とりとめなく考えていたこと

とりとめなくいろいろ考えてみることはも

う癖といっても良いレベルである。


まあ、今が就活中で時間があるからというのもあるだろう。
たまに悪気なく「目が見えるようになったら良いのにね」という直接的な表現でこえをかけられることがある。
そんなときは、「そうですね。」なんていうとりあえずの返事をしておくのだ。そんなこたあないって思っている自分に嘘をついて…


さて、このずれは一体なぜ生まれるんだろうか?

ある日突然俺のような物心つく頃かその前に資格を失っている人間がちょっとした手術やなんかで視力を取り戻せるとしよう。
そうすると一体何が起こりえるのか、どうなるのか、考えてみた。実にくだらないかもしれないのだけど、少なくとも俺は見えるようになったら良いと素直に思えない理由がこれでわかった気がするのだ。


まず、手術などして、術後、何が起きるのか、順を追って考えてみよう。
意識が戻ってきて、しっかりしたとき、最初に、眼帯を外すことになるだろうが、これがものすごい恐怖であろうことは想像に難くない。


見えるようになるのになぜ?何が怖いの?というところを説明してみると。


1.色覚という新しい感覚にパニックになるであろうこと。
2.見えるものすべてを処理する速度が追いつかないだろうこと。
3.自分の身体のバランスが全く訳のわからないことになるであろうこと。
そんなことがあるのじゃないかと思う。
眼帯を外すであろうその手や、指先、その空間にあるすべてのものが洪水となって見たいと思うかどうかを別としても押し寄せてくることが恐怖じゃないはずがないのだ。


そんなわけで、見るべきものを見て、見なくて

良いもの、気にしなくても良いものをより分けるというリハビリはなかなかの困難を伴うのではないだろうか。


そして、そのリハビリをどうにか済ませて、実生活に戻ったとする。
次に問題になるのは、文字の読み書きであろう。文字の認識がないだろうタイミングでパソコンやスマホ、印刷物に触れてしまうと、それが絵なのか文字なのか、そもそもやはり洪水に耐えられないだろうと思う。


「見えること」と「見て読むこと」は似て非なるものである。
見たいタイミングでだけ何かを見るということは不可能なのである。


そう考えると、こんな40年以上見えない世界にいて、いきなり見えるようになっても学習する時間や、それに費やすだけの労力、様々考えると疲労感の方が大きいのじゃないかと思えてならないのだ。


もちろん、生活に何の心配もなく、時間もお金も全く心配する必要がない、なんていう場合は、リハビリに費やしても良いのかもしれないけれど…。


なんていうことを考えていると、果たして見えるようになったら良いといえるのかどうか、俺にはわからないのだ。
まあ、見てみたいものが何かあるかと言うことだけフォーカスして、リハビリやなんやらという現実的なところをすっ飛ばして考えると、愛する妻の顔や、一緒にいる盲導犬たち、前の盲導犬たち、自分の両親や兄弟、空や花、山や海を見てみたいとは思うのだけれど…。


でも、見えるようになってすべて解決するわけじゃないのだ。世の中がハード的に便利になることはもちろん良いことだとは思うけれど、やはり人の力、思いやり、想像力にかなうものはないのじゃないかと思うのだ。
なんだかここまで書き殴ってきて、俺は何が言いたいのかわからなくなってきたのだが、まあそんなのはいつものことだろうか?
さあ、こんな記事、誰が隙を突けてくれるかわからないけど…。まあそんなことを考えてる中年のおっさんがこの世界にいるって言う話である。

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