シンエヴァ メモ殴り書き(思ったそばから追記もする)

思考の流れを頭から書き連ねてます、バキバキ追記してるから後半の方が分かりやすいかも


考察とかもあまり見ないし、宗教的な部分に関しては明るくないから、最後まで果たして何が起こったのか分からなかった部分もあるけど、その「方法」的な部分は置いておいてせめて「何を望んで」「結果どうなったのか」くらいは自分で考えておきたいなと感想と憶測を並べてみることにする。


まず、まごころと違う形の落とし所じゃなくてまごころを踏襲した上でそれを超えたのがよかった。


何より旧劇では最後シンジくんの解釈独り相撲になっていたのに対して、今回は父親との対話で解決していくし、人智を超えた力に対して人間側も介入し、最後シンジが世界を改変するきっかけとなるアイテムをミサトさんがシンジくんに届けるというのもよかった


好きだったセリフはリツコの「悲劇的なリセットよりも〇〇〇(忘れた)なコンティニューを選ぶ」ってセリフ、これを聞いた瞬間に今までのストーリーのほとんど全てに納得いったし、このエヴァンゲリオン新劇場版というシリーズそのものの意義を表しているように感じた。これはテレビシリーズの焼き直しではなくて、その続きなのだと。


アスカとマリがすごくいい。


最終的にアスカがケンスケとくっつくのも、シンジがマリとくっつくのも、その過程でお互いがかつての気持ちを確かめ合うのもなんというか「大人」になるための通過儀礼という感じで、良くあるパターンと言われればそれはそうなんだけどここは素直に受け取っていいところなんだと思う。なにより「気持ち悪い……」のあのシーンを互いに超えられたのが救われた。


マリといえば冬月のセリフによって、TV版と旧劇と新劇だけでは保管しきれない設定が公式のものとして出てきたので漫画版を読んでない自分としては惜しいなぁと思ったところだった。なんか違うのかもしれないけど読んだことないから何が違うのかすら分からない。その他色々漫画版を示唆するシーンも多かったのかなぁと思うと次見るときまでには予習しておきたい。


ここにきてまたテーマ的な問題に戻るんだけど

ストーリーの流れと締め方としては分からないなりになんとなくまどマギみたいな感じなのかな〜?と決めつけて見進めていってた。

旧劇の終わり方に対する自分なりの解釈はざっくり言うと

「人類補完計画が完遂されそうだったものの最終的にはゲンドウはシンジと向き合う事から逃げた報いでLCLに還元される事なく死に、最終的な判断はシンジへと託された。そしてシンジは自分の心の中でのイメージとの対話の末、誰にも傷つけられない誰もが分かり合える世界を拒否して、誰かと分かり合えるかもしれない、その可能性を選んだ」

って感じなのかなと思っていて、その終わり方自体はすごく好きなんだけど誰もが救われた道では無かっただろうなとは思っていた。


新劇はそこに対してのリセットじゃなくてコンティニューの物語なのかな、だとしたら誰にとってのコンティニューなのだろうかと考えると色々と思い当たるものもあるなぁと。


ゲンドウは最終的にシンジとの対話を果たし、最後世界の再構築のために犠牲になろうとしていたシンジをユイと共に庇い消滅していった。

親殺しの話と思ってたけど、それと同時に一人の子供が親になる話でもあるのだろう。


それに対して、シンジはアスカに秘めたる思いを告げ、初めて父親と向き合い、エヴァに乗った事に意味を見出した。ただ個人的には綾波そっくりさんが消えてどうしてあそこまでの覚悟をするに至ったのかちょっと分からなかったし(どっか大事な描写を見逃してるのかもしれないけど)、序盤の第三村?での心の交流がこれまでのシンジとそこからのシンジにどういった心理的影響を及ぼしたのかも正直分かってないのよね。(後に言及してます)

最後まで見た上で、もしかしたら新劇に関してはそれこそまどマギが実際はほむらが主人公みたいにシンジくんは主人公のテイだけで他の大人を動かす役割が大きいのかなと感じたかな。



ミサトは旧劇ではシンジに対して発破をかけ目を覚まさせ、そして最後に未練を残させた(だからシンジは補完計画とは別の結末を選んだ)

