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14. 小さい子

イタリアからの2週間は母と一緒に回った。
僕が小さい頃から、母はこれといった旅行に行ったことがない。
母は単身で飛行機に乗り、ローマ空港で合流した。
飛行機でも眠れなかった言っていたイタリア時間20時頃(日本時間なら早朝)、イタリアでの最初の食事であるピザを食べた。
@イタリア、ローマ



初めての妊娠は、妊娠8週目に稽留流産になった。
5月20日の金曜に出血があって、妻は近所のクリニックに行ったけど、その時には心拍の確認ができなくなっていた。
でも、前回の心拍確認が早過ぎた感もあるし、たまたま心拍の確認ができなかったのかもしれない。
そんな期待をしながら、週末には1月から計画していた親族との箱根旅行に行った。
月曜にまた出血があり、僕は急遽会社を休んで妻とクリニックに行った。
そこで流産が確定した。
胎芽が自然に出てくるのを待つか、手術で摘出するかの二択が僕らにはあった。
クリニックでは手術はできないとのことで、手術ができる少し(本当に少し)大きな病院に行った。
胎芽は妊娠7週で成長が止まっていたみたい。この時期の流産は誰にでも起こり得る染色体異常らしく、ベストを尽くしていた妻に一切の非はない。
改めて今の状態や手術のこと、その後への影響などについて話を聞いた。
流産した場合、海外では自然に出てくるのを待つケースも多いらしいけど、いつ出てくるかわからないし、場合によってはかなりの出血を伴ったり、全てが綺麗に出ずに感染症のリスクがあったりするらしい。
一方で手術をすると次の妊娠の機会が遠のくとの情報がネット上にあったのと、手術によって母体を傷付けるリスクがあるという2点がデメリットのようだった。が、病院の先生に聞いてみると、前者は誤情報であり約1ヶ月後の生理が来れば妊活をしてOKとのこと。後者のリスクは、自然に出てくるのを待つリスクと比べたら小さいというのと、万が一傷つけてしまったりしても、その時には別の対処ができるとのことだった。
だから、僕らは手術を選んだ。吸引による胎芽の摘出。たった7mmの赤ちゃん。
5月25日水曜。手術は無事に終わった。
8週目くらいまでの場合、胎芽の処置は病院側で行うらしく、僕らがその姿を見ることはなかった。
週末に神社で供養をしようと妻と話しながら車で自宅まで戻った。手術のために今朝から何も食べていなかった妻は、コンビニでサンドイッチを買い、それを食べた。
暑いくらいに天気の良い5月の日だった。



人の感情というのは、成長と共に複雑になっていくらしい。
人生経験が豊かであればあるほど、感情は豊かになる。
生まれたての赤ちゃんには、快と不快の2種類しかないらしい。心地良いも、美味しいも快。お腹が空いたも、寒いも不快。
それが、少しずつ楽しいとか、怒りとか、もどかしいとか、そういった感情に分岐していく。

8週の子が離れた妻の体調は、悲しいことに改善している。悪阻がないからだ。
僕は、なんだか背中の下の方が少し涼しいような、空っぽになったような感覚がある。悲しいとも辛いとも、なんとも形容し難い感情が、今の僕の中にある。
2ちゃんねるのひろゆきさんは、悲しい時などはテトリスをやると、集中してしまえるので悲しみから逃れられると言っていた。それは実際そうなのかもしれない。
だけど、僕は今のこの感覚が自然と上を向くまで、この感覚と共にいたいと思う。
きっとそうすることで、この経験を僕自身に積み重ねることができるし、何よりもほんの少しの間だけどこの世に生まれてくれた胎芽への供養になると思う。


人の魂というのは、いつからそこに宿るんだろうね。
トイレでオナニーをして出てくる数億の精子それぞれに魂が宿っているとは思えないし、一方で3000gで生まれてくる赤ちゃんには間違いなく魂が宿ってると思う。
受精卵に魂はあるのか。
6週で心拍が確認できた胎芽には魂はあるのか。
妊娠22週を超え、出産できる可能性が出てきた子には魂はあるのか。あるんだろうね。

心拍の止まった、顔も手足もないその子に魂の有無を確認することはどうもできないらしい。
だけど、もしかしたらその子にも魂があったのかもしれない。生きていた、と形容してもいいのかもしれない。
僕は、この子の存在を忘れずに生きていきたいと思う。


ここ最近、将来をかなり意識して過ごしてきた。
将来から逆算して、行動して、それでいて今を大切に生きて。
そんな過ごし方を意識的にしてきた。

一時的かもしれないけど、今の僕は将来のことを考えない。考えたくないとか、考えられないとかって表現ともなんとなく違くて、考えない、と書いた。
今は、今のこの時間を味わって過ごしたいと思う。
そんなことを思って、なぜか僕は部屋を掃除して床を水拭きし、窓を拭いた。
なんとなく、この部屋を清潔にしたいと思った。

だらだら過ごしていても時間は過ぎるし、一生懸命何かに取り組んでいても同じく時間は過ぎる。
だから正論としては何かに取り組んだ方がいいんだろう。
だけど僕は、少なくとも今の僕は、ただ呼吸をして、くだらないバラエティ番組を見て、プランターのトマトに水をやって、穏やかに過ごしたい。
先を見るでもなく、ただ今をゆったりと過ごしたい。

本当は泣いてしまいたい。そんな胸のつっかえみたいな感覚がこの体にはある。
だけど、この感情がシンプルな悲しさでも辛さでもなくて、感情の波がうまく大きさを得ることができないみたい。

だから、今はただこの感覚と生きる。

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