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【書評】『証言モーヲタ』

吉田豪著の『証言モーヲタ ~彼らが熱く狂っていた時代~』は、モーニング娘。の全盛期にモーヲタだった15人に、あの頃の娘。との関わり方を取材してまとめた本だ。

娘。の全盛期とは、後藤真希さんが加入した1999年8月から、ハローマゲドン(ハロー!プロジェクトの大規模改変計画)の発表を経て彼女が脱退する2002年9月末ぐらいまでを指す…と理解して差し支えないだろう。

面白かったのは現在のアイドルヲタクとの共通点と相違点だ。

共通点は人がアイドルにハマる背景だ。本書に登場するモーヲタの多くが仕事や家庭(恋愛)に行き詰まりを感じてアイドルヲタクになっている。著者の吉田氏は様々な媒体で「アイドルは心の隙間に入り込んでくる」と言っているが、私自身を振り返ってみても説得力がある主張だと思う。

実際に私と私の周りにいるヲタクを見て、特にアイドルヲタクの一大勢力である「おじさん」は、仕事人あるいは家庭人としての天井がおぼろげながら見えてくる時期に、アイドルにハマる人が多いと感じている。

「おじさん」たちはキラキラしたものに触れることで心の裡にできた隙間を埋めているのかもしれない。少なくともアイドルに触れている時間だけは俗世の何もかもを忘れて、青春に戻ったような気持ちでコンテンツに没頭できる。長い目で見てそれが幸福なのか不幸なのか、私自身ももう少し先に進んでみないと分からないが、アイドルにハマることで目先の日々を生き抜く活力を得ている…そんな実感は抱いている。

次に相違点だが、アイドルとの距離感だ。本書には娘。のメンバーとモーヲタとの交流がほとんど描かれていない(例外は、実家が居酒屋を経営していた後藤さんのケース)。それは交流の手段と場が少なく、しかも限られていたからだ。

本書に登場するモーヲタの活動と、現在私が主戦場とする地下アイドル(=ライブアイドル)ヲタクの活動との間には隔世の感がある。また、ヲタクの意見や「爆音娘」といった草の根の活動が運営やメンバーに直接届きにくいという意味で、本書の舞台である20年前はどことなく牧歌的だ。

しかし、20年前に比べると現代はアイドルとの距離が相当近くなっている。これはチェキ(接触を媒介とした小口のパトロン制度)とSNS(Twitter等を使った情報の発信と交換)という2つのイノベーションが広く普及した結果だろう。
現代の地下アイドル界では、Twitterで日々リプライを飛ばし、ライブ後の特典会で演者と言葉を交わすといった直接的なコミュニケーションが日常となっている。私自身、今でもふとした瞬間に、この距離の近さを信じられないことのように感じることがある。

本書に登場するモーヲタはハローマゲドンを契機として娘。から離れた人が多い。つまり、マスをターゲットに既製品として提供された音楽・動画・グッズ等のコンテンツ(本稿では便宜上「ハードコンテンツ」と呼ぶ)そのものがヲタク本人の嗜好に合わなくなったから、というのが他界の理由だ。健全だと思った。

一方で、現在のヲタクは、演者との個別の人間関係までもコンテンツ(こちらを「ソフトコンテンツ」と呼ぶ)として見ていて、ハードとソフトの両輪で提供されるサービスを楽しんでいる。

このソフトコンテンツはハードコンテンツと比べて、人間が持つより高次の要求(承認欲求)に根差したサービスだと言える。従って、先の2つのイノベーションが浸透した2010年代半ば以降のアイドルのソフトコンテンツ化は、本当に様々な問題を抱えてはいるものの不可逆的な変化で、この先アイドルがハードコンテンツのみを供給する時代に戻ることないだろう。

話を元に戻す。このハード及びソフトコンテンツの時代を迎え、本書『証言モーヲタ』が描く時代と比べてヲタクの思考様式がどう変化しているのかに、私は強い関心がある。

特に現代の地下アイドルヲタクは何を契機としてヲタクを辞めて日常生活の輪の中に戻っていくのか?
もっと言えば、ハードあるいはソフトのどのような変化がヲタクを引退に追い込むほど強いインパクトを与えるハローマゲドンとなり得るのか?
さらに欲を言えば、他界の原因はハードとソフトのどちらかの変化が主因なのか?その具体例を知りたい。
きっと『証言モーヲタ』に登場する15人から得られたものとは、全く異なる示唆が得られるに違いない。

そして、私がそれを知りたいと思う理由は、この趣味をどう軟着陸して終わらせようかと考えているからでもある。

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