プペル感想


 えんとつ町のプペルを観てきました。
 久しぶりに映画の感想を書きたくなったので書いていきます。
 どのように文字を書くか迷いましたが、評論なので私の好みを語るのは後に回し、先に映画作品としての評価をしていきたいと思います。

(追記:書き切った後にこの文章を書いていますが、感動を抑えきれずにそれが出てしまうこともあったので、温かい目で文字を追ってください)

評論

【導入:プペルの心臓が地上に落ちて、ゴミ人間プペルが誕生するシーン】

チープにつきる。カメラワークが冗長で、音ハメも演劇感がある。

 演劇においての表現手法としては有効ですが映像作品、それも物理法則をある程度無視しても世界観という言い訳が立つアニメーションにおいてはややクサくなってしまいます。
 よく言えば定番でわかりやすい、悪く言えば何番煎じかも数えられないほどありふれたYouTuberの出来の悪いオープニングムービーを見ているような印象を受けました。

 プペル自体無駄な描写(長すぎる)が多く見られる作品なので、他のパートに比べると、伝えたいことがハッキリと伝わって、世界観を説明する役割を担っていて、ここでプペルとルビッチ達が活躍する「えんとつ町」の世界に引き込まれました。

【オープニング:ハロウィンのシーン】

このパートにここまで長い尺が必要ない。
舞台がちょうどハロウィンであることを印象付けるためのパートだが、長すぎる。

 『The Nightmare Before Christmas』冒頭の『This Is Halloween』であったり、最近では『LALALAND』のオープニングである『Another Day of Sun』のミュージカルパートのように一貫したストーリーがあるのであればまだしも、キャラクターの動きに見所があるわけでもストーリーがあるわけでもなく、ただただ苦痛な時間でした。
 多分1分くらいなんでしょうが、「もう3分くらい経ってるでしょ…」と思いながら耐えていました。
 まだ開始数分なので集中力が切れているわけでもないので、ここで初めて今後も起こりうるであろう強いストレスとの闘いを予感し、覚悟しました。

 また、絶望的にカメラワークにメリハリがないため、正面からダンスを見ているシーンが多かったので、一昔前のニコニコ動画で流行ったMMDを観ているような気分になります。
 再生回数の多いMMDの方がまだクオリティ高いんじゃないかなあ…

【プペル登場〜迫害までのシーン】

えんとつ町の住民の基本的なスタンスや価値観、排他性を現実にリンクさせた技巧的なパート

 ハロウィンに現れ、ゴミ人間の仮装としてクオリティと、ゴミ山にまでゴミを漁りに行った努力と苦労を評価する描写が印象的でした。

 えんとつ町には基本的に良い人が多いのでしょう。
それはつまり、協調性があり、常識的な人間がマジョリティである、現代社会とリンクしているところを強調したい描写であると思います。
協調性があり常識的な人間であることが個人の善性であるとは限りません。プペルはマジョリティに抑圧され夢を見ることを諦めざるをえない現状に問いかけをする内容なのだと思っています。
 その上で、努力自体を認め、賞賛するということは、常識的かつ、理想としてされているこる行為が行われる。つまり、プペルを迫害する人間の善性はともかく、えんとつ町の住民(=マジョリティ)の属性が常識的(=ラディカルさを嫌い、異物に嫌悪感を示す)である、ということを示すために有効に活きてくる、とても重要なセリフで、この映画の中で、表現技法として効果的に作用している好印象なシーンの一つです。

【ルビッチ登場〜プペル発見までのシーン】

可もなく不可もなし

 主人公ルビッチの置かれている状況が描かれています。
 なぜ子どものルビッチがえんとつ掃除の仕事をしているのか、なぜハロウィン当日に仕事をしているのか、ルビッチというキャラクターが鮮明になっていくパートでした。
 父親が既に亡くなっていて、働かざるを得ないことは把握できますが、この時点ではルビッチに友達が居ない理由がわからないままでした。作品中も特に描かれていないので、違和感自体は残りますが、まあルビッチとソリが合わなかったのでしょう。
 このパートでルビッチに友達がいない理由を描写しなければならない必要もないと思うので、作品としての問題はなかったと思います。
なので、特に感想はありません。

 これ以降は、描写に際立った問題や、映画作品として印象的または技巧的と感じる点がない場合、そのパートについては触れずに次に進みます。 

【プペル救出シーン】

 ベタベタのベタすぎて観ていられない。

 共感性羞恥すら感じます。
好みの問題を通り越して、くど過ぎます。
 ルビッチがプペルを発見し、助けに向かうシーンは、あえて視点を二次元的にして、スピード感とコミカルさを演出しているのですが、アレを三場面に分けてやる意味を感じません。場面を分けて景色を切り替えることで疾走感、つまり全体としてのテンポはよくなるのですが、それが長すぎます。
 3秒以上(3秒というとかなり短い印象ですが、体感する3秒は結構長いです。立っている状態なら3mは進めますし、煮えた油の中に手を入れて、3秒も耐えられないはずです。)同じ光景を、同じ構図でされてしまうのは冗長さが出てしまうであろうことは映画に携わる人ならばわかることだと思うので、安直な尺伸ばしかな?と感じました。
 また、あのコミカルさは子どもにはウケる(普通に子どもにとってもウザいかもしれない)のかもしれませんが、トムとジェリーのようなカートゥーン風演出は使い古されているために、作品自体は斬新なのに、映画全体から残念なお約束感が漂ってしまう要因なのかもしれません。

