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倒れそうな時も 心に立っていた 大事な樹だよ切らないで

ついに待ちに待った、待ち焦がれた、Mリーグ2021がはじまったー!!

開幕戦1(初日)はドリブンズ、風林火山、サクラナイツ、ABEMASの4チームが激突。
開幕戦2(二日目)はKONAMI、フェニックス、雷電、パイレーツが激突。
(尚、今年も昨年同様、初日二日目共になんしゅう家さんで観戦させて頂きました…最高!!緊急事態宣言あけてよかった😢) 


私の最推しパイレーツは二日目に登場。
初戦の船長は3着。18000からのダメ押しカン6sパッツモは「トップいける!」と思ったんだけどな…!
でも対戦相手がみんなかっこよすぎたし、ハギーがドラマチックすぎた。雷電の麻雀はおもしろすぎた。

2戦目はまあ、ぴんさんかキングかなって思っていたら…


ふわあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!??????
まさか瑞原さんの試合を開幕日に観られるなんて思っていなくて、私はその場でうずくまって泣いた。
語彙力なくてどう言っていいかわからないけど、とにかくうれしかった。


試合は最後までもつれにもつれて、誰がトップになってもおかしくない状況になっていたけど、雷電の女神が勝利をかっさらっていった。やっぱり雷電の麻雀はおもしろすぎた。
瑞原さんは2着。でも最後の親番での粘りは、気迫が青白いオーラとして溢れ出しているようで、美しかった。



新しいだいすきCMも観れて大満足!!です!!

「だいすき」
「わたしも!!」(むしろ私の方がすき!!!)






さて。本題。(いや、パイレーツも本題ではある)

基本的に私のnoteの内容はだいたいが麻雀に関連することで、たまにそれ以外の自分の好きなものバナシが紛れ込んでいる。
noteにはなるべく楽しかったことや想い出に残っていることを書くようにしているので、どちらかと言うと陽のイメージに満ちた記事になることが多い。

だけど。
本来の私自身は陰の者🙃なわけで。



簡単な言葉で表現するならば、私はメンタルがめちゃめちゃ弱くて、とにかくいつも何もかも気にしぃでかなりの自虐型。
世間は器用な人が多すぎて、その人たちのテンポやテンションについていけなくて、別にそれはだめなことではないのに、「あーだめやー」と思っている。
私は他人と自分を比較して「自分は他人より価値がない」と思いがちなので、たとえば自分の好きなものやことや人を他人に否定されると、「私がそれを好きだから周りにその好きなものが低く(軽く)見られてしまうんだ…とても素晴らしいものなのに、私が好きなせいで価値を下げてしまって申し訳ない…」ってなってしまう。
そして自分が好きなもの・こと・ひとを、目の前で「嫌い」と言われる悲しさには、何度遭遇しても慣れることがない。
そんな時はその会話をなるべく早く終わらせようと努めるけど、そういう時に限ってその話は何故か長引いてしまって、また「嫌い」という単語を聞くことになる。なったりする。そしてひどく落ち込む。
人間だから好き嫌いは必ずあるけど、誰だって自分の好きな人に「お前の好きなもの嫌い」と面と向かっては言わないだろうから、そういうことが繰り返し起こると「ああ、この人は私のこと嫌いなんだな…」と思う。
嫌われるのはしょうがないことだし、嫌われる理由があったとしても、それでも直接「嫌い」と言われるのは結構応えるものだ。例えばそれが自分の好きな人だったりすると、尚更。
なんか何て言うか、全部悪い方悪い方に取っちゃうのですよね。
言葉も、態度も、何もかも。

メンタルヨギボー。

メンタルホワイトアスパラ。

メンタルマシュマロ。

何が言いたいかって言うと、要はふにゃふにゃメンタル。ふにゃメン。
(ところでよくメンヘラって聞くけど、ヘラって何の略なんだろう。調理器具?と女神しかしらない)


