無題

ぼんやりとした不安vs目の前のリアルな不安――こうして専業ライターになった

全部やれ。』ができるまで(1)

16年の年末か17年が明けたすぐくらいだったと思う。
「ちょっと折り入ってお話があるんですが……」
『週刊文春』の担当編集から呼び出しがあった。
こういう時は、嫌な話だと相場は決まっている。
ああ、もしかしたら、早々に連載終了なのかなと思った。

『週刊文春』の連載が始まったのは、16年の10月。
亀和田武さんと青木るえかさんが交互に書かれていた「テレビ健康診断」に3人目の執筆者として加わったのだ。
長年続くこの連載に加わることは、身の引き締まる思いがした。
フリーのライターにとって——と主語を大きくしてしまうのは良くないので、僕にとって、『週刊文春』で連載を持つというのは、かなり大きなこと。
何しろ連載陣は、池上彰、小林信彦、近田春夫、宮藤官九郎、伊集院静、みうらじゅん、能町みね子、辛酸なめ子、町山智浩……、そして水道橋博士と錚々たる顔ぶれ。間違いなくそれは、現在の雑誌界随一だろう。その末席に名を連ねるのだ。
否が応でも気合が入る。
と、同時に果たして『週刊文春』の読者層に自分が受け入れられるのかという不安は大いにあった。
実際、なんだか浮いてるなあと感じてもいた。
だから結構本気で、打ち切りの心配をした。
もしそうだったら悔しいし、恥ずかしいなあ。「『週刊文春』史上最速で連載打ち切られた男」(実際の記録はわからないけど)としてネタにするしかないなあ、なんてことを思っていた。

そもそもお前は誰なんだ

と、唐突に書き出したけど、「note」では初めまして、なので自己紹介をすると、僕は2005年に「てれびのスキマ」というブログを立ち上げました。
当時、テレビの感想を書くブログはたくさんあったけど、テレビの発言を引用(書き起こし)して記事にするというスタイルはあまりなく目新しさもあってか、割と早い段階からテレビ関係のブログとしては注目?されていたんじゃないかと思います。
で、2009年に商業誌デビュー。細々ながらたまーにコラムなどを書くようになり、2012年から「日刊サイゾー」などWEB媒体で連載開始。この年の11月からは、水道橋博士さんに誘われて「水道橋博士のメルマ旬報」に創刊号から書かせてもらえるようになりました。翌年には『週刊SPA!』で初の紙媒体での連載もスタートしました。
そして2014年3月に初の単著『タモリ学』、翌月『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか』を刊行。その後、『コントに捧げた内村光良の怒り』、『1989年のテレビっ子』、『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった』、『笑福亭鶴瓶論』、共著で『大人のSMAP論』が出版されています。連載も増えました。
と、こうしてみると、ものすごくトントン拍子。順風満帆のように見えます。
実際、ライターとしての僕は、ものすごく幸運だったと思います。
たまたま、まともにテレビを見て真正面から書くライターの席が空いていたこと。
水道橋博士さんを筆頭に様々な編集者さんたちとの出会いに恵まれたこと。
そうした幸運がなければ、いまの自分はあり得なかったでしょう。

居心地のいい地獄

もちろん、ライターとしてではなくひとりの人生として見れば、順風満帆なわけではありません。
暗黒のような学生時代、絶望的な人間関係、うだつのあがらない社会人生活……、
僕は間違いなく人間として“落ちこぼれ”でした。
それはともかく——。
ライターとして大きな転機になったのは2013年。
当時、本業の職場は、『モテキ』でいうところの「居心地のいい地獄」そのものでした。
やりがいがない、みたいな社会人なりたてのような不満は置いておいても、よく言われるような「報告のための報告」的な仕事ばかりが山積みになって本来の業務を圧迫。もはや需要のない一昔前の商品をそのまま大量につくり、社員やアルバイトがそれを(半ば強制的に)買うことで需要と供給をギリギリ辻褄を合わせている(ことを上層部も分かっている)ような仕組み。仮に出世して偉くなってもその負担が大きくなるばかりで、自分の裁量でなにか売上につながることをやろうと思ってもできる自由も極端に制限されていました。
その上、給料も激安。会社として安定はしているけど、安定しかない会社でした。
このまま定年までこの会社で自分は仕事していられるのだろうか。そんな「将来に対する唯ぼんやりとした不安」が横たわっていました。
けど、周りの人たちはいい人ばかり。僕は比較的仕事がやりやすい立場にいました。つまり、出世はしていなかったから、あまり責任はないけど、自分の部署の仕事はそれなりに経験を積み、自分だけしかできない仕事もある。だから、そこの中では割と発言権があって、自分のやりやすい環境をつくれるといった感じ。
会社員になって一番居心地のいい時代だっとと思う。
けど、辞めたいという思いは日に日に強くなっていきました。

すべてを「震災のせい」にするライフハック

話は前後しますが、2010年から一冊の書籍企画が動いていました。それがのちに『タモリ学』として刊行されるもの。
けど、その後、上記のように連載を抱え始めたため、普通の会社員として本業がある身としては、なかなか執筆が進まない状況に陥っていました。
ところで当時僕は福島県のいわき市に住んでいました。
(よく福島県出身と誤解されるのですが、奥さんの実家がいわきで、結婚後引っ越しただけなので、あまり福島県民という意識はないです。生まれは九州の福岡で、静岡県育ち)
2011年、東日本大震災が起こります。いわきは地震や津波で大きな被害を受けますが、何よりも大きかったのが、原発事故の影響でした。
けれど、幸いなことに職場や周りの知り合いも亡くなった人はいなかったし、僕が就いていた仕事は、職を失ったりする他の仕事と比べれば、震災の影響をそれほど大きくは受けなかった。
結構早い段階で、日常の業務に戻ることができたのです。
「『震災の影響で』って言ってればいいんじゃない?」
「それがダメなら『放射線のせい』にしとけば」
仕事が目標に達しなかったり、納期に遅れたりすると、当時の職場でよくこんな軽口がかわされていました。
何の解決にもならないサムい冗談を言い合いながらも、この「すべてを震災や原発事故のせいにする」っていうのは意外といいんじゃないかって思い始めていました。
自分の都合よく、言い訳やモチベーションの糧に、これらを利用することって、実は有益なことじゃないかって。

2013年、僕は『タモリ学』執筆の遅れと、「震災」を理由に会社を辞めました。
執筆の遅れはそのままの理由。
「震災」は、「明日死ぬかもしれないから好きなことを……」云々。
居心地も良くて安定した職を捨て、成功するかわからないライター一本を選ぶのはリスクが高い。バカな選択です。
人はリスクの高いチャレンジをする時、何らかの理由がほしくなる。
それは自分を奮い立たせるための理屈であったり、周囲の人を説得するための理論であったり。
そこで、僕はこれを「震災のせい」にしてみた。
もっともらしい言い訳が見つかったのです。
苦しい結果や悪い結果になることも、もちろんあるだろう。
でも、まあ、いいや。
だって「震災のせい」にすればいいのだから、と。

実際には「なんとなく嫌だ」というストレスが飽和状態になり、「好き」に逃げただけ。
安定しかない職場に対する将来の「ぼんやりした不安」が、不安定な生活を強いられるフリーライターの「目の前のリアルな不安」を凌駕してしまったのです。

そんなわけで僕は専業ライターになりました。
で、幸運にも比較的順調にキャリアを重ねることができた僕に、冒頭の“ぼんやりとした不安”を抱かせる呼び出しがかかったのです。

「実は、連載とは別に、書いていただきたいものがあるんです」
編集者