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頭ハネと順位点の一貫性【第5期応物リーグ第2節 感想】

2022年9月27日に行われた第5期応物リーグ第2節B卓を振り返る。
今回のキー牌は47sだ。

応物リーグとは

応物リーグとは、大学の仲間内でやっている私設リーグだ。

8人でレギュラーシーズンを打ち、上位4人で決勝戦を行う。
Mリーグルールで1節2半荘。第5期となる今回は、レギュラーシーズン全8節+決勝6半荘で行われる。

私の実績はというと、第1期から順に3位、準優勝、準優勝、4位と、決勝戦は(唯一)皆勤なのだが優勝がない。上位勢の実力はかなり拮抗している印象だ。

第5期からメンバーの入替があり、正直以前より実力が縦に伸びている。しかしながら、ツキ次第では何が起こるかわからないのが短期戦の醍醐味。リーグ内では強い部類に入ると自負はしているが、全く油断ならないのが正直なところ。

対局者紹介

今回の2半荘のうち、取り上げるのは1回戦だ。まずは対局者を紹介したいところだが、ここでふと悩む。

本名を出してよいのだろうか?

あくまで参加者は一般人で、プライバシーの問題もある。Twitterに成績表を乗せることもあるが、noteとなると繰り返し名前を呼ぶことにもなる。

うーん、と少考し、一つの案が浮かぶ。

イニシャルで呼ぼう。それが丸い。

方針も決まったところで、選手紹介に移る。誰だよって感じだが、漫画のキャラばりのキャラの濃さなので、容姿を空想しながら楽しんで欲しい。

東家は今季から参戦した、ラス回避が得意なK
南家が私。
西家は第4期応物リーグ王者のK
北家は第1期・第2期応物リーグ王者のK

以上だ。

…………俺以外全員Kじゃね?

これでは、KのリーチにKが追っかけKがツモってKが親かぶり、とかになりかねない。この4Kの時代にS○NYも真っ青の3Kである。

やはり、成績表の名前を出そうと思う。

気を取り直して。

東家・小柳。
聴牌即リーを信条とする初心者。
難しい手牌で悩むときに舌打ちするのが癖で、本人も少し気にしている。

南家は私。

西家・京極。
超門前攻撃型で統計と期待値を重んじる。
1か月半で天鳳350戦を打つ鬼打ち勢だ。大学行け

北家・清原。
大柄な体格から理不尽な和了りを繰り出す。
押し引きのメリハリは、佐々木寿人プロを彷彿とさせる。
必殺技は「そぉ〜〜れだぁ〜〜〜!!」(ロンと言わず倒牌)(6巡目)(国士無双)

初詣に行かなくなった

冒頭でアヤ牌の話をしたが、私はこのテのオカルトを一切考慮しない。
正確に言うと、考慮しなくなった。

私の家は特に宗教やそれに準ずるものに入っておらず、一方で父が神道と仏教の行事を丁寧にこなすタイプで、例えば毎年1/1を迎えると、深夜に北海道神宮へ初詣に行っていた。

私自身、「幸と不幸」とか「バチが当たる」とか、そういった物の考え方をするタイプだった。麻雀も例に漏れず、始めたての頃は流れ論者のオカルト派で、好形高打点のリーチの時にブレスレットを外すと必ず和了れるとか言っていた。オカルト派に失礼なぐらいの厨二病ぶりだ。

しかし、いやだからこそ、仲間内で麻雀を打つときにつけていた記録で、私は圧倒的に弱者だった。

これが2020年頃の私のセットでの成績だ。合計得点はワースト3だった。どうにかして勝ちたい、強くなりたい。私は麻雀の勉強を始め、「オカルト」を捨て「デジタル」へと移行した。

「流れなどない」「ツキなどない」「念じればツモれるとかない」そういった考え方は、麻雀だけでなく日常にも影響を及ぼし始めた。

まず、神頼みをしなくなった。神なんて居ないし、祈る思いの強さと結果に因果関係は無い。すると、段々と宗教行事が面倒になった。無駄な時間に感じるのである。なんなら、時間と金と労力を無駄にする、損なことのように思えた。私は、初詣に行かなくなった。

勝負を分けた4sと7s

だが、自分が麻雀を打つ時と見る時とは別だ。対局を振り返るにあたって、「流れ」「アヤ牌」などといったものは、話を盛り上げるのにうってつけのキーアイテムだ。

下家の京極がトップ目で迎えた南2局。親といえど大きくは離れていない2着目の私は、できればここで追い抜きたいところ。

しかし、京極から先制リーチがかかる。トップが偉いルールではあるが、ここは無理をする局面ではない。

更に、上家の小柳がやや迷いつつも追っかけリーチをする。
二軒リーチならオリて良いだろう、と思った矢先のことだった。聴牌したのである。しかもくだらない手では無い。役は無いがドラ3の満貫だ。待ちは嵌4sだが、和了ればトップ目に立てる。
リーチの場合宣言牌は3mになる。この3mがどちらにも無筋だ。
宣言牌は二人とも5mで、自分からは5mが3枚見えている。私は、少なくともどちらかは455mからの36mリーチなのではないか、と感じ、長考した。

小柳は被先制時でも聴牌をしたら曲げるタイプだ。期待値はあまり知らない。自分はドラを3枚抑えてるから、他家はその分安くなりがちだ。まして現物を切って満貫クラスの聴牌なら、悩まず即リーだろう。

それに、ここで京極が和了ったら、もう逆転の手は入らないかも知れない。宣言牌の跨ぎだがワンチャンスではある。何より自分は打点が12000あるのだ。

「リーチ」

意を決し放たれた3mには声がかからない。少し安堵を覚えるが、所詮は愚形。あまり和了れる感触は無かった。

驚くことに、それから3巡が経過する。3軒に無筋の中張牌も2,3種類河に出ていた。思わず4者とも失笑してしまう。
やがて引いてきた牌を見て表情を崩したのはトップ目の京極だった。河に4sを叩きつけた。
「ロン」
倒れた私の手牌を見て、より一層ガクッと肩を落とす。どうやら好形だったらしい。

それから1局挟んで南3局。ドラは7s、親の京極が仕掛ける。一方の私は、絞りつつも5200のシャンポン聴牌が入る。ドラの7sで和了れば8000だ。あの12000から、攻守共に効いた手が入り、なんだか調子がいい。

親は軽そうで他2人は大人しそうと、対面の清原がリーチをかける。ここは1枚も押さない。

ツモってきた牌は完全安牌で、そのまま聴牌を維持する。すぐに清原が7sを河に落とした。

「「ロン」」

私と京極が同時に発声する。私の声を聞いた京極は、ボディブローを喰らったように蹲った。頭ハネだ。

ほぼトップを確定させながら、私は京極を不憫に思った。どうも47sに嫌われているようだ。

この日、私は1着2着で+70.2で大幅に加点した。しかし縦に長い展開で順位は5位。シビアな展開が続きそうだ。

頭ハネってどうなの?

さて、今回煮詰まった場面で2家のロンによる頭ハネが発生した訳だが、この頭ハネというルールはゲーム性の観点で適当なものなのだろうか

頭ハネの由来としては、1局に和了者は1人であるべきという考えに由来している(私はそう認識している)。

Mリーグにおいて(観る雀として)どちらが良いかという議論は今回置いておくとして、論点は公平性だ。席順という要素で和了できる者とできない者が発生する。これに不公平感を覚える人は少なくないだろう。もしダブロンがアリのルールなら、1回戦は京極が2着目になっていたかも知れない。

だが私が頭ハネのルールに抱く違和感は、ただ不公平感から来るものでは無い。

麻雀には西入というサドンデスルールはあるが、同点によるサドンデスは存在しない。当然だ、サドンデスによって同点の者以外の着順や点数が変わってしまうおそれがあるからだ。

なので、同点の場合の着順点について、必ずルールが存在する。順位点を分けるか、起家が東家に近い者を先着とするかだ。

後者のルールの場合、例えば西家か北家を開局32000でトバしたとする。トビありルールなら、東家と南家は共に25000持ちだが、東家が2着で南家が3着となる。南家からすると「席順3着」というヤツだ。似た経験をしたことがある方は多いだろう。

これにも不公平感を覚える者は少なくない。「何も悪いことをしていないのに損をした」からだ。

席で結果が変わる、という点では、頭ハネのルールと同点時に席順で順位点が変わるルールは似ている。そのルールが存在する理由が異なるのだが、感覚的には大差ない(と私は感じる)。

応物リーグが採用しているMリーグルールは、同点は順位点を分ける。でありながら、同じく席順で結果が変わる頭ハネのルールを採用しているのは、なんだか一貫性が無いように感じるのだ。
同点時に順位点を分け、かつ、ダブロンとトリロンもアリの方が、ルールに公平性を感じる。

ゲームのルールというものは、規則性と面白さとの絶妙なバランスで成り立っている。果たして頭ハネのルールは、ただの慣例からくる惰性ではなく、整合性の取れたものなのだろうか。

皆さんは、どう思いますか?

(了)

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