ただ、新劇場版においてはシンでも言及されていたようにシンジに対して(ネットでも散々揶揄されているけど)発破をかけた結果全てが裏目に出て、その贖罪としてQからあんな感じになってしまった。


そう考えると、破の最後のミサトとまごころの最後のミサトは少しかぶる。

そういう意味でもQそしてシンはコンティニューといえるのかな〜と、ちと強引だけど。

でもきっと最後の「人の力で作った槍」が無かったらあの結末は無くて、フォースインパクトが起こっていたんだとすると、本当の意味でミサトがシンジの助けになる事が出来たんじゃないかな。

最期、加地さんにこれでよかったのよねみたいな事を言ってた旧劇に比べてシンエヴァだと息子に対して母親らしい事が出来なくてごめんねみたいな感じだったし、代理母的な立ち位置だったミサトさんが本当の母として死ねたって所がコンティニューなのかな〜と。


そう考えるとゲンドウとミサトのための新劇にも見えるよねって話。





そしてアスカのコピー問題についてはマジで分からん、惣流と式波の違いとかっていうそゆこと?精神汚染もされなかったし寝たふりだっていうし完全な人間じゃなくなる前に飯のまずさを知っておけって言うし、前襲われた使徒が片目に宿ってる事は分かったけど、そこらへんとアスカの出自の設定がアニメシリーズの話も混ざって良く分からなくなってしまった。


後半の展開のせいで忘れがちだけど、序盤のパリでの戦闘シーンえっぐかったよね。まるで大型トラックのような円盤型のハンドルとかそれに準じて動くガトリングとか、アンパンマンのポップコーンから続いている我々の円盤を回したい欲を掻き立ててくる良い新しいガジェットだった。Qもそうだったけど最序盤に息を呑むバキバキのアクションシーンを持ってくることでググッとこっちの心を引き込んでくるのはさすが。


んで、その後の生き残りの村でのシーンは初見だとかなり辛かった。お前ら生きとったんかワレェとなったところからあれよあれよと人情村、今までそんな事してこなかったじゃん……やめてよ……どうせこれもどっかで終わるんでしょ!これ以上大切なものを増やさないでよ!失いたくないものを増やさないでよ!!やめてよ!やめてよ庵野さん!!みたいな気持ちで思わず首を押さえながら見ていた。

QはQでたしかに辛かったけどもあれは見ている人がシンジの心にダイブした結果の辛さであって、別に今すぐネルフがぶっ壊れようともヴィレが壊滅しようとも、特になんとも思わなかったと思う。

でもあれは良くないよ。あのいい感じの音楽が流れながら綾波と村人たちの交流が静止画で流れるシーンなんて最高だし、誰に感情移入しているわけでもなく、ただ単純に我々が彼らに対して愛着を持ってしまうから、ずるいよ!こんなの……こんなのエヴァじゃないよ!!どうせ、どうせ(監督は)ぼくを裏切るんだ!こんなのまやかしなんだ!!みたいな事もずっと思ってた。

ただ意外とそこら辺が残酷に描かれなくて助かった。これはマジ。

その点では綾波そっくりさんが消えたのが一番辛かったけど、最後固有の名前を付けるくだりでシンジくんが付けなかった(付けてあげなかった?)のも救いだったかもしれない、あそこであの子に名前が付いてすぐにあの展開になるのは辛すぎる。


そういう意味ではシンジはあの部分をきっかけにガッと変わったんじゃなくてあそこが踏ん切りを付ける最後だったって事だったのだろうか。アスカが村を護るためにいるって話をシンジにしていた事もあったし、優しさに触れて廃人から戻って、そうして村人と交流していく中でだんだん彼らを護りたいという気持ちが現れて、で、最後綾波がいなくなった事で踏ん切りが付いたとかそういうグラデーションの話なんだろうか。

個人的にはきっと村そのものの安全が直接的に脅かされてそれを護るためにヴィレに戻る決意をする、とかなんだろうな〜、そのためのかませの村なんだろうな〜嫌だな〜とずっと思っていたからまぁいいっちゃいいんだけど。


