、親の助け無しでは生きていけないので、そうやって親が子を可愛いと思うことはDNAに刻み込まれているんだろうけど、それならそれで別にいい。
どんな理由でこういう気持ちになっているかなんて関係ないし、それに抗う必要もない。

まだ言葉の話せない娘。
「今の時期は本当にかけがえのない時間だから、大切にしな」とよく言われたけど、大丈夫。後悔のないように大切にしてる。

僕は、過去を慈しむ性格。
写真が好きなのも、こんな風に文章にその時に気持ちや考えを残すのも、過去を消したくないからだ。

今の、娘との時間を永久保存できたらどんなにいいだろう。
それをポチッと再生することで、今と同じ経験を何度も繰り返すことができたら。


だけど、それは命のようなもので、過去を振り返ればある程度味わおうとすることは出来るのだろうけど、最期を迎えてしまったらその先は無い。

だから、子どもとの時間も、自分の人生も、自分に正直に、今を大切にしていきたい。


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