中丸雄一と出会った日
ずっとずっと、少量の毒を飲んでいたみたいに。
気がついたときにはもう遅くて私の血はすべて毒に染まっていたみたいで。
甘い毒に溺れていたのは、もしかすると出会ったときからなのかもしれない。
一昨日、つい一昨日の話だ。まるで伏線が回収されたかのような気持ちだった。どんでん返しなんてもんじゃない。KAT-TUNと出会ってから私は何をみていたのだろう。なんにも知らなかった。知ることができなかった。前から存在は知っていた、そう思っていたのは私だけだった。
中丸雄一と出会ってしまった。
この感情を書き留めておきたい。ぼろぼろの文だ。感情のままに書き殴らせてほしい。出会った足跡をどうか残させてほしいのだ。
私がKAT-TUNと出会うまでの中丸くんへの印象は「KAT-TUNっぽくない」だった。
「KAT-TUNっぽい」という私の押し付けがましいエゴを言葉にすると「クール、ワイルド」であり、擬音で表現すると「ギラギラ」だった。中丸くんからはそれらをあまり感じなかった。まさに好青年、シューイチでの印象も非常に大きいだろう。
私が出会った6人の映像のKAT-TUNではあどけないという印象を受けた。メンバーにいじられ、いじられにいき、ころころと笑い、「KAT-TUNっぽい」。誰よりも子供のようで。
そこからメンバーが減っていくごとに鋭さが増していくように見えた。中丸くんは変わっていないのにクールで切れ味が鋭いように見せているように、私には見えた。誰よりも子供のようで、誰よりも心の奥に情熱を宿して、誰よりも感情剥き出しで、それを隠すみたいに冷たさで覆う。それでも情熱の温度でメンバーの前では冷たさが溶けていく。
それが私の中丸雄一への印象だった。
私が本当の意味で中丸雄一と出会ったのは「Marionation」だった。
最初にMarionationといったときに、危ないと思った。この感覚はよく覚えている、KAT-TUNと出会ったときの落雷のような感覚だった。操り人形になったのではない、「あぁ騙されてあげよう 終わりまで」自ら操り人形でいることを選んだ彼。憂いを帯びた表情から伝わる彼女を本当に好きだったという一つの答え。
手で顔を覆う仕草、「不機嫌な顔で」で右に傾くときの視線、軽やかなダンスと対する視線の切なさ。
作詞が中丸雄一だったこと。
劇薬だった。今まで少しずつの毒で慣らされていたのに、この毒はあまりにも猛毒だった。これが中丸雄一なんだと、確実にそう思わされた。
そこで止めを刺すかのように出会ったのが「アブストラクト」だった。
ここまで感情をむき出しにするアイドルだと、私は今までどうして気が付けなかったのかまるで不思議だ。
あまりに強いメッセージ性。モニターに映る抽象としての中丸雄一と偶像の中丸雄一のユニゾンは、脳を揺さぶるほどだった。虚無や無重力は、愛によって突き動かされているように感じた。光を操る姿は、その無気力が原動力に思えた。光と友達なのではなくて、光が彼に操られに集まっているかのような動き。届けたい相手がいるときに持つ歌の力の偉大さを思い知らされたのだ。
私が思うダブル・ミーニングとしての「アブストラクト」。知ってしまったときに、心臓をコントロールなんてできなくなって、鳥肌なんて言葉でも表しようがなかった。息が詰まるほどの衝撃と、あまりに重い愛の具現化を目の当たりにしてしまった。
「KAT-TUN」に追い付こうとしていた中丸くんは、「KAT-TUN」そのものだった。KAT-TUNへの重い愛と歩いているんだと思う。
ボイスパーカッションをする中丸くん、イラストが得意な中丸くん、フルーツカットが得意な中丸くん、動画編集をする中丸くん、コメンテーターとしての中丸くん、ミックスボイスがクリスタルな中丸くん
中丸雄一の氷山の一角はまるで一角なんかではないのに、それでも一角と思わざるを得ない底知れなさ。
私は中丸雄一と初めて出会った。
あまりの劇薬を過剰摂取してしまった。
誰よりもKAT-TUNだった。クールでワイルドだった。
心に情熱を飼いならしている。飼いならされた情熱こそが、中丸雄一の概念そのものだった。