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ちょうどいい

漢字一文字のキーホルダー。
漢字をかたどったゴムの板に、キーリングが繋がっている。

就職活動をしていたことがあった。
いま振り返ると、その間ずっと夢を見ていただけかもしれないと思う。

もともと、当時よく聞いていた音楽の国内外のアーティストのレコードやCDをネット販売していて、時間が経つにつれ、いつの間にかとても大きな会社になっていた。業界先駆者となり、フレームワークは同じでもコンテンツの主体が徐々に別なものに変わっていった。
その会社の企業説明会で参加者全員に配布されたものだった。話や資料の中に「世界平和」という言葉が、さも当たり前のように繰り返し登場した気がする。
記憶が定かではないけれど、近場で開催する回の開催が終わっていたか何かで、当時暮らしていた茨城から、その1、2時間のためだけに夜行バスで広島まで向かった。
説明会の内容は全く覚えていないが、手元に残ったキーホルダーだけはなぜかしばらく捨てずにいた。

説明会の前か後、たしか広島市現代美術館に行った。何の展示をしていたか、どんな作品を見たか、それも全く覚えていない。
でも、強い日差しと屋外の真っ白いコンクリート階段だけは鮮明に頭に残っている。静かで人のまばらなその空間で、ぴりぴりと緊張していた身体がゆっくりとほどけていった。深く呼吸ができた。

その後、都心から少し離れたところにある、かっこいいオフィスに何度か面接に行った。アンディウォーホルか何かの、見たことのある大きなポップアートの絵が入り口に掛かっていた。

自由な社風を謳っていたので、当然のごとく面接などでも服装の指定はなかった。三次面接くらいで、当時古着が好きだったので何の気なしに、裾が擦り切れたボロボロのジーンズを履いて行った。そのせいだかわからないけれど、後日しれっと不採用通知が届いた。
きっと擦り切れていない方のジーンズを履いて行ったら、今頃はそのままその会社で働いていたのだと勝手に思っている。そちらの未来の方がよかったのか、悪かったのか、現時点では見当もつかない。この先、パラレルワールドとの連絡手段が発見されるか発明されるまで生き延びるしかない。特に知りたくもないけれど。

質問の内容を一つだけはっきり覚えている。
「自分を家電に例えると?」
たしか、「エアコンです!その場に合わせて、みんなが快適にいられるように、空気を暖かくしたり涼しくしたり調整することができます!」
だとかそういった、ありがちな、上辺だけで面白くもなんともない回答しかできなかった。今となっては、それを真面目に回答する自分を俯瞰してしまって、質問を聞いた瞬間にその場で笑いを堪えるので精一杯になるかもしれない。もしくは素直に、「年を重ねるごとに、速くて便利な方向とは逆行する向きに、ますます魅力を感じるようになってきたので、家電に例えられたくありません。」と天邪鬼なことをかっこつけて回答するのかもしれない。さらに、集団面接だったので、周りに同じ様な境遇の「みんな」が沢山並んでいたにも関わらず、その人たちには一切目もくれず、自分がこの面接をくぐり抜けることだけを考えながら回答していた。本末転倒だ。
一方で「みんな」も、他人の回答に反応を示しつつ、内心はお互いが面接官を観客としたその場限りの演劇をしているだけであることを、理解し合っているように思えた。本番までの練習期間が全くない、初対面同士の即興劇。それぞれにとって主役は自分でなければならない。ロールプレイングゲームで例えると、共演者は戦士や僧侶、またはモンスターや大魔王で、コントローラーを握っている自分が勇者。勇者以外の登場人物は、勇者が世界平和を取り戻すために命がけでサポートさせるか、倒すべき敵として命を奪うしかない。自分以外を、自分の都合のいいようにコントロールするか、排除するのが当たり前の世界。

