23/3/17

ここ数日心身ともに完全に失墜しており、実をいうとこの間の日記も書いたりはしたのだけどあまり良い内容ではないので非公開のままにしようと思う。

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『霊体の蝶』の読書会に誘われたので仕事のあとに新宿に向かう。
まずピカデリーのロビーでカリフォリニア檸檬さんと待ち合わせて僕も連作を寄稿させて頂いた『エリア解放区 vol.1』を受け取る。一緒にvol.0も献本頂いてしまって恐縮なので読みたいと思っていたので有難く頂いた。

そのあとはルノアールで歌会を。誰かがツイートしていた気がするのだけど、人と話すのは好きだけど目的のある会話しかできない(所謂雑談がむずかしい)人にとって歌会のような場は本当に素晴らしく機能的だと思う。僕も含めて歌会好きな歌人はそういう人が多いのかもしれない。
この日もインターネットでは絡みがあった人含めほとんど初対面の人ばかりだったけど楽しく過ごせた。歌会、もちろん批評会の亜種的なものなのでバチバチした現場も多くあるんだろうけど、僕が出た歌会は概ね「過ごす」感じがある。

新宿駅近くのKIRIN CITYに移動して本題の『霊体の蝶』読書会。
この場は僕が新宿の紀伊国屋で本を買ったあとに読むのにたまに使っていたことから予約させて頂いたのだけど、他の居酒屋に比べれば比較的ガヤガヤしていないし席も広めなので想像以上に良い感じだったのではと思う。
読書会の内容は僕は割と話したかった歌の話はできたし、他の人が推していた歌も思ったよりも被りがなく全頁とは言えないけどそれなりに広範囲に渡って読めた。特に小羽さんの気合の入り方(レジュメ!)と上篠さんの〈あか=身体〉と〈あを=精神〉の対比、心身二元論的読みかたはかなりスリリングだった。2時間くらい話していたけど結構あっというまでササキリさんの〈帝政≒抹消性〉の話とかもう少し詳しく聞いてみたかった、と感じる。

以下、読書会で僕が話した歌のなかからいくつかをテキスト化してみる。

Spiegel im Spiegel 呼気うすき花のさかりをいかで生くべき
/吉田隼人

〈Spiegel im Spiegel〉はアルヴォ・ペルトの楽曲の引用で、直訳すると「鏡の中の鏡」となる。例えばミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』などももちろん踏まえているのだろうけど、フランス現代思想にも造詣が深い吉田の作であればジャック・ラカンの鏡像段階の連想も当然の筋であるように思える。短歌定型に当て嵌めたリズムで読むと「シュピーゲル/イムシュピーゲル/呼気うすき」となるけど、やはりここは「シュピーゲルイムシュピーゲル /呼気うすき」と二句目まで読み下し、一泊置いて三句目のリズムの読みを誘惑される。その際の一拍の休符に鏡の世界の中の鏡の中の世界……の、うすい空気、息切れが表現されている、と思う。

れくゐえむ ながれよどみてさよふけてやよひのはるのゆきにほふのみ
/同

本歌集のなかに於いては初期の作風に近い、例えば第一歌集のほうに収まっていてもおかしくない一首だと思う。〈れくゐえむ〉を含むかな表記のみで歌い上げる調子は吉田が影響を公言している村木道彦のインスパイアがストレートに表現されている気がする。

天使の知性とひとの知性は明確に区別されつつ萱草にほふ
/同

一読、テッド・チャンの「地獄とは神の不在なり」を想起した。作中では天使と呼ばれる存在が降臨した場所に居合わせた人間に難病の奇跡的な回復をもたらすこともあれば、眼窩が失われたりもする。或る種の超常的な災害や現象のように描かれる。〈天使〉に対して〈ひと〉はかなで開かれているところにもその〈区別〉が反映されているように感じられる。

夏の最期のひかり浴びけむひさかたの天使住居街(ロス・アンジェルス)の浜田到も
/同 

白昼の星のひかりにのみ開く扉(ドア)、天使住居街に夏こもるかな/浜田到が詞書に据えられた一首。正直、この歌の本歌とりにして天使住居街にロス・アンジェルスとルビをふった時点で優勝……となってしまうのだけど、浜田到と言えばその散文的な独特な韻律感覚(塚本邦雄をして韻律音痴と揶揄された)で知られているのだけど、「夏の最期の」で初句七音になっていて破調になっているあたり芸が細かいと思う。


閉店まで店にいて、外に出ると雨が細く降っていた。解散のあとにササキリさんとコンビニで缶の酒を買って雨宿りしながらダメ押しの一杯を。川柳や、マラブーなど人文系の話をしながら完全に仕上がって帰路。久しぶりに歌人とリアルで色々と話せて脳が活性したのを感じた。


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