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20180104

雨の音、暖炉の薪が燃える音、その上のヤカンが小刻みに沸騰する音。それだけ。

ぼんやりした暖かい灯りの中で、窓から見えない夜の遠くを眺めてる。遮るもののない、真っ暗な、果てしない、遠く。

昔からの友達が作り直した、小屋みたいな居心地のいい部屋で。今となっては定期的に会う古い友達なんてほとんど居なくなった。

飲んで、いつものようにすぐ眠ってしまって、いつものように終わってから起きて、ひとりになってぼうっとして。
まだ23時前。ぽっかりできたその時間で、なんだかこっちに来て考えたことを、感傷的になっている内に漠然と残したくて、文章を書いている。

せっかくの新年だし、何か新しいことをと思って、ここに書くことにした。昔つくって、例のごとくネットの海に漂う小さな発泡スチロールの破片になっていたアカウントを、引っ張り出してきた。何か訴えたいことがあるわけでも無いし、為になる情報を提供できるわけでも無いけれど、人目につく状況にして多少自分の背筋を伸ばしてみるつもり。


暖炉に薪を焚べる。

久しぶりに年末年始に年末年始らしく九州に帰ろうと思ってそうしたら、そういえば去年も同じようにしていて。
恐らく郷土愛は強い方じゃないし、あまり特定の場所に固執したくないという想いはあるけれど、やっぱりここだと肩ひじ張らなくていい緩さはあるなあと思う。常に新しい何かを追いかけ続けないといけない強迫観念とか、はみ出してはいけない倫理観とかそういうのがもう少し緩い感じ。

根を下ろして地域に溶け込まざるを得ない状況になると、しがらんだ現実が立ち現れるのは目に見えているんだけれど。距離を置いて眺めている内は、隣の芝生の青さを綺麗に重ねてしまう。


暖炉に薪を焚べる。

こっちに来てから、朝起きて楽器を叩いて、暗くなって走って、をずっと繰り返している。久しぶりに常に身体が動いていると感じる。気持ちがいい。

後はひたすら水を飲んでいる。水道水がとても美味しい。改めて、自分には綺麗な水とポカポカした日差しが必要だと思った。生活していく上でその二つが最低限満たされていれば、割とどうにかやっていける。身体の内と外。冷たく洗い流して、暖かく包み込む。水と光。

走っていたことで、光だけじゃない、静かな暗闇の心地よさも再認識できた。これを書いている今も、まさにそう。

走っている最中に立ち止まって残していたメモ。ここ数年エモくなると、恥ずかしげもなく、詩人見習いにでもなったつもりで謎なことを書いたりする。それを後から見つけ、まんまと恥ずかしくなる。こういった行為を純粋に捉えて、斜めから見なくなることができればいいのだろうけれど、まだ自分を俯瞰してしまう。

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電灯もない暗闇の中をひとりで走った。
月明かりだけが頼りで、木々の間から差し込む光だけが救いだった。

手入れのされていない、草木が好き勝手に伸び伸びと生い茂る、車道から程遠い歩行者専用の道、誰もいない、誰かいたとしても気づかない、そんな道。

光が溢れる中でさえたくましく輝く光と、闇に満ちた中にか細くちらつく今にも呑み込まれてしまいそうな静かな光、その後者にずっと惹かれる。

光を追い求めて身を粉にして焦って動き回るのではなく、暗闇と仲良くなればいいだけのこと、陰翳礼讃、ただそれだけのこと、静かなこと、暗闇に包み込まれること、ただただそれだけのこと。
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楽器のこと。
スチールパンは、今まで触った楽器で初めてひとつひとつの音をしっかりと意識できるような、そんな気がしていて。最近ずっとひとりでやっていたけれど、去年の秋に黒岡さんと一緒に東北でやらせてもらった時に、他の人と合わせる楽しさも教えてもらった。
リズム感が全くないので基礎から危ういけれど、精神と時の部屋にこもってひたすら叩いている内に、少しずつ気付けていなかったことに気付けている。今のところの最終目標は、ピアノを弾いているみたいなイメージを想起できるようになること。ピアノの代替になるのではなくて、あくまでもパンの音だけど、ピアノの音を聴いている時のような。まずは夏に向けて少しでもベースを上げないと。決意表明、自分を追い込む。本当に貴重な機会を頂いた。


暖炉に薪を焚べる。


後はなんだろう。そう、今日は耳鼻科に行った。年末から右耳が聞こえにくくなっていた。原因は分かっていたけれど、耳の聞こえにくいひとの世界を少しでも分かりたいとかいう不謹慎な動機から、そのままにしてみていた。振り返ってみると本当に身勝手だ。鼓膜に張り付いたゴミを取ってもらい元通りになった。

小さい頃に通っていた病院は、そっくりそのまま変わらずそこにあって勝手に安心した。
おじいちゃんだった先生も、おじいちゃんのまま優しくそこにいて勝手に安心した。
長い間離れて戻った時、積もり積もった時間が目の前で急激に流れていく悲しさや怖さが苦手だ。それがなくてほっとした。

毎日歩いていた広い畑ばかりに囲まれた道の両脇には、同じような形やサイズのピカピカの新築が建ち並んでいた。全く忘れてしまうことができればいいけれど、中途半端に思い出せなくなることも同じく怖い。
こういったことも、距離を保っているからこその身勝手だ。


暖炉に少し大き目の薪を焚べる。


もう少ししたら向こうへ帰る。
向こうから帰って来たはずなのに、向こうへまた帰る。

現在地と目的地。滞在した時間に依る感覚尺度で、認識が変わってくるのだろうか。
故郷ではない場所にとても長く生活することがあれば、故郷に’’帰る’’という認識が’’行く’’という具合に変化することもあるのだろうか。常に転々としている人からすると、故郷という場所に縛り付けられる概念すら持ち得ないのかもしれない。経験や記憶の違いでも、個人の時間の長さが伸び縮みする。

空港から帰る。空港は好きだ、場所と場所の間を結ぶ通過点。
そこもまた場所であるが、宙ぶらりんで定まっていない、通り過ぎる全ての人々が数センチ浮いているような、そんな場所のように思える。どこか遠くへ、ここから居なくなって、あそこに辿り着くために向かう場所。駅やバス停だってそうだ。

生まれ育った家だって、いつか旅立つその時までの一時的な通過点かもしれない。どこだって何だってそうなり得る。生きているこの世界もいつか死ぬための通過点だとか。生まれてから死ぬまでと、死んでから生まれるまで。


雨の音が強くなる。


無宗教だしスピリチュアル成分も含んでないけれど、死ぬとか生きるとかそういうことを自分勝手に想像するとわくわくする。

こういう無駄なことを考えていると、数珠繋ぎにどんどん思考が発散していくから、意味もなく誰かと対話できたりしたらいいなあと思う。そういう無駄な時間を、今年はもう少し増やせたらなあと思う。


眠くなる。
暖炉に最後の薪を焚べる。


結局、だらだらした、ただの日記になってしまいました。

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします(犬)


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