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人生は、舐めてるくらいがちょうどいい


新年度が始まり忙殺される日々を送っている社会人も多いのではなかろうか。
この記事は、そんな人にこそぜひ読んで欲しい。



今回は、私が忙殺される日々を捨て
瀕死のメンタルを蘇生したという経験から

人生、舐めてるくらいがちょうどいいやん!


という結論に至った理由について綴る。



「忙しい」という言葉


"心が亡くなる"と書くが、本当にその通りだと思う。


地域の繋がりが薄くなり、社会的な関係が減ったことで
ただでさえ孤独感を抱える割合が増えている現代人。

物理的には、他者と関わりながら生活していても



ぽつん。

と何故か1人でいるような感覚になることに加え
仕事に、育児に、家事に・・・

常に何かに追われていたり
どんどん心が亡くなっていったりするような感覚
を味わったことはないだろうか。


しかも本当に心が亡くなっている時は、その自覚がなく
周囲に心配されたり体に不調が出たりした時にやっと気付く場合も多いように思う。

何でも、最近はメンタルクリニックの需要が高いらしいが、いざ不調を感じてクリニックを探したとて
最短で2週間後にしか予約できなかったり再診しか受け付けていなかったり等で「今!行きたい!」という時にすぐ診てもらえない・・・
なんてこともザラにある。


自覚のない馬車馬


隙間なく忙しくしていないと気が済まず、馬車馬のように働いていた時代。

1日平均18時間、業務や仕事関係の準備、スキルアップのための勉強等に時間を費やし休みなく働く。


仕事がない日も計画通りタスクをこなすことと
生産性のみを考え、常に分刻みのスケジュールで動く。
何に関しても時短重視で、無駄を許さない。

自分に厳しくなればなるほど他人に対しても心が狭くなり
自分の器の小ささ
を感じたが、それでも仕事に関して
"きちんとしたいし、するべき"という厳しさはどうしても捨てられなかった。

自分の価値観を人に押付け、同じような厳しさを持つことを強制しようとしてしまっていたのである。



そうやって、何ヶ月も休みが休みじゃない状態が続いたが
そこには漠然と"休むことへの恐怖"があった。
そのため、どんなにキツくても止まることはできず
ただひたすら走り続けたのだ。

忙しなく過ごしていると、あっという間に1日が終わっていく。
予定通りに過ごせた達成感や充実感と、増えていく売り上げや実績数で何とか精神を保っていたように思う。
毎日これの繰り返しだった。

そして自分の色んな気持ちに蓋をしすぎたせいか
何に関しても感情の動きが鈍くなっていくことに薄々気付き始める。

食べたいものも、見たいものも、心躍るものも・・・
当たり前にあった欲求がいつの間にか分からなくなっていったのだ。

好きだったはずの音楽を聴いても
面白いと思っていた動画を垂れ流しても
何も感じない。

更には、当初一番のモチベーションになっていた
目標月収を達成しても、喜びすら感じられなくなってしまっていた。


負けられない戦士



畳み掛けるように出てくる不調は見て見ぬふりをし、負けん気で抗う。
また、周囲に伝わるくらい無意識に気を張っていたようで人から「戦士のようだ」と言われたこともあった。


何と戦っていたのかは分からないが
休んだら負けだと思っていたような気もする。
そして何故か"負けるのは死と同等のダメージがある"
と思っていたのだ。

別に負けたって死なんのにね(笑)


そのため、当時は何があったとしても
休むという選択肢はなかったのである。



ストレスで髪の毛が抜けたらウィッグを被り
不正出血が止まらなければ飲む薬の量を増やした。
胃が痛くても笑顔を張り付け気力で乗り切り
訳も分からず突然出てくる涙には
それっぽい理由をつけて自分自身ですら誤魔化す。

