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花火のような美しさを。

わたし年表があれば、2020年の欄には「KAT-TUNのファンクラブに入る」と刻まれるのだろう。

ファンクラブに入るのはちょっと様子を見て1年ぐらい経ってからでもいいんじゃないか、そう友人にアドバイスをもらったけれど、気持ちを抱えきれずにそこから1か月ほどで入った。わたしにとって人生初めてのファンクラブだった。ペイジーもわからなくてインターネットで調べたり、明細に「KAT-TUN」と書かれるのも知らなかったり。ちょっと半泣きで、嬉しくてくすぐったかった。


わたしはKAT-TUNを好きになった。2019年の冬、KAT-TUNに出会った。


2019年の12月、何気なくみた6人のKAT-TUNに、わたしはすべて持っていかれた。

「KAT-TUN・赤西仁」に、すべてを持っていかれたのだ。

「赤西仁」の存在をもちろん知っていた。でもたぶんそういえば、歌って踊っている赤西仁を観たのは初めてだった。
怖かった。好きだと心でわたしが叫んでいた。
王者のような風格、宝石みたいに澄んだ瞳、吠えるような厚みのある歌声も、立ち姿も歩いている姿も座っている姿だって、わたしは喰われると思った。

初めて買ったライブDVD。カメラが撮っているんじゃなくて赤西仁に撮らされているみたいな、そんな風にさえ感じた。ステージに愛される人。ステージを愛する人。ステージが赤西仁を求めていると思った。

どんな人生のルートでも、赤西仁はアイドルやアーティストになる未来が待っているのだろうと感じた。

わたしは2020年5月に、ごくせん2をみた。友人と見終わったあと、わたしはぼろぼろだった。どうすればいい?わたしはこんな光景を目の当たりにして、これからどう生きていけばいい?そう思うほどに美しかった。この未来をどこまでもみたくなってしまった。1ミリずれただけで世界が変わるような、この未来のつづきの万華鏡を覗きこみたくなってしまった。

わたしは亀梨和也と赤西仁の奇跡をみた。これがシンメなんだと苦しくなった。言葉はいらなくて、隣にいるそれだけでエネルギーはかけ算になって、どちらかが足し算をすればどちらかは引き算をして、でもどちらも足し算をしたときにたぶん爆発力が天井を越えていくのだと思った。

何度となく思う、このときに好きになっていればよかったという想いを、ごくせん2をみたときに思った。永遠の新規になりたかった。永遠をとじ込めたような一瞬を、瞬きをせずに刮目していたかった。

ふたりは花火みたいだった。ヒューと聴こえる昇り曲から、想像の大きさを越える花を夜空に咲かせる。音が聴こえてからの胸の高鳴りを、何万人もの胸の高鳴りを一心に背負うのはどんな気持ちなんだろう。どうやって咲かせるんだろう。

それでいて亀梨和也と赤西仁は線香花火のような美しさを持っていた。わたしは息をのみ手の震えを抑え、一瞬を煌めかせる桃色と赤色の魂を見つめるようだった。

宝箱にしまった気持ちを取り出してみたくなったのは、 年末のごくせん2再放送を観たからだと思う。
極彩色の美しさを、浴びてしまったからだと思う。永遠を見つめてしまったからだと、そう思う。

そのときにしかない危うさも脆さも儚さも、画面の中にあった。
今が一等うつくしいのは、このときがあったからなのだと、この一頁があってからだと思う。
その一頁をこれからも大切に抱き締めていたい。好きを重ねていった1年の、一枚目の"好き"の想いをまた宝箱にしまおうと思った。









15周年year、3人が笑って過ごせることを祈って。
6人の未来がいっそう輝くことを祈って。