【プペル救出〜鉱脈までのシーン】

ルビッチのキャラクター性がよくわからない。

 作品を通して言えることだが、心理描写が少なすぎて、登場人物の心がどう動いているか不明なので、情緒不安定な人間が、いっときの感情だけで動いているように映る。

 これは後述しますが、そもそもプペルがえんとつ町の住民に迫害される理由がオバケっぽいから、臭いから、以上のものがありません。
 異端審問会の基準が住民に内在化している、ともいえますが、それを示す描写も薄く、住民もとくに騒ぎ立てる以上のアクションを起こさないので、なんとなく嫌われているだけでしょう。
 それを踏まえると、冒頭のプペルが迫害されるシーンは、異端であるプペルがマジョリティによってなんとなく迫害されていますが、マイノリティの属性を持つルビッチがプペルを嫌うには、それなりに筋の通る理由がないと、ルビッチまでなんとなく異端を迫害するマジョリティ側の人間、と言うことになってしまいます。

 前項でも触れたとおり、心理描写が少ないために登場人物のキャラクターにブレが生じてしまいます。
ここで言うブレとはその時点での登場人物の心情と結果に整合性があるか、ということなので、やはり、アニメ映画だからこそ、心理描写は丁寧に作ってほしかったと思います。

 焼却炉からコードを伝い、トロッコで駆け抜けるシーンは可もなく不可もなく、これもお約束です。
 強いて言うのなら、トロッコ道中の「キケン」の看板と「スゴクキケン」の看板の間隔が短かったかな、と思います。
見逃している人は居ると思うので、あの秒感覚で読ませる気がないのなら、世界観を守るために日本語ではなく英語でKEEP OUTだのCAUTIONだの書かれている方がまだ違和感が少なくて済むように感じました。

 そして作中屈指の違和感ポイント。
ルビッチがプペルに友達になってほしいとお願いをするシーンですが、唐突すぎやしませんかね?
 確かにルビッチには友達が居ません。
ただ、ルビッチを迎え入れようとする同世代の子どもは居ました。
加えて、ルビッチはほんの数分前までプペルに辛く当たっていたのに、展開として都合が良すぎます。
苦難を共に乗り越えたので、そこに友情が芽生えた、というストーリーはありきたりですが、唐突に友達になってくれ、と言うよりかはシナリオとして綺麗だと思います。それなら、もう少し2人の距離が近づいたと言う描写が必要になってきます。
 この項の冒頭で述べた通り、ルビッチには信念があるはずなのに、視聴者にそれがわかる描写の不足のため、イキイキとしたキャラクターの人格が失われ、シナリオ進行のために動かされている感が浮き彫りになってしまっています。これは他のキャラクターにも言えることでしょう。
 作中、悪いところは多々あると思いますが、私の中では結構しこりが残ってしまった部分です。

 ついでに、プペルをはじめとした、頭が弱いポンコツなキャラクターは、そのポンコツ加減を演出するために、「○○、ってなんですか?」と名詞を聞き返す、と言うような手法が一般的に用いられていると思います。
 これは加減が難しく、あまりにも基本的な単語を知らないと言う設定を用いた時、じゃあお前はなぜそんな言葉も知らないのに普通に会話はできるのだ、となってしまうので、使い所が難しいなぁ、と感じさせてしまうので、このやりとりは必要であったか、判断が難しいと感じます。
 必要があるのならば問題はないのですが、で、あるならばもう少し、ハロウィン、や、ミシン、などと言った作中に関連する単語に対しても、深掘りできていれば違和感が軽減されたかもしれません。

【スコップ登場〜脱出までのシーン】

ここは無駄がなく良くできていた。スコップの最初の見せ場として機能し、スコップというキャラクターの特徴が把握できる。

 コミカルでシーンが軽快に流れていき、スコップの流暢なトークにより緩急がついて、全体に締まりが出ていると思います。
 彼のトークは長く、クドく、オチのない話ですが、それはルビッチとプペルにとっての話であり、作品中ではスコップの個性を余すところなく表現した、登場シーンとして、かなり完成度が高いパートになっています。

 また、わざわざ無煙火薬を使っている説明もあったので、作品の根幹に関わる部分の伏線として、記憶に残りやすく、小ネタ的な「そうだったのか」という伏線ではなく、ストーリー進行上納得しやすい「そうだったよね」という伏線として機能しているので、技巧性はともかく、素直に感心する綺麗な伏線の張り方でありました。

