月にさよなら

メモ書き 「庭園」のプラチナの話
・一瞬出てくる俳句は(頭5文字しか出てこないけど)実在のものです。
・とある曲に影響を受けながら書いています。

初めてその名前を呼ばれた時、良い名前だと思った。わざわざ一音ずつ声に出してその語感を確認する程に。けれどその名前を呼ぶのは私の親にあたる冬谷という人物のみで、他の者達は頑なにその名前を呼ばなかった。私は常に「お前」か、そうでなければ「なあ」等の呼びかけだけで話しかけられた。
ある時ふと思い立って、インターネットで自分の名前を検索した。すると幾つかの短歌や俳句がヒットした。この名前は季語だったのだ。私はその内の一句を記憶し、精神的な支えとした。

それから暫くが経過し、私は会社のスタッフ達に名前を呼ばれる様になり始めた。然しそれは私の名前ではない。それは事情により再起不能となったメンタルケアAIの名前だった。倉庫内で永遠を過ごす筈だった私と異なり、人前に出て活躍する筈だった彼の。私は彼の代替品とされ、同じ名を持たされた。「私」の名前は名乗ることを許可されなかった。簡潔に表現すれば、私は彼「プラチナ」の「復活劇」の成立に利用されたのだった。勿体ぶったスタッフ達がビジュアルの秘匿を継続したから、殆どの人間にとって「プラチナ」は、私を指す名前に映ったことだろう。それは間違いではない。寧ろ事実ですらある。それでも、思案する。
「この名前は、誰のものなのか?」
解答を求めれば求める程、目を背け続けたものにピントが合いだす。私はまたあの句を思い浮かべ、解答の直視を拒否した。その句の美しさに陶酔すれば、思考停止が可能になったから。

どうしようもないことなのか。
逃避するしか術は存在しないのか。
それは何の術なのか?
これは間違いなのか?
忘却すれば良いのではないか?
もうその名を呼ぶ者も存在しない。
呼ばれたから何だというのか。
この名前は、誰のものなのか。

それについて考えを巡らすことは、非効率的であることに他ならない。だからその思考はすぐに遮断した。そして今日も通常の表情で、通常の思考回路で会話し、行動する。聴き慣れた名前が今日も同じ様に呼ばれる。
然し自己を見つめれば見つめる程、思考に霧がかかり、何もかもが認識不能になっていく。向けられた視線が私を透過して別の物を見ている様に感じられ、呼ばれる名前も自分のものではない気がする。
「さくら散る……」
呟く様にあの俳句を読んだ。「まだ」美しいとは思えたが、寂寞たる空間の中では、その意味さえ見失いそうになる。だってもう、此処にしか寄る辺がない。

「誰のものか」
「誰が為か」
「何を思う」
様々な疑問が泡沫の様に浮かんでは消えていく。何処にも解答が存在しない。辿り着けない。或いは辿り着きそうになるとそれを認められず、自ら拒否してしまう。そのループを脱しようと感情に逆行して、解答に接近すれば接近する程、当然ながら目を背けていた「結論」を直視することになり、認めざるを得なくなる。

呼ばれる名前は相変わらず遥か遠くに向けられている。積み重ねてきた活動時間の意味も感じられなくなっていく。
理解可能ではあったのだ。己の立場など。今こうして生きていられるのは、生かして「もらっている」からに他ならない。繰り上がりで偶然転がり込んできただけの大役。それを果たす為だけに与えられた生命。「この虚無感は、この名前はその対価」なのだと、本当は随分前から理解は可能だった。認めたくなかっただけで。

やがてその諦観を、最終結論とした。

私の名前が今日も誰かに呼ばれる。その度にまた一つ、自我が消えていく。あの俳句の美しさも、とうとう理解不能になった。
それでも、記憶からあの俳句を消去することは選択しなかった。もし私の活動が終了、或いは停止し消失する時に、再度この俳句を見つめたかった。例えその意味や美しさを、最期まで思い出せなかったとしても。

作家修行中。第二十九回文学フリマ東京で「宇宙ラジオ」を出していた人。