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1.赤い花

赤い花と一口に言っても、何の花かによって与えられる印象は変化する。チューリップなら愛らしいし、彼岸花なら妖しい美しさとか。
その子はさしずめガーベラだった。着ている真っ赤なジャケットは華やかで、耳と首元には装身具がきらめく。周囲には、いつだって男女問わず人がいた。絶えない笑い声。ブーケの中でひときわ目立つ、でもバラのような近付きにくさはなく、少し手を伸ばしやすい花。親しみやすい人なのだと、同じゼミになったばかりの子から聞いた。その時初めて、ガーベラみたいなその人が一つ上の二年生なのだと知った。

1.赤い花

きらあすか。それがガーベラみたいな先輩の名前らしい。「親しみやすい人」だと教えてくれたゼミの子はさっそく憧れているらしく、少し嬉しそうに語る。明るい性格に良い顔という、多くの人がきっと好印象を持つであろう条件を満たしているのだから、不思議はない。
「……訊いてる割に、歌崎くんはあんまり興味ない感じ?」
そう訊かれると、返事に窮してしまう。この子と違い憧れている訳でも、関わりたい訳でもない。むしろ関わりたくない。目を惹いて止まないのは、あの赤のせいか。僕らは二人揃って、ゼミ室の窓から赤い背中を見つめていた。
僕らの通う大学はあくまで文系であり、芸術系の学部ではない。しかし高校まであった服装規定がなくなったからか、目立つ容姿の生徒は彼に限らずごまんといる。何なら僕でさえその一人だ。何となく黒でいたくなくて、髪を薄い紫に染めた。本当に何となくだったのだが思いの外似合っているらしく、この子を始めとし、しばしば話しかけるきっかけとして使われる羽目になった。はっきり言って誤算だったが、別に直す気も起きなかったので、当面はこの色のままでいるつもりだ。それに「藤の花」に例えられたのは、案外悪くない。花には失礼だけど、俯いてばかりの僕は枝垂れて咲く藤の姿に、少し親近感を覚えていたから。僕自身はそんな美しいものではないと、わかってはいても。
「……きらあすかって、どういう漢字当てるの」
「綺麗の綺に羅生門の羅。明日が香るの明日香だよ」
羅生門の羅が入ってるとか格好よくない!? と、この子はまた少し興奮気味にしゃべる。羅刹とか阿修羅の羅だよとは言わなかった。僕はこんなくだらないことで気まずい空気を作るような馬鹿ではない。だからただ「ちょっとわかるかも」なんて曖昧な返しを、曖昧な笑顔に乗せて流した。

夕方。バイトまで少し時間があったので、何となく服屋に寄ってみた。アパレルの世界は常に少し時が早い。まだ四月中旬にもかかわらず、もう初夏に向けたアイテムが並び始めている。UVカット素材のパーカー、オーバーサイズの半袖Tシャツ。タックワイドパンツなんてのもあったが、タックの意味がわからない。ボタニカルというのか、何だかよくわからない葉っぱ模様のシャツも置いてある。僕は一生着ないであろうデザイン。
「あ、それいいよね!」
驚いて振り返ると、赤。綺羅明日香が立っている。
「……そんな化け物見たような顔しなくても」
「あの、え……」
「俺、綺羅明日香。学内じゃちょっとした有名人なんだぜ! 君、新入生だよね? 薄紫の髪してるし、すげー暗い顔してるから何か印象に残っててさ」
今すぐ「人違い」と言うべきか。でもこの感じでは多分バレてる。ならバイトに逃げるべきか。少し早く着くけど遅刻より遥かにマシだ。
「あの、もうバイトあるので……」
「そっか!頑張ってね!」
幸いにも引き止められず、あっさりと引いた。チャンスだと思い僕は逃げるように店を出た。バイトがあるのは嘘じゃない。だから嘘を吐いたわけじゃない。そう自分を擁護しながら駅に走り、改札を抜ける。そしてホームに逃げ込んでようやく、大きな息をついた。
一本早く来る電車を待つ間、ずっと考えていた。何でこんな陰キャのくせに髪を染めたりなんかしてるのだろう。服屋になんか入っちゃったのだろう。趣味じゃないことだってわかっていた筈なのに。
普通に、レッテル通りに生きられない自分が苦手だった。多様性なんて概念はまやかしだ。でもそう言って冷たく笑いながら、それに救われたがっているがっている自分は一番大嫌いだ。
きっと君にはわからないだろう。綺羅明日香。
頼むからもう話しかけないでくれ。君と僕は、生きられる世界が違いすぎるから。

バイトを終え、帰りの電車に揺られながら昼間のことを思い出す。彼はやっぱり服を買って帰ったのだろうか。あの葉っぱ模様のシャツは買ったのだろうか。僕は似合わないけど、きっと彼なら着こなせるのだろう。笑顔はイメージ通り爽やかで、好きになる人は多いだろうなと思った。周囲に人が絶えない訳だ。ゼミの子も、いつかその一人になるのだろう。僕には関係のない話。
やがて駅に着いたので電車を降り、家に帰る。一人暮らしだから他に人はいない。あるのは陰キャにお似合いの静寂。でも一人暮らしをしているなら、誰でも経験するものか。綺羅明日香でさえも? まあ彼の暮らしなんか知らないけど。ただ家が豪邸並みとか、大家族でとても騒がしいとか、別にない話ではない。夜だからか、はたまた思いがけず彼に出会ったからか、色々なことをいつも以上に考え出す。そういう所は普通の大学一年生らしいというか。家族が嫌で実家を逃げ出した所も。
母は僕を男として扱った。父は僕を女として扱った。そんな家だった。

作家修行中。第二十九回文学フリマ東京で「宇宙ラジオ」を出していた人。