そんなことをしているうちに
自分のことがどんどん分からなくなるが、最早それにすら気付かなくなる。
というより、気付けなくなっていく。


立てた目標を達成しては、また新たな目標を立て
自ら仕事をする理由を次々と生んだ。

働く中で、やり甲斐や楽しさを見出しながら
"好きでこんなに仕事をしているのだ"と騙し騙し働き続けた。

が、そんな状態をいつまでも維持できるはずがない。


突然のぼっちニート爆誕


余裕がなくなるくらい必要以上に追い込んだことで
自分自身のことも、身近な人のことも大切にできなくなり
心の準備をする間もなく1人になってしまった。

それをキッカケに「何故こんなに頑張っていたのか?」と疑問が浮かんできたのである。
そして、心を亡くすほど頑張り続ける理由はないことにようやく気付いた。

本心では、そんなに忙しくしたくないし
バリバリ働きたいだなんて微塵も思っていなかったのである。



それなのに、目に見える結果だけが自分の価値だと思い込み何者かになろうとしていた。

そのため漠然と
"休むことへの恐怖"を感じていのだった。

しかし実際は、目に見える結果だけにこだわる必要もなく
何者かになりたい訳でもなかったのである。

いつまでも自分で自分を認められない限り
どんなに頑張っても、どんなに結果を出しても
人から褒められることを素直に受け取れず挙句の果てに

「私には何もない、何もできない」

と勝手に落ち込む。

そんな状態になっていたことに気付き
ようやくこれからは
"自分の価値は自分で決める"と決意することができた。
そして積み上げてきたものへの未練は少しあったものの
思い切って仕事を辞め、少し休むという選択ができたのだ。



ニートになり生き返る


余裕が生まれると"無駄を楽しむ"という今までの生活にはなかったことが追加され、自分の心の動きが元気になっていくことを実感できた。


天気の良い日に外を散歩するだけで気持ちが満たされたり
友人と四季を味わって感想を共有するだけで楽しい時間を過ごせたり・・・

「あぁ、小さなことでこんなに気持ちが満たされるって、すんごい幸せやな。」と感じられたのである。

今までは、天気が良いかどうかなんてどうでも良かったし
四季はサービスの販促イベントの企画として使うだけだった。

これに関してはそれぞれ価値観があると思うが
少なくとも私には、このように心を亡くして感性を殺すような生き方は合っていなかったのだ。



メンタル蘇生法


自分の本音に目を向けたことで
今の自分が本来の自分とかけ離れていることに気付き
身を置く環境や行動が変わって精神的な余裕も生まれ
瀕死だったメンタルが回復し、生き返ったのだった。

しかし、これはあくまで私の場合であるため
全員に「今すぐニートになるんだ!」と言いたい訳では無い。

ただ、忙しない日々の中で

心が亡くなってしまっていないか?
もし余裕がないなら、その忙しさは今の自分に本当に必要なことなのか?

 

と一度立ち止まり、考えてみて欲しいのだ。

そして浮かんでくる感情は否定せず受け止め
どんな自分も認めて、受け入れて欲しい。

つまり、まずは自分の本音に気付くことが最初のステップなのだ。
これは表面的な意識ではなく、もっと深いところを見るのがポイントである。

とは言っても、自分の本音をスルーしてきた人ほど
一人で考えたところで答えが出ない場合が多い。
そんな時は、周りの人に相談したり
占いで新たな角度からのアドバイスや視点をヒントに
本来の自分を辿ってみたりするという手段も
選択肢として持っておくのはどうだろうか。

とにかく、どんなやり方でもいいので
自分の本心を掘り起こし
失われている本来の自分に気付くことが重要なのだ。

私の場合は"いきなりニートになる"
という突飛もない行動で、本来の自分とかけ離れた自分を強制終了したため、あまり再現性のないやり方ではあるが・・・結果として

自分らしさとは何なのかを思い出すことができた。

更になんと、自分らしい生き方に戻ってきてからは
キツくて辛い思いではなくワクワクして楽しい気持ちを大切にすることで、それが原動力となり
次々と思い描いていた理想が叶っていっているのだ。

これには、我ながら現実化するスピードが速すぎることに驚きの連続である。



人生は、舐めてるくらいがちょうどいい


随分遠回りをしてしまったが

"苦行のようなことをしなくたって望む未来は手に入る"


というのは、どちらの方向にも振り切ったことのある私だからこそ説得力の増す主張だと思う。
そして今までの経験を占いの「鑑定」という形で人の役に立てられているのだ。

そのおかげで、遠回りをしてきたことも
今の自分を構成している要素なのだと感じられ
自分自身や自分の人生を好きになることができた。


キツくて辛い思いをするような努力を避けるのは

人生そんなに甘くない!
世の中を舐めすぎ!

という声が飛んできそうなものだし、実際私もそう思っていた。
しかし、それもその人が望んだことや思い込みが現実化しているだけなのだ。

苦労して成功したというのは、その人が通ってきたルートでしかなく、絶対的な正解ではないのである。

もちろん「何も努力せず成功したい」
「惰性的な過ごし方をしていたい」と思ってOK!ということではない。

あくまで必要以上の厳しさや意味の無い苦行
手放した方が上手くいくということである。
つまりそれぞれ"自分に合ったがんばり方"があるのだ。


こういう考え方を、舐めてる!と表現されるとした上で
「風の時代」と呼ばれる現代の流れに合わせるならば


人生は、舐めてるくらいがちょうどいいのである。


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