TAMAKI
認知症をテーマにしたショートストーリーです。 読み終えたあとに心に温かいものを感じ、少しでも認知症の方に対するイメージがポジティブなものになっていただけると嬉しいです。
風景を文章で表現する練習。 美しかったり心動かされた風景を写真におさめ、言葉を添えていきます。
曇天、雑踏。 足早に過ぎ行く無数の背中。 時おり向けられる冷やかな視線。 この世の全ては随分と早くなった。いや、私が時代の流れに置いてけぼりにされているだけだろうか。 輝かしい未来に胸躍らせていたあの頃は、不安など微塵の欠片もなかった。真っ直ぐに敷かれた果てしないレールの上を、ただひたすら滑らかに走り続けていくものだと信じていた。 彼もそうだったに違いない。 青春時代を過ごした友、佐伯太一も。 「佐伯、認知症だってさ。俺らもそんな歳なんだな」 酒を煽りな
ここ『ハイライト』は小さなステージが備えられた客席わずか三十席足らずの小さな劇場で、交通の便が悪い場所に佇んでいるにも関わらず、この先数年はずっと予約が埋まっています。 これだけを聞くと、そもそも数年先の上演スケジュールなど分かるのだろうかという疑問を抱く方もいることでしょう。しかし、これは紛れもない事実で北は北海道から南は沖縄、時には海外も含めてここを訪れたいと望むお客様は後を絶ちません。ありがたいことです。 自画自賛するつもりはございませんが、私はそれを当然のこと
クイーン展に行ってきました。フレディマーキュリーの力強く美しい歌声、圧巻のライブパフォーマンスに改めて感動しました。いくつものコンプレックスを抱えながらも自信に満ちたフレディの姿に些細な事に日々悩みながら生きている自分が小さく思え、勇気をもらえた気がしました。
「旅に出てくるわ」 そう言って、じいちゃんは意気揚々と出かけていく。「いってらっしゃい」と、まるで旅立つ人を見送るのとはほど遠い調子で、母さんが洗濯物を畳みながら声をかける。 「じいちゃん、どこ行ったの?」 久しぶりに帰省する僕には、ありふれた日常であろうそのやりとりの意味を理解することができなかった。 「どこって、旅よ。芦野橋を渡って、市立病院の脇のとこから河川敷へ下って、遊歩道をずっと歩いて小学校の裏から上がって帰ってくるんよ」 「それ、ただの散歩じゃん」 「
窓の外に広がる新緑からの木漏れ日に思わず手をかざした。今日はどんなに素敵な出来事が私を待ち受けているのかしら。 想像するだけで私の胸は高鳴る。 こんな日は花柄の白いワンピースなんか、青い空によく映えそう。私はクローゼットを開け手を伸ばした。 「あら、おかしいわね」 クローゼットにあるはずのワンピースが見当たらない。それは母さんが買ってくれた私のお気に入り。無くすはずなんてない。 「おはようございます。どうかされましたか?」 突然現れたのは一人の青年だった
いったい、何十年ぶりだろう。こんなこと、二度とないと思っていた。 照れ臭い。そして、何より落ち着かない・・・・・・ 「貴明、おかわり、いる?」 「あぁ、俺はいい」 兄貴が軽く挙げた右手をお袋に向ける。 「あんたは?」 「俺ももう満腹だよ」 義信が随分と出た下腹をさする。 「明人、あんたは食べるでしょ」 「じゃあ、少しもらおうかな」 炊飯器から勢いよく白い湯気があがる。まだ大量のご飯が釜に残っていることだろう。どうやらお袋は今日のために張り切ったようだ。 「はいよ
ゆーびきーりげーんまん うーそついたーらはーりせんぼん のーます ゆーびきーった 互いの小指を絡ませ、リズムに合わせて魔法の言葉を唱える。幼少期の私は、そうすれば全ての約束は叶うと信じていた。 いつも別れ際におばあちゃんがそうしてくれた。だけど、時に約束が叶わないことがあるのを知ったのは小学三年生の夏だった。 おばあちゃんが嘘をついたわけじゃない。約束を破ったのとも違う。ただ、私が思い描いていたようにならなかったから、少しだけ神様に裏切られたような気がした。 正月
青い空にはうっすら透き通るような雲がゆっくりと流れている。不思議とこの日は晴れが多い。 七月一日。ばあちゃんの命日だ。 僕はポケットから巾着袋を取り出した。肌身離さず持ち歩いている手作りの御守りだ。橙色の小さな巾着袋の中には一枚の百円玉。あの日、手にした時から使わないまま二十年の月日が流れた。時々、その温もりを思い出しながら磨いている。 僕の思い出が色褪せてしまわないように。 あの日の空も、今日と同じように青かった 僕はばあちゃん子だった。両親が共働きだっ
久しぶりに帰る故郷の街並みは随分と変わっていた。 駄菓子屋『おはな』も時代の流れにのまれたようだ。当時は古い民家と肩を並べていたが、今では瀟洒な住宅に挟まれてどこか肩身が狭そうである。 それでも二十年ぶりに訪れたおはなは、クローズアップすれば当時と何一つ変わらぬ佇まいだった。 小さな店内は所狭しと並ぶ駄菓子やおもちゃで埋め尽くされ、壁には二十五年前に甲子園に初出場した桜花高校の記念タペストリーが飾られている。かつては鮮やかだったであろうその紫色は長年の時を経て菫色に
人生で得た情報や知識の大半は忘れ去られ、残された僅かな記憶を頼りに僕らはどうにかこうにか毎日を生きている。 忘れることは決して不幸じゃない。悲哀、恐怖、憎悪なんてものを一生引きずっていては、まともな精神状態で人生を歩んでいけないから。悲しくもあるけれど、僕ら人間は忘れてしまう生き物だ。 一年半ぶりに帰省する電車の中、そう自分に言い聞かせている。 窓辺のソファに西からの陽射しを受けて佇む沈黙の男一人。物憂げな顔で窓外を眺めている。 「最近、ずっとあそこに座ってぼうっ
フロントガラスに打ちつける激しい雨。弾けた雨粒たちが競うように勢いよく滑り落ちていく。ひたすら繰り返しガラスを撫でるメトロノームが飛沫を夜の闇へと吹き飛ばし、ヘッドライトに照らされた闇にいくつもの細い線が浮かび上がる。 カーラジオから懐かしい曲が流れ始めた。激しさとは対照的なピアノの旋律が美しいスローなバラード。 夜と、激しい雨、そしてこの曲 記憶というのは不思議なもので、わずかなきっかけでいつかの思い出が瞬時に呼び起こされる。夜の闇は周囲の景色を奪い去り、まる
ある夏の日、私は一人のおばあさんと出会った。それは猛暑だった前年よりも幾分か暑さの和らいだ夏のこと。 「ねぇちゃん、ほら」 ブランコへと向かって駆けていた私は、ベンチに座るおばあさんから声をかけられるとグッと足に力を入れて急停止した。砂ぼこりが舞った。「ほら」と彼女が指差す先に視線を落とす。その状況に私は戸惑うことはなかった。なんとなく、そうするのをためらうことのないごく自然な空気が流れていた。 赤いサンダルを履くおばあさんに近づくと、その足元には蟻が一筋の線となり