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刈られぬ垣根

(女性は)身繕いする際につねにあらかじめ異性からの視線をじぶんの視線のなかに取り込んでおかねばならないという不自由さがある。
鷲田清一『ちぐはぐな身体』

女性は、というより、女性の方がといった方が正確だろう。
痛み分けのつもりではないが男女互いにマーケット拡大にしろネットミームにしろ何かしらネタにされている。昨今は特に美醜コンプレックスの植え付けが凄まじい。
それでもいざどちらかの性が取り沙汰されればイタチごっこにしかならないのが現実である。


誰も彼も自認する性を守ることで自身を守りたいのだろう。自認する性を蔑ろにされることは、「私」という内面を無視した勝手なイメージを押し付けられることである。

女性の場合は特に顕著で、「女である」という明確な性のレッテルのもとに自身を馴染ませることを半ば強制されている。
逆に男性には、女性ほど「男である」とレッテルを意識する機会は少ない。そのうえどこか女性より自由であるような誤った概念が無意識に刷り込まれている。指摘され訂正されるようになってきたとはいえ、男女平等は実現していない。

私たち男は、さらにその「どちらかの性である」という課題すら免除されている。私たちが思う存分「個人」としてふるまっているその横で、女性たちは「女でいる」
岸政彦『断片的なものの社会学』


「私」を守るための反論が攻勢的であるとソリが合うことはない。今なお女性蔑視をする人はいるし、過剰な反論をする人もいる。
つまり、差こそあれ互いに攻勢な層はいて、和解よりもレジスタンスを叫ぶ人もいるだろう。

しかし、全男性が男尊女卑のメンタリティというわけではなく、女性もまた全員が過激なフェミニストでもないことは改めて押さえておくべき事実だ。

だから結局は自身の性を守ること、「私」を守ろうとするのは個人レベルでの共通事項なのだ。

まずそもそも、個人で生活が違う。生活が違えば細かな認識がズレる。守ろうとすることと同じく、誤ることにも性差は関係ない。色々な問題を繊細に取り扱うことで思考や発言の自由が奪われるようなある種の煩わしさがあるかも知れない。裏を返せばその煩わしさこそが誤認の余波である。

「私」を守るために男がどうだ女がどうだと言う前に自分を顧みてはどうだろう。
巷ではよく人間は間違えると言われる。その「人間」が「私」であることを理解している人がどれだけいるのか。
そしてまた、間違える自覚にふんぞり返ることもタブーである。ともすれば驕りに陥りかねないほど「私」を顧みることは繊細なのである。


おわり


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