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作文がしたくて暴れている作文ゾンビは哀れな存在なのか?

ここ数日、作文がしたくて暴れている。

開放感で作文したさが高まる

先日、脱稿した。めでたい! 1年近く付き合ってきた作文で、書いていない時期もあったけれど、思い入れのあるお話だった。それが手を離れ、本になって返ってくるまでの期間は、何物にも代えがたい優雅な心持ち。完成した本の詰まった箱を開ける時のことを思い描きながら、茶でもしばいて、ほくそ笑んでいればいいのだ(「噂に聞く『本』というものを産まれて初めて目にした人」のように、「本だー!!!!!」と叫んで喜ぶことになるだろう。私は本を作るたびそのように喜んでいる)。

私は今、浮かれている。期限のある作業が終わって、開放感でいっぱいである。ああ! バリバリと作文がしたい! なんなら本にもしないくせに自分で勝手に締切を設け、セルフ締切でセルフ修羅場がしたい!!

作文したいが、作文ができなくて暴れる日

作文したいのは山々である。ところが、うまく時間が取れなかったり、疲れていたりして、思うように作文ができない日があった。それで、「作文がしたい!」と(心の中で)暴れているだけの日、というものができた。

「作文がしたくて暴れている」という状態は、初めてではない。作文をすればよくなる、簡単な状態異常である。

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図1 作文がしたくて暴れる私

さて、作文がしたくて暴れたくなる時、私は、「私の具合がなんらか悪いのだ」と、思っていた。作文がしたいならすればよいのだ。「作文したい」と言いながら、せずに暴れているのは、さしづめ体力がないとか、ただ駄々を捏ねたいだけとか、そんなところだろうと。そんな時にできる対処は、作文をすること──ではない
一度いろんなことを後回しにしてでも、風呂に入って寝ることだ、と思っていた。元気になれば健やかに作文ができるだろう、そういうことだ。

それはこの記事に出した図にもつながる。以下に再掲。

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図2 私の愛と知性の作文屋ピラミッド

「すこやかな身体と心の上に、愛と知性の作文がある」。そういう思想の図である。
それは今でもそう思う。けれど、「作文したい欲」は、このピラミッドとは関係なく存在するらしい。たとえば、身体がすこやかでないときとか、掃除機がかけられてなくて暮らし(ハウスキープ)が傾いているときとかでも。

「作文したさ」を自由にする

「書きたい」という欲求は、私の肉体的・精神的・社会的状況とは全く関係なく、やってくるのだ。疲労困憊していようと、ご機嫌 so badでも、仕事が切羽詰まっていても、「作文がしたい!」という欲は沸き得る。私の作文したさはコントロールできないのだ。レオぴのインスピみたいなものかもしれない(そう思うと、じゃあしょうがないな、となる)。

だから、「作文がしたくて暴れている」のは、別に調子が悪いわけではないのではないか、と思うようになった。

元気だから作文したくなるわけでも、暇だから作文したくなるわけでもない。元気がいまいちでも、ド多忙でも、作文したい時はある。それは私の「不具合」ではない。作文したいのに作文できなくて暴れることになっても、それは「ダメな状態」ではない。まあ、ダメかもしれないけど、別に、価値判断をしなくてもよい。自分で自分を、病人扱いしなくてもよい。

そう思って、ちょっと楽になった。存分に暴れていくことにする。フレッシュな作文ゾンビとして。

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