[9] 満蒙開拓青少年義勇軍の母

 戦時中の写真集の中に、実家の近くにあった小学校(当時は国民学校)の前で、村の満蒙開拓義勇軍父兄会の人たちが並んだ写真を見つけた。
 最前列には母親と思われる8人の女性が座っており、兄弟なのか小さな子もいる。

 農村では召集されていく男性が増えたため人手不足となり、満蒙開拓団の送り出し計画が政府の思うようには進んでいなかった。その穴を埋めるように、高等科を卒業する子どもたちをターゲットにして村や学校にノルマを課した青少年義勇軍への勧誘活動が行われた。

 高等科の卒業生は今の中学2年生、14、5歳のまだ子どもだ。親が子どもを手元に置きたいと思うのは当たり前。それに遠い極寒の満洲までやらなくても街の軍需工場に働き口はあった。

 当時の新聞には、義勇軍勧誘の最大の壁が母親の反対だと書かれている。しかしいくら母親がだめだといっても、子どもの自分でもお国の役に立てると考えたり、将来広い土地を所有して豊かになれると夢見た子どもたちもいた。教師に説得され泣く泣く子どもを送り出した親が多かっただろう。

 写真のキャプションによれば、昭和13年に7人、14年に5人の割当が村にあった。『長野県満洲開拓史 名簿編』にあたると、その前後にも村から義勇軍に送り出されている。多くは帰還しているが、昭和19年3月21日に家を出た2人は、昭和20年10月と12月に日本に帰ることなくそれぞれ亡くなっている。ともに15歳。ひとりは難民収容所で肺炎で、もうひとりの死因は不明。

 昭和20年8月15日以降、村では母親たちが子どもの安否を気遣い、帰りを待っていただろう。信濃毎日新聞の記事では、満洲と連絡がつかず、満洲の様子もしばらくわからない状況が続いた。短い夏とすぐにやってくる厳しい冬を心配する声もあった。やっと引き揚げが始まって、生還者から開拓団の集団自決のことなどが伝わった。

 義勇軍で生きて帰った人もシベリアや難民収容所を経ており、帰郷したのは昭和21年以降になる。母親が子どもの生死を知るのもやっとその頃だ。

 「義勇軍にやらなければよかった」。
 どの母親も後悔と悲しみを死ぬまで抱えていたことだろう。

 体験談や記録を読み、この『名簿編』を開くたびに、生きて帰った人、帰らなかった人、送り出した人たちの悲しみや悔しさや悔悟の情に押し流されそうになる。

 その人たちに自分は何もしてあげられない。
 ただ記録を手繰り、一人一人の語られなかった声に耳を傾けることがお弔いになるのかもしれない。

※この夏、長野県立歴史館では企画展「青少年義勇軍が見た満州―創られた大陸の夢」が開催されている。
https://www.npmh.net/exhibition/

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