いのちの手触り

昨年の夏頃、自殺を考えていた。
うつもひどかったし、とにかく自分自身を責め続けることをやめられなかった。今までの自分の経験を思い返し、上手く行かなかったことばかりを思い出して、また、自分を責めた。
これからも上手くいかないんだろう、そういう思いがずっと頭の中で渦を巻いていた。

「苦しいんだ、もう嫌だ」
家族の留守を見計らい、一階の台所へ向かった。
流し台の下から包丁を取り出し、左手首に当てた。
リストカットだけで死ぬのなら相当な血を出さなければいけない。かなり深く抉るような角度でいかなければ無理だろう。そんなことを考えながら、左手首に包丁を滑らせた。
わたしの左手から血は流れず、傷も付いていなかった。
右手に持っている包丁を持ち直し、刃先を上に向け、包丁の先端を自分の胸に向けてみた。自分の心臓にこれを突き刺すのは難しいと思った。

結局、死ねなかった。
果たして死にきれるのだろうかという疑念がわたしの手を止めた。
自分で自分を殺しきるということがわたしにはできないと思った。
自殺による死亡者数というデータはよく見るが、自殺に踏み切ったが、死ななかった人、実行すらされていないが、計画を立てている人、自殺という文字が頭をよぎる人を合わせると相当な数となるだろう。
なんとも悲しい事実ではあるが、自殺を遂行し終えた人というのは本当にどうしようもない状況であったか、またはそれほど自分に厳しい方だったのかと、その状況を想像してしまう。

自分の体に傷さえ付けられなかったわたしはどうすればいいのだろうと絶望と対峙した時。
「じゃあもう生きるしかない」とあっけなく思えた。絶望が底を打ったような感覚があった。
死ねないのなら、生きるしかない。
あまりのあっけなさに呆然とした。わたしの決意は?一度決めた行動を成し遂げたいという自分への期待。
振りかぶった右手は行き場を失くしたが、新たなものが手の中に収まっていた。

呆然と脱力する中、ふと頭に浮かんできたのは「なぜわたしなんだろう」ということだった。
これはつまり、なぜわたしの身体にわたしの精神が宿っているのだろうかという疑問だった。

「わたしがわたしとして生まれてくる確率」とスマホで検索した。
もちろんそんな答え、誰も持ち合わせていないのが当然で、天文学的数字というのが関の山だった。
そういう超高確率なくじを引き当て、生まれてきた自分の命を自ら投げ出すということは果たしてどういうことなんだろうか。生まれてきた自分、今まで生きてきた自分、今ここに生きている自分という存在を客観的に捉え直してみると、自分が自分でないような不思議な感覚になった。

わたしは自分が生きていることをやたらとファンタジーのように感じられるときがある。広大な宇宙の中にふわふわと浮遊する自分をイメージし、その自分が大きな時の潮流の中にいるような感覚をその時に感じた。

そんな出来事があった3か月後、図書館で何気なく手に取った本の中に、自分が持っている疑問の最適解を見つけたような気がした。

「私はこれまでに二度自殺を考えたことがある。」という文から本書は始まる。
『大河の一滴』は平成11年に発刊された本だが、今生きているわたしと出会いを果たした。

「上手くいっていない」つまり社会的価値を自分に見出せなかったわたしは死を選ぼうとしたわけだが、そもそも社会的価値と命の価値は等しくないはずである。
絶望の渦中にいるときは、視野が狭まっている。うつがひどい時は、どうしても冷静な判断ができないし、理論的に考えることもできない。
そもそも自分が思っている「上手くいく」とはどういうことだろう。
わたしが思っていたことは、自分がいかに社会に貢献しているか。それに伴う成功体験。仕事のやりがい、交友関係の多様さ、生活水準の向上などである。
こう書き出してみると、欲張りだなとも思うが、こういう意識は現代を生きている人なら割と共通して持っているものではないかと思う。