だけど以前に一度、このあたりの卑屈な感情についてnoteで触れたことがあって、最近は悲しいことがあったら、なるべく「それでも今日も、恵みはあったはず」とその日一日を思い返してみることにしている。

こんな風に恵みに気が付かずにいることばかりなんだろうな、人生は。
この言葉は、今の私のお守りみたいになっている。






https://note.com/info/n/nbabb5b255729
あの会話をきっかけに
たまたまこの投稿募集を見て、ふと会話について考えてみた。
そしたらなんだか書きたくなってしまった。ので書いてみる。


私は、人と話すことが、多分とても好き。
何故多分かと言うと、好きだとは思うけど、決して得意ではないから。
人と話したいという気持ちは常にあるのだけど、それを自分からはなかなか言い出せないし、言い出してはいけないと思っている。
「会話」は自分ひとりでは出来ない。必ず相手が必要で、それはつまり相手の時間を奪うということでもある。
私が「話したいこと」が、相手の時間を奪うほどの価値があることなのか、自分ではいつも答えを出せない。


私は自分の好きな人とたくさん「会話」したい。
でも好きな人であればあるほど、嫌われたくないし面倒をかけたくない。
だから私の(もしかすると)価値のない話を相手に投げかけることで、相手に嫌われるかもしれないと考えると、好きな人にこそ話しかけられなくなってしまう。
本当に話したいことは奥の方にしまいこんで、とりとめのない日常やその場その場でだけ盛り上がる話をすることが増えていく。それはそれでもちろん楽しくて、かけがえのない時間だけど、しまいこんだ話したいことはそのまま自分の中に残っている。

残っているうちに段々薄れていくものもあれば、宙ぶらりんのままずっと色濃くとどまり続けるものもある。



つい先日、「ああ、これはずーっととどまり続けるんだろうな…」と思っていたことを、運良く話したかった相手に話すことができた。(これもまた恵み)
今この話をしたら自分は泣いてしまいそうとは思っていたけど、まあ、予想通り泣いてしまった。(泣いてないと口では言っている)
思いの外長く話し込んでしまって、さっき書いた表現の通りで言うと、相手の時間を奪ってしまった。

自分の思っていることを的確に人に伝えるのはむずかしい。
そしてそれを相手に受け入れてもらうことはもっとむずかしい。
そしてそしてそれを伝えることで相手との関係性が変わってしまうことを恐れていたら、その話をすることは本当にむずかしい。


ここまで書いていて、私はふと幼い頃に読んだ物語を思い出した。


ミヒャエル・エンデ 『モモ』



タイトルの『モモ』は主人公の名前で、これはモモの周りの人たちが時間泥棒に奪われた時間を、モモが取り返すために奮闘する物語。
思い返してみれば、「時間を奪う」という概念を最初に私の脳に焼き付けたのは、この本だったように思う。
時間は目に見えない。だけど確実に存在している。

私はあの日、時間泥棒のように、相手の時間を奪ってしまったのだろうか?



もしかしたらそうなのかもしれない。もしかしたら相手はどこかでそう思っていたかもしれない。
だけどあのとき確かに私は、「ああ、このことをこの人に話せて良かった」と思った。

あんなにも自分の話には価値がない、人の大事な時間を奪いたくない、と思っていたのに。

だけど私はそれを相手に話すことができた。
全部が全部相手に伝わったとは思ってないけど、自分の気持ちをしっかり言葉にすることができた。



会話をすることの意味。
それは自分の話をして、相手の話を聞くということだけではない。

話したいと思っていることを話すことが『できた』という、ひとつの成功体験を自分に与えること。
そしてそれは、相手の時間を奪って得られる経験値なのだから、誰からでも、いつでも得られるものではない。得られないことの方が多い。
なのにその経験値を得られたという事実がまた、自分にとっては確実に養分になって、性根がすくすくとのびてゆく。

私もいつか、大事な誰かに時間を泥棒されて、それによってその人に経験値を渡せるような、そんな人になりたい。
なれるだろうか。



今はまだ、わからない。

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