みんなもらっていたはずのあのキーホルダーに、それぞれがもう少ししっかりと向き合えていたら、その場には全く別の新しい選択肢が立ち現れていただろうか。

当時の自分や「みんな」も含め、いま目の前に立ちはだかる問題をどうにかこうにかやり繰りするだけで精一杯な状況に置かれている人は少なくはない。程度の差こそあれ、余裕がない状況であればある程、自分の頭の中で条件反射的につくり上げてしまった妄想に取り憑かれ、悪循環に陥ってしまうことも。それが周りの人にまで簡単に影響を及ぼしてしまう怖さを孕んでいることも。そのような経験はしてきたし、自覚しつつ、未だにそういったネガティブな循環を自分から加速させるようなことをしてしまう。
各々の気分転換やストレス発散で、一時的に遠ざけることもできるかもしれない。けれど、あくまでも時間稼ぎで、根本的に取り除くことはできない。
社会保障などのインフラだけで解決できたり、軽減できる身体・精神的な負担も少なくはないのかもしれない。もちろん声を上げることは大切だけれど、それにはどうしても時間がかかってしまう。
それに、大なり小なり競い合う場というのは、事あるごとに避けて通れないものなのかもしれない。

些細な抵抗として、他者に対する自分だけでも、それが無理なら自分自身に対してだけでも、意識を変えることで何かすぐに実践できそうなことはないだろうかと焦って考える。
譲り合うこと。我慢すること。諦めること。「大人」として振る舞うこと。そういうものだと折り合いをつけること。自分も他人も完全に許容すること。いつかのキーホルダー。
そういったことを、自分を矯正するように自分に強制する。そうするとまた自分に歪みが蓄積される。いつかそれが爆発する。

誰だって、産道を通り抜けるため骨までふにゃふにゃの形も定まらない柔らかい状態で生まれてきたはずなのに、気づかないうちにどこか硬くなったり、鋭く尖ってしまっているところがある。すぐさまどうにかしなければと、もともとなかったはずの型に無理やり押し込めて、硬い部分や飛び出した部分をいっぺんに削り取ることはできない。
他人を傷つけるような申し訳ないことをしてしまった後、自らにずしりと重くのしかかる何かがある。せめてこんな時くらい、身体を地面に縛り付ける重力だけでもなくなってくれれば、誰も知らないどこか遠くへ飛んでいけるのにと思う。けれど、無重力でずっと浮いている状態が当たり前の世界には「飛ぶ」という概念が存在しない。飛び立つためには、その前提として重力が必要だ。
山の上のごつごつした岩が、川を駆け下りるにつれてまん丸な石になっていくように。空のずうっと先の方からやってきた巨きな隕石が、大気圏を通過しながら小さく穏やかになっていくように。
地球の重力は、そのために存在し、知覚されないレベルで常に私たちにも作用しているのかもしれない。ずしり、と感じられる時はその効果がいつもより大きくなっている時なのかもしれない。
身体の不要な凸凹が時間とともに、のんびり、自然と、地面に落ちて土に還っていくように。無理に頭で考えて自分を否定するところから始めなくても大丈夫、と地中奥深くから囁いてくれているのかもしれない。
全部いっぺんにじゃなくていい、ゆっくりでいい。ゆっくり、じわじわ、自他の相乗効果も相まって、そのうち不要な部分は溶け落ちて、それぞれがそれぞれの形で滑らかになっているはずだからと。


あの会社のことを調べてみる。音楽の販売部門は随分前に無くなっていた。
キーホルダーも、いつかの引っ越しで処分してしまった。


最近、出会ったお面。目的も出自も分からない。
ひと目で魅了された。売っていた方の名前が素敵だったこともある。
手元に届くまでのやり取りで「なぜこのお面を買おうと思ったのか教えてもらえませんか?まさか誰かに買っていただけるとは思っておらず…」と聞かれ、そのようなことを答えた。逆に経緯が気になって質問したところ、いまは亡き海外旅行が好きだった父親が、ずいぶん昔に旅先のどこかで出会ったものとのこと。母親から「なんでそんなもの買うの?」と言われても一切気にせず、満足げに持ち帰ったものだそうだ。最高だ。お面とそのエピソードだけで人柄が分かった気になる。

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尖ったツノは生えているけれど、見た目は真っ黒で少しゴツゴツしているけれど、それでもこんなおっとぼけた顔で自然に笑えてさえいればいい。

それくらいで、ちょうどいい。


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