私たちが普段考えている人間観。人間をいくつかの成功した人、立派な人、ほどほどの人、平凡な人、失敗した駄目な人、というふうに分けていく。
(中略)
社会の役に立つ人間は立派な人間である。存在する理由がある。社会の役に立たない人間は存在する理由がないという考え方。

大河の一滴

このような考え方は事実として存在していて、それに囚われすぎてしまうと、自分を認められなくなり、自分を傷つけ、また、その刃は他人へと向かっていってしまう。
ありのままの自分でいいと自分に言ってあげられないことは辛いことだ。

わたしの幼少期から思春期にかけての時代のことを思い返していくと、メディアの影響はかなり大きいと感じる。
成功した人間をもてはやし、それが最も価値のあることかのように語られる。明るい人間は素晴らしいし、友達は多い方がいい。恋愛において誰かに選ばれることはとても刺激的で人生を鮮やかに彩る。
大勢の人に向けられたメディアからの偏った発信。そういうものから価値観というのは少なからず形成されていってしまう。
大事なことだけれど、学校の授業では取り立てて大人たちが教えてくれるものではなかった。

自分の命を投げ出してしまわないために、他人の命を傷付けてしまわないために今私たちに必要なことはなんだろうか。
命の手触りを感じられない、ただ生きていることに空虚感を感じている人に対して、
「自分自身を愛そう」「今生きていることに感謝しよう!」
と言ってもその言葉の意味を深く理解し、そして納得することはできない。
言葉が上滑りして何処かへ飛んでいくだけだ。
言葉だけで実感を得られるという体験はもしかしたら難しいのかもしれないけれど、言葉をきっかけに考えることはできる。

夢中で『大河の一滴』を読み進めていった。
ページをめくる度、ほろほろと心が解れていくのを感じた。認められない自分自身を生きる中で、そのままでいいのだと、ぼろぼろだとしても今のお前に価値があるのだと、自分自身をありのまま抱きしめられるような、今までに感じたことのない包容力を感じた。

アメリカ・アイオワ州立大学のハワード・J・ディットマー博士が行った実験についてのエピソードが本書の中で紹介されている。
たった一本のライ麦の苗が命をつなぐために、根を張り巡らし、実をつける。その根の総長は驚くべきほどの長さとなるという研究結果だった。
一本のライ麦でそのような結果ならば、わたしたち人間はどのような命の営みを続けているのかと思うと想像に絶する。
果てしなく大変なことを今私たちは成し遂げているのではないだろうか。
この一連の文章を読み終えた時、著者の考えにものすごく感銘を受けたのである。
当たり前のことなど何一つない。自分の口からご飯が食べれて、自分の脚で歩ける。これはとてもすごいことだ。
自分の身体が行う一挙手一投足、日常の一コマ一コマが輝き出すような瞬間であった。

お風呂に入り、自分の身体を洗っている最中に自分の左腕をじっと見つめていた。
普段冷え切っている手のひらは真っ赤に染まっていた。
肌から血管が透けて見えていて、わたしの身体中に根のように満遍なく張り巡らされている。この中に血液や酸素などが今この瞬間もせっせと運ばれ、動いていてわたしの身体を支えてくれている。
そういうことを考えていると、だんだんと自分の身体が愛おしく思えて、それと同時にじんわりと心が温かくなるのを感じた。
命を支える尊い営みが今ここに、わたしの中にあるのだ。
数か月前、傷付けようと思った自分の左腕にこのような思いを抱くとは思わなかった。そしてあの時、傷を付けなくて良かったと思えた。

カメラはズームアウトし、わたしの頭上付近まで上昇した。
自分のことを頭の上から見下ろしている。
大きな時の潮流の中にいる、今ここに生きている自分を想った。

自分らしさを追い求める必要もないし、
何かを成し遂げねばいけないという意味の薄い強迫観念も手放した。
手放してやるのだ。わたしがわたしとして生きるために。

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