見出し画像

[1]それぞれの墓碑銘―沖縄戦、広島・長崎、平頂山事件そして長野県満洲開拓史

3年前の8月15日。
私は中国の平頂山惨案記念館にいた。
ここを訪れたのは全くの偶然で、撫順炭鉱をめぐる現地ツアーに含まれていたからだった。

1932年9月15日、平頂山集落の人たちは中秋節を家族で祝った。
翌朝、日本兵に写真を撮ってやると全員広場に集められ機関銃で掃射され、子どもから大人までおよそ3000人が虐殺された。
その現場は焼かれ日本は事件を隠ぺいしたが、アメリカ人ジャーナリストによって国際社会の知るところとなった。

現場はのちに発掘され、折り重なる遺骨の上に遺骨館が建てられ保存されている。

私たちが訪れたのは遺骨館ではなく資料が展示されている建物だった。

発掘によって見つかった時計や硬貨、身に付けていた装飾品、生活用品は亡くなった人たちが確かにそこで暮らしていたことを物語っていた。

生き残った人たちの体に今も残る銃弾や剣による傷跡の写真が並ぶ。
そして壁から天井まで、犠牲者の名前がびっしりと刻まれていた。

同じだ、と思った。

沖縄も、広島長崎も、突然それまでの生活を奪われた人たちを忘れまいと犠牲者の名を残している。

全国で最も多くの農業移民を中国に送りだした長野県は、開拓団の一人も漏らすまいと「長野県満洲開拓史・名簿編」に名前と年齢、生死の別、それから病死、自決、殺害、撲殺と死因まで詳細に記している。紙の墓碑銘だ。

しかし同じではない、とも思った。

原爆や空襲の犠牲者と同じようには、私たち日本人は平頂山の村人を悼んではこなかった。

【参考】平頂山事件資料館
http://heichouzan.com/

サポートいただければ励みになります。