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20年

 20年前、僕は6才でした。それをリアルタイムで見ていたか定かではないけれど、テレビの画面を見て硬直していたと思う。世界情勢を知っていた大人たちは別の意味で硬直していたのでしょう。何しろ当時の僕にとっては作り話のような映像そのものでした。

 あの日あの場所ではその瞬間まで多くの人が生きていました。人が生きることは人生を経験と共に歩む中で自分の想いを更新しながら日々を循環していくことだと思います。各々は各々の循環の一部であり、それが人と人との繋がりでもあります。
 だから、繋がりのある人が突然亡くなることは遺された人の循環が途絶えること。つまり死の実感とは「その人」が人生の循環の一部だったと気づくこと。こうして後から気付くことの悲しさは言わずもがなですね。


 たとえば、犬や猫など他の生き物と暮らしている人たちにとっても彼らが亡くなった際には循環の断裂がダイレクトに感じられるのではないかと思います。というのも、人ではないけれども家族であるという彼らなりの特別な関係があるように感じられるからです。いかがでしょう。


少し逸れました。

 無機質な言葉かも知れないけれど、事実として毎日どこかで人は亡くなっているし、たとえ有名人の訃報が流れたとしても関心がなければやはり早々に記憶は薄れてしまう。それが海を越えた先の話であれば尚更だろうと思います。
 命が終わることを否定できるとしたら神か仏くらいなもので(否定しているかどうかはまた別の話。ここではあくまで死の概念を否定できる万能者として神や仏を出しています)、我々人間ができることは人が亡くなることは人生の一大事だと共有することくらいなものでしょう。

 逆に、神仏ではないということは故人の一人ひとりに哀悼は捧げられないということで、そうであればこそ、せめて知らされた死にはたとえ仮初、空虚、偽善、独善だとしても悼む姿勢が取れる人間でありたい。これは僕自身に対する僕の願いです。

 その行いは正しいことではないのかも知れないし、当然ながら不完全なものでしかないでしょう。けれど、何も考えず何も感ぜず何もしない状態はそれこそ無機質な人間だときっと僕は後から悔悟します。


 死は全生物に必ず訪れる絶対的な終わりであって、その一点において死は絶大な重みを持ちます。つまり他人事ではない一大事ということ。忘れがちですけどね。僕もあなたも死にます。
 だから我々はやはり日付にしても何にしても、何かをきっかけに死の事実を思い出しては考えていかねばならないと思うのです。


 終わりが見えないので最後にします。こういう死に関することをネガティブとするか、事実として受け止め思考のタネとするかそれこそ各々に委ねられたひとつの循環のカタチでもあるのでしょう。
   様々なカタチはあれど人は自身以外の生物の死、生命活動の終わりによってしか自らにある死を知ることができません。その事実は大切にしなければならないと僕は思います。






おわり





2001年9月11日への追悼として

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