【帰宅〜プペルに仕事ができるまでのシーン】

ここも非常に良い。「ワタシ、○○が得意かもしれません」と言うセリフに、プペルの愛らしさが表現されている。

 この辺りはストレスがなく、心を落ち着かせて鑑賞ができていました。
 ルビッチがプペルを仕事場に連れていっても、多少ざわつく程度で、特に問題は起こらなかったので、異端審問官は抑圧的で、職人気質のブルーカラー労働者にはあまり好まれていない存在なのだな、という世界観を紐解く描写も存在しています。
 後の回想シーンでブルーノが喧嘩をしていますが、マイルドヤンキー的な人間が機嫌で人を殴るという、ナチュラルに暴力が存在している世界ではありますが、えんとつ掃除に従事する人たちは、一歩ひいて冷静というか、ルビッチほど強い信念はないが、えんとつ町の住民ほど権威に対し盲目ではなく、どちらにも転ぶようなボーダーにある存在であることが強調されて いました。
 この描写は後に活きてくるので、このような何気ないところで必要な描写がされていると、映画作品としての質が高まると思います。

【プペルのお仕事〜ルビッチとえんとつに登るまでのシーン】

ここもテンポが良い。
ただ、通貨の説明が必要であった。

 これは後に明かされるのですが、えんとつ町の通貨はレターで、これは腐ります。
 「貨幣経済下で、貨幣が腐るとは何事か。」「どういう経済状況なんだ。」というような野暮なツッコミは入れません。
 また、レターそのものに対してもなぜ腐るのか、腐ったらどの程度価値が落ちるのか、という疑問も残りますが、それは作品中では割とどうでもいいことです。
 が、ただ「腐らないうちに使え」と言われただけではプペルも視聴者も理解できませんし、作品中にレターの詳しい説明がされるのは後半なので、かなり不親切な場面でありました。
 幸いにもプペルは無知なのでここで狂言回しをするべきでしたし、ただボケーっとさせているだけなのはもったいないと思います。

【ルビッチの回想・ブルーノの過去】

ストーリー進行に問題はない。
演出上ブルーノのキャラクターを強調するためには仕方ないと思われるかもしれないが、ポリティカルコレクトネスに反している。
ポリコレを無視したとしても、それが誤解を生じさせるので、ポリコレ上も作品上も有害。


 結構イラついたシーンです。
なぜブルーノは自分の子どもをチビと呼ぶのでしょうか。ルビッチの人格を認めていないのでしょうか。
 「そういうわけじゃない。」と言われても、実際にルビッチは「チビじゃない。」と再三再四訂正しています。よって、倫理観の低い人間が「そういうわけじゃない。」と擁護しても意味がありません。本質的に人格を認めていても、看過できない重要な問題です。
 この時代になぜこれで良いと思ったのか、制作段階で誰も何も言わないのか、よくそれで抑圧される辛さや悔しさを題材にした作品を作れたなと思います。
 これは内容とはまた別の部分の話なのですが、映画批評をする上で、一番問題だと思ったのは、次の点です。

 ブルーノがルビッチのことをあまりにもしつこくチビと呼ぶので、ルビッチとブルーノに血の繋がりがないんじゃないかという疑問が、終盤まで解消されなかったこと。
これが作品上とても有害な点です。

 別に、ルビッチとブルーノに血縁関係がなくとも問題はありません。
血統による家族の繋がりのようなものには反吐が出るので、それ自体はどうでもよいのですが、後々ルビッチが誕生したとき、ブルーノが大泣きしているようなシーンを入れるのであれば、なぜこのような誤解を与える振る舞いをさせたのか、理解に苦しみます。
 実際、自分の子どもをチビと呼ぶ親はいますが、それは子が不在の時に他者と話す時であり、執拗に我が子に対しチビと呼びかける親が自然に思えません。ブルーノが多くと違う価値観を持っている、ということを踏まえたとしても、自分の子をチビと呼び続けるのは変わり者を通り越して異常です。
 このように、キャラクターを安直に振る舞わせることによって、その言動の意味を考えながら鑑賞していると、どうしてもその意味がなかったときに肩透かしを食らうので強いこだわりがなかったのなら素直な描写を心掛けるべきだと思います。

 加えてもう一点。
 回想中ブルーノはお伽噺を語り続ける(えんとつ町の住民にとって)無意味な行動により反感を買い喧嘩に発展しますが、流石に無理矢理感が否めませんでした。
 ただでさえ自我に乏しいえんとつ町の住民には、主体性がありませんし、それが作用して単にストーリー進行のために動かされている印象が残ってしまいます。
 モブなので仕方ないとはいえ、これが上でも述べた、登場人物の心理的な動きの描写が存在しないために、作品中の人間がだいたい情緒不安定に見えてしまう原因だと思われます。
 ムカついて殴りかかるなら殴りかかるでそれ自体には問題がありませんので、それなりに理解できるような動機があれば、視聴者のえんとつ町への没入感が増すのではないでしょうか。

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