あとは後半、シンジが初号機に乗る決意をして撃たれそうになる部分。あそこはちょっと好き嫌いが分かれるだろうなって気はする。

あの女性陣の言ってる事も分かるのよ、いくらシンジが乗ってなかったら第三の使徒に滅されてたとはいえ、これまでシンジがエヴァに乗っていい方向に向かった試しは無いし、破でもQでもあれだけの事をやっといてお前まだ懲りないのか……と、そうなる気持ちも分かる。

あとたぶんエヴァシリーズにおいてあれだけ関わりの薄い相手にシンジの命が脅かされたのって初めてだよね、鈴原妹はまぁわかるとしてもあのいかにも安野モヨコ!って感じのギャルの子?はシンジとは直接関係は無かったわけで、でもそれが銃口を突きつけてきたって事はあの子があの世界においての「大衆」の代弁者って事なんだろうね。内輪に優しすぎる、浄化すれば(改心すれば)許されると思っているなんて話もしてたし。そしてそういったものから守ってくれたのこそがミサトさんだったっていうのもかなり意味がありそう。



ただそんな事は置いておいて、シンプルにいやそこでシンジくんを撃っても意味なくない?状況見えてる?あんた死ぬよ?みたいに思う人もいると思う。最近の呪術とかヒロアカでも多いけど、話のスケールがかなり広がっててもうそれどころじゃないだろって時に内ゲバになるのが苦手なタイプはある程度いる。し、実際あれだけガーッと話の枠が広がっていく中で、あそこに時間を食うのは少し意外だった。


でも、逆に言えばそれでもそこに時間を使いたかった事で、そんなとこからこの映画のもう一つのテーマにはやはり「許す・許される」とか「救済」とかもあるのではないかと思う。

南極だかに入る時原罪が云々と言ってて、ここらへんもおそらく聖書関連が絡んでくるのだと思うけど、良く分からないから分かる範囲で考えてみると



自分を許すという事は、それはつまり「誰かに『自分を許す』事を許されている」という事だと思う。きっと一人では自分で自分を許せない。

シンジは物心ついた頃にはもう誰からも許されない存在だった、親からの愛を受けることも許されず、父親と話すことも許されず、エヴァに乗らないことも許されなければ、エヴァに乗ることも許されない

そしてこのシンエヴァの初めでは自分自身を許されないものだと認識していた。救済されるべきではないものと認識していた。


そうやって自分の殻に閉じこもっていても何故か、自分にずっと優しくしてくれている人がいる。自分がどれだけ邪険に扱っても、それでも毎日様子を見にきてくれている人がいる。


自分は許されない存在のはずなのに、救われるべき存在ではないはずなのに、どうしてそんなに優しくしてくれるんだと聞くと、ただ一言


好きだから


と言った。

本当の事を言ってしまえば彼女が彼を好きな理由なんかなく、そういうプログラムだから、そう言ってしまえば随分薄情なものに見えるが、これを表す別の言葉がある


「無償の愛」


親が子に対して当然注ぐべき、子が親に求める事を許されるべきものであり、シンジが今の今まで信じて裏切られてきたものであった。

親が子を許すのに理由なんて必要無いのだ、親と子はそういうプログラムになっている。


ここで初めてシンジが自分で自分を許せるようになるが、それも本当は「『自分で自分を許す事』を無性の愛によって許された」からに違いない。


人は常に誰かに許されたいと思いながら生きているのだ。

わかる。


そう考えると、さっきの終盤のシーンも大衆がシンジを許す、というシーンというよりはミサトがシンジに許されるという印象が強くなるように思える。

シンジに対して常に贖罪の思いを抱いていたミサトがシンジを庇う事によって、シンジに許されたいと願い、シンジがそれを許す。

ゲンドウも同じで、親としての責務を果たせなかった罪をシンジに許してもらいたいと願い、そこで始めて親となってその先にユイが見えたんじゃないかな〜と。


旧劇でも言っていた通り、他人の心の中にいる自分、自分の心の中にいる他人、それこそが希望って事なのかねぇ。


旧劇のセリフ使いながら新劇の解釈をしようとするのなかなか倒錯みあるな。



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