『サファイアに薔薇』を読んで(2,335文字)

鳥居王国第1回玉露文大会に参加するため、このnoteのプロフィールを設定した。
鳥居王国の住人であるわたしとしてはこの玉露文大会に参加する以外、選択肢はない。

画質ガビガビなってんじゃん

概要はこれだ。
もっとも、最初は5,000文字以上だった。
400字づめ原稿用紙12枚分だ。
相変わらず鳥居先生はテロリストのような要求をしてくる。


ところでわたしは今、目がよく見えない。
病気により網膜が圧迫されてピントが合わないのだ。
なのでとっくの昔に既読である『サファイアに薔薇』の読書感想文になることを許して欲しい。
つまり──『オーバーソシャク/ダイナマイトエンゲ』等の新作は読んでいない、ということだ。
読んでいないし、しばらく読むこともない、と告知しておこう。
もちろん、視力が戻ったら、読む。


サファイアに薔薇 / 鳥居ぴぴき
https://note.com/pipipipiki/n/nec8112b58d03?sub_rt=share_b


とはいえ『サファイアに薔薇』は鳥居作品の中で最も好きな短篇小説だ。
初めて読んだ時には登場人物であるサファイア──本名、石崎桜──の描写に唸ったものだ。
鳥居先生は心の中にJC(女子中学生)を住まわせているのか?と思った。

彼女は変わっているようで、その実、普遍的な思春期の女子だったからだ。

わたしは一応女性(かつての女子)なので、そういった目線中心の感想文になるが、お許しいただきたい。

サファイアの唯一の友人である、ひとつ年下の大木岳の視点から物語は始まり、岳がサファイアから受け取った手紙の内容で終わる。

サファイアはいわゆる『厨二病』で『不思議ちゃん』である。
エログロ・ナンセンスな文化に傾倒していて、学校でももちろん浮いている。


どうしてサファイアのような女子は“発生”するのだろう。


わたしが思うに、サファイアが学校で浮いてしまっていた(それはもうぷかぷか浮いていただろう)のは、単に自分の気持ちや個性や思考を、上手く隠せていなかっただけだと思う。
つまり、浮いていない女子たちは上手く“外用(そとよう)の顔”を演じていただけで、中身はサファイアと大差ないのだ。


主語がデカすぎるのは承知だが、あながち間違っていないと思われる。
サファイアの気持ちがわからない思春期女子は、いない。


女子は友達といえど、なんでもかんでも本当のことを言ってはいけない。
本当のことを言わない方が多い、まである。

小学校低学年からそういった暗黙の了解を形成していく。
誰かの顔を立てたり、誰かの顔を潰さないように裏回ししたり、嗅覚でキーパーソンを絞り、その人物のお伺いを立てていく。



馬鹿な生き物だと男性陣には笑われるだろう。




ちなみに高校の文化祭の準備などで、活発な女子学生が「ちょっと男子ー!ちゃんとやって!」などと怒ったりするが、あれは本気で言っている。
男子学生はたまに、一見まとまっている風に見えるが心はバラバラ、みたいな状況になるが、女子では一切ありえない。
横に繋がって、力合わせてちゃんとせな、なんとかせな、というのが女子である。


てめぇの腕力、能力、与えられる権限には限界がある、ということをよく知っている。


もちろん、みんなで力を合わせて何かを成し遂げるのが青春だともいえるが、一方で女子ってすげえ冷めてないか?という話である。



人生は往々にして『生きるとはなにか?』との勝負である。

生きるための生活はやがて、生活するために生きることになる。
人生は予測可能であり、数字で表せられることが事実となり、あいまいは理解されず、心震える瞬間も愕然とする瞬間もあって、それらすべて美しくて、意味がない。


女子は思春期に入る頃にはそういったことを悟り始める。
男性女性問わず、耐えがたい人生を送ることになるのか、生きるに値する人生を送ることになるのか、人間は自分で選べない。
焦る。
なんとかしなければいけない。


焦るけど、みんなそんなことをおくびにも出さず、学校へ行き、プリを撮り、スタバへ行く。


サファイアは上手く割り切れなかっただけだ。
外面(そとづら)と本当の気持ちのプレイヤーチェンジができなかっただけである。


サファイアの“中”ですくすく育つ薔薇の花と棘はサファイア自身でもある。
このだだっ広い世界にぎゅうぎゅうに押し込まれたサファイア。

植物ってどうやって育つの?
痛みってなんなの?

どうして太陽は輝くの?
どうして海は波打つの?
どうして鳥はさえずるの?
どうして星は煌めくの?
どうして心臓は脈打つの?
どうして涙は溢れるの?

である。

スキーター・デイビスの“the end of the world”並みの質問数だ。



サファイアは全部を知りたかった。
『この世のこと』を全部知りたかったけど、無理だったのである。

“全て”の仕組みがわかったら人生が楽になるだろうと考えたのだろう。


結果として彼女の人生はもっと苦しくなったし、摂食障害や幻覚・妄想、自傷行為まで発症するに至った。


心も人生も、システムではなかったのである。




鳥居先生はサファイアがその後どうなったであるとか、自傷行為がどうであるとか、そもそも人生がどうであるとか、生きるとはどういう仕組みなのかなど、言及したりしない。
読者に考えさせることすら求めていない。

サファイアって女の子がいて、入院して、手紙がきました、終わり。である。


もしかすると思春期女子のみならず、人類は体の中に薔薇を“飼う”ような、そんな思いをしてるんじゃないか。
刺々しい薔薇が体の中のあっちこっちをぶっ刺して、血が貯まっていくような思い。

皮肉にもその薔薇が自分自身であることを知りながら。


鳥居先生は事実を陳列しただけである。


それに勝手に反応して、サファイアの痛みに共感したり、なぜ・どうしてと考察して自分の人生と重ねたり、わたしもまた『厨二病』から抜け出せないままでいるのかもしれない。



以上が『サファイアに薔薇』の読書感想文になるが、この32GB中、30GB使用中のiPhone7で頑張って目のピンぼけと闘いながらこの文章を打ったことを褒めてほしい。
打っても打っても全然ロードしないんやもん。




というか、玉露文(ぎょくろぶん)って何?

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