庭園メモ Emotion
「かつて、私は君と面識がある」
プラチナに会ったことがある?いつ?
どこで?
あれから数日経ったが、少女の頭はまだその疑問ばかりで埋め尽くされていた。全く記憶にない。まだ全てを思い出したわけではないのだしと言い訳もしてみたが、あんな容姿のAIと面識があったら、たとえ一度であっても記憶に残るだろうという気がしてならなかった。
真っ白に淡い水色の影がかかる長い髪。同じように真っ白な肌と羽織、着物。深い青色の行燈袴。桜色の瞳。白椿の髪飾り。そのどれもに見覚え一つない。そこらにおいそれといるような外見でないことは確かなのに。
しかし一方で、それらの一切が記憶にないことの根拠らしきものがあるのも事実だった。プラチナはどうやら「一方的に」こちらのことを知っていたようなのだ。つまり少女──ラズベリー・ショコラとは対等な関係ではなかった可能性が高い。ファン?ストーカー?流石にというか、その正体までは彼の口からは語られなかった。「そこまでの記憶はまだ回想できていない」とのことだが、本当かはわからない。だがわざわざ「一方的に」知っていることを明かしてきた意味を思えば、多少は信じてもいいのかもしれない。
一方的──
ふと一つ浮かんだ仮説はすぐに否定した。そんな馬鹿なこと、あるはずがない。あるはずがないが、そんな保証はどこにもない。
部屋を飛び出す。あの公園に向かったが、あの日とは違い真昼間だからか彼の姿は見当たらない。AI達の話し声で賑わい、当たり前のように晴れた青空の下。『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を思わせる長閑な風景は、彼女一人だけを置き去りにして日常を歩んでいた。
***
同時刻、同公園内。
「彼」に【この世界も自分自身も虚構である】可能性を提示された男が一人、歩いていた。公園には似つかわしい黒いハットと長いローブ、厳ついエンジニアブーツという出立ちの男はやがて大きな池の前に腰を下ろす。そして懐から白い箱を取り出し、中身の一つに火をつけた。周囲の者達が少し怪訝そうな目で男を見つめていたが彼は意にも介さず、一つ白い煙を吐き出した。
ここ数日間、彼は妙な現象をたびたび目にしてはいた。しかし目覚めて日が浅い故、本調子に戻れていないからだと思い、気に留めてはこなかった。眩暈のようにしばしば目にしてきたノイズ。その時垣間見えた舞台の裏側、青い世界。何者かに襲われた記憶。青から赤に変わった世界。時折疼く左目。
(……これは、現実で実際に起きた事象?)
確かに、彼は長い間起動に応じず眠っていた。人間達は原因不明のバグによるものだと思い、途方に暮れていた(そのため彼の目覚めは彼らを非常に驚かせ、同時に歓喜させた)。その「バグ」だったものが、現実では原因がはっきりしているのかもしれない。バグでなく、人為的な理由であるのかもしれない。ならばそれを知りたい。もし犯人がいるのであればその人物を締めようなどと物騒なことを考えながら三本目のタバコに手を伸ばし、視線を感じて振り返った。しかしあったのは喫煙者への厳しい視線であり、それは今しがた感じたものではない。とはいえ結局それ以外の視線とその主を見つけることはできず、男は首を傾げるばかりだった。
***
十分後、某所ビル群。
息を切らして走る者が一人。腰に巻いたロングスカートとそのフリル、ふんだんにメッシュの入った長い髪をはためかせながら、器用にAI達を避けて前に進んでいく。
気付いてしまった。
彼の仮説は正しいのだと。
男を見て、すべて思い出してしまった。
走る少女──ラズベリー・ショコラが現実世界で行ったこと。それはこの世界で彼女が行ったものと同じであること。
わかっている。逃げ道はない。それでも、今だけは。
彼女が向かった先──プラチナの所属する会社に辿り着くや否や彼に会わせてほしいと受付に頼んだが、真っ昼間な上多忙な彼はそこにおらず、すぐに少女はビルを出ることになった。そしてアイドルのような派手な格好と鮮やかなマゼンタ、それに虚ろな目という歪な組み合わせのまま、ラズベリー・ショコラの姿は雑踏に飲まれ消えていった。
作家修行中。第二十九回文学フリマ東京で「宇宙ラジオ」を出していた人。