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すこやかに

走るための靴を買い替えた。

ブランド名がおもしろくて、マオリ族の言葉が由来になっている。
数年前からよく目につく様になり、流行りの形だったりすることもあって敬遠していた。年が明けて何か心機一転したいなと思っていた時、ちょうどこれまで履いていた靴の底がだいぶ擦り減っていたので、あえてそれを選んでみた。


いつの頃からか、生活の中に走ることがゆるく定着していった。毎日欠かさずとか週4でとか決まったルーティンはないけれど、散歩する様な感覚で思い立ったら走りに行く。生活する場所が変わっても、移り住んだ先でなんとなく自分なりのコースを選び、意識することなく続いてきた。

特にレースに出たいとかタイムを縮めたいとかいう目標は一切なく、ただ短い距離を何も考えず自分のペースで走っているだけだが、ここ数年は走りながら走行距離やラップタイムを教えてくれるアプリを使って少しだけ楽しんでいる。
今走っているのは、家を出発して近所の大きな公園まで行き、ジョギングコースをぐるっと2周回るコース。ちょうど6kmくらいになる。アプリの計測が正しければ、いつも1kmを4分半から5分の間くらいのペースで走っているとのこと。速いのか遅いのか全くわからないそれが、気温やコンディションの影響で微妙に前後する。今週は何回走ったとかいう記録も含め、蓄積されたデータから意識していない自分自身の情報が可視化されておもしろい。

走るのは決まって夜。なるべく人気のない時間帯や場所がいい。
走り始めは余裕もあり、周りの景色や自分の呼吸などと向き合っているけれど、自分にとってはそこまでのんびりしたペースではないこともあり、時間が経つにつれ頭の中がほぼ真っ白になる。瞑想の様なもので、何も考えない時間を作るのが苦手な自分にとって、走っている最中に自然と生まれてくる空白はとても貴重だ。身体を動かして汗を掻くことは身体的な健康に繋がるけれど、頭を空っぽにもできるから精神的な健康の方によりメリットがあると実感している。

常に何かしなければならないと、無意識のうちに大なり小なり自分に課した大量のタスクに追われ続けて、焦って苦しんでいることが少なくはない。一方で、走っている時も、結局は身体にストレスを与えるような動きを繰り返しているし、時折なぜこんなに苦しいことを自発的にしているのかという考えもチラついてくる。けれど、大部分の時間は、ただひたすら目の前の道を走るというタスクをクリアするためのモードに没入できる。たったひとつの単純なタスクに向き合い続ければよいので、自然と思考を伴わない空白の時間に身を置くことができる。なんと楽に居心地よい状態をつくり出せることか。冬場は特にいい、身体が一気に暖まる。自分自身が熱を帯びたエネルギーの塊の様になるから、走った後は暖房器具を使う必要もなくなる。ちっぽけな人間一人が、それだけのパワーを自らの内に秘めていることを身を以て知る。


そういえば、みんなで参加しようと誘われて、昼間に街中を走るハーフマラソンに参加したことがあった。大々的に交通規制をして、広い道路を埋め尽くす大勢の人たちがぎゅうぎゅうで駆け抜けていた。負けず嫌いなので他の人を追い越そうと無理をしたり、沿道に並ぶたくさんの人たちから向けられる視線が気になったりと、終始無心にはなれず、走り終えてあらためて、一人もくもくと薄暗い中を走るのが好みだと思い知った。
その後、同じ人たちで沖縄のフルマラソンに参加しようと誘われた。いつまで経っても誘いを断ることは苦手である。何か面白いことになるのではという好奇心の方が上回ってしまう。半分旅行気分で飛行機に乗り、現地に着いてから自分だけ事前エントリーし忘れていたことが発覚した。前回は他の人が手続きしてくれていたので完全に油断していた。早朝、スタート地点で他の人たちを沿道から見送った。ランナーたちが炎天下の中を必死で走っている間、きれいな海で泳いだり、見晴らしのいい料理店で食事をしてのんびり過ごした。数少ない沖縄の思い出が、延々と続く照り返す灰色のアスファルトではなく、どこまでも透き通った青い海で本当によかったと思う。


年末年始に帰省した時、何もやることがなく夜に毎日走っていたこともあった。車道から離れた街灯も何もない細い道。自衛隊の基地を大きく取り囲む柵と、どこまでも連なる畑に挟まれた道。手入れもされず、草木が自由にのびのびと生い茂っている。きっと遠くの方まで誰もいない静かな夜。月明かりだけを頼りにひたすら真っ直ぐに走った。初めは薄暗くて先が見通せず、真っ黒な分厚い壁の中を不安なまま突き進んでいたが、目が慣れてくると、月の光がこんなにも明るいものかと驚いた。暗闇にグラデーションが立ち現れ、道や建物の輪郭が浮き上がってきた。何も足さなくたって十分なほど明るいのに、普段の生活ではさらに照らさなければ満足できなくなっていることが残念になった。
抵抗するのではなく馴染むこと。落ち着いて見渡して寄り添うこと。そこに在るものを受け入れること。


暗闇を走る。
東北、海沿いの街を夜に車で通ったことがあった。まだ3ヵ月後くらいで、手付かずの瓦礫も残る、片付けすらままならない状態の時期。
ずっと走ってきた真っ暗な山道を越えて、遮る木々がなくなり視界が開けた。海に臨む街。まだそれ程遅い時間ではなかったから、ぱあっと街の明かりが目に飛び込んでくる、はずだった。街へと下る車道を走り続けても、車のライトだけが唯一の光源であり、あたりは静かな暗闇に包まれたままだった。まったく同じ場所に、つい最近までたくさんの生活があったことを想像することはできなかった。その光景を目の当たりにしながら、なにかそれに対する言葉をひねり出さないといけない様な強迫観念に駆られ続けたが、結局何ひとつ、取り繕った様な言葉すら出てこなかった。
周りに何もないだだっ広い暗い街道を走り抜けている間、嘘みたいに綺麗な星空が海を越えてどこまでも広がっていたことをはっきり覚えている。無数の星のひとつひとつが力強く輝いていた。それを見つけたわずかの間、さっきまで目の前に広がっていた真っ暗な現実を完全に忘れて、瞬く星々にただただ見とれていた。元々存在したはずの家々の明かりが、天地が逆転してそっくりそのまま空に移動した様な、そんな気さえする。ふと我に返ってなんて残酷で身勝手なのだろうかと自責した。あの夜の景色は忘れない。


太陽がいると月も星もほとんど見えない。太陽がいないと月と星がよく見える。太陽と月がいないと星がもっとよく見える。
作られた光が氾濫する。いったいどれだけのものを見落としているのだろうか。古くから人は暗闇に畏敬の念を抱き、そこに厳かで神秘的なものを見出しながら共存してきたのではなかったか。時代が変わった今、そういった関係性は非現実的で不要なものなのだろうか。今だからこそ生まれる暗闇との新しい関係性を見出すことはできないだろうか。誰もいない夜を走りながら感じた、自分の身体が静かに暗闇のグラデーションの中に溶け出していく緊張感のようなものを。


昨夜、自転車に轢かれた。
こちらも自転車で青信号を渡っていたら、真横から自転車が走ってきて、笑ってしまうほど鮮やかに轢かれた。気付くとアスファルトの上に寝転んでいた。一瞬何が起こったからわからず、ぽかんとしながら身体を起こしていたら、いつの間にか相手は走り去ってしまっていた。少しの間、右膝が痛かったけれど、一晩寝て起きたらなんともなくなっていた。あの人は何ともなかっただろうか。走っていて足腰が丈夫でよかった。でも体幹はもっと鍛えないといけない。無病息災。すこやかに。


「HOKA」は1回だけ。名前の勘違いを認識したのは、すでにそれを履いて走り出してからだったような気がする。


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