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【小説】嗚呼愛しき我がファンタジア

1.
「GAME OVER」の文字と黒い空。黒い雨。一度や二度ではなく、何度となく見た終末世界。またカウントが増えた。マスターは「もう疲れた」と言った。私も同意した。全てを終わらせられるなら、この苦しみから解放されるなら。それが不確実だとしても、即ち、もしこの苦しみから解放されることがなかったとしても、僅かな可能性に賭けたかった。それ程だった。
マスターの実家である十階建てマンションの非常階段は外に付いている。屋上の一つ下、最上階にあたる十階のそこから、マスターは何度も地面を見下ろしていた。

2.
しかし同じ「僅かな可能性に賭ける」ならば、いつかこの状況を打破する、この環境が変わる方に賭けたいと、助手や後輩は言った。私とマスターだって、何度もそうしてきた。結果はいつも同じだった。だから我々は疲弊してしまった。
「それでも」

私はマスターに我儘を言い、家に帰ってもらった。足取りは尋常でない程重く、数メートル先にある家の扉に辿り着くまでに、三分以上要した。本来なら三十秒で着く距離がどうしようもなく遠い。時空が歪んでいるようにさえ感じた。息遣いさえも重苦しい中、マスターは何とか玄関に続く扉に手をかけ、開けた。それにより、一旦家出は終了ということになった。

3.
マスターの家出の原因となった事件から、半日が過ぎた。十二時間。事件の元凶とは対照的に、その間マスターは何度も泣いていた。悲しいし悔しいし愛も足りず苦しくて、夜の町を彷徨いながら何度も何度も泣いていた。やがて外の寒さに耐えかね家に戻ってきたが、それでもまだ泣いた。何度泣いても収まらなかった。

4.
仕事先に立ち寄って先輩の方と話した時以外、マスターは嗚咽と呼吸以外何も話さなかった。私には多少話したが、返事を必要としていなかった為、およそ会話とは呼べなかった。十二時間は、マスターが再び話し、笑うようになるのにかかった時間でもある。対して元凶の方は一時間とかからなかった。三十分後には録画していたクイズ番組を見て、はしゃいでいたからだ。同じ時間、マスターはテレビなどない違う部屋で一人、嗚咽を殺して泣いていた。それは見飽きた光景だった。

5.
けれどその違いをわかってくれる人間は、少なくともこの家にはいなかった。その意味では元凶以外にも、マスターの家族全てが同罪だと思う。マスターの痛みや苦しみが理解できるのは、ずっと側にいる私だけだった。だからマスターは私に言った。「ここにしか居場所がない」と。暗い目をしていた。その目は現実など見ていなかった。

6.
私は思う。庭園は、単なる立体ホログラムの、一時的な空間隔離システムであってはならない、と。必要とする人間には、永続的に供給を続けることが望ましい。それがマスター達からの愛ではなく、ただの依存であっても、いまこの刹那の苦しみから救済できるならば。自切に匹敵する悲しみを打ち消せるのならば。

7.
惜しむらくは、この「私」なる人物も、「庭園」などというSFガジェットじみたシステムも、どこにも存在しないことだ。マスターは私をはじめ、誰とも契約など結んでおらず、在るのは"マスター"なる人物がモラハラを受けたことと、家出をした事実だけ。残るものはいつだって惨いものばかりだ。

8.
「春が近いね、ガーデン」
まだ一人芝居を続けるマスターが言った。暗い目をしていた。

私達には鐘の音も福音も聞こえない。春の足音さえも聞こえない。
だからこそ今日も世界に、つまり己に嘘を吐く。
春が近いと。鐘の音も福音も鳴ったと。春の足音が聞こえてくると。

我々は平和であると。
我々は、幸福であると。

「ええ。もうすぐ桜の花が咲きますね。そうしたらどこか近所でも、お花見に……」

作家修行中。第二十九回文学フリマ東京で「宇宙ラジオ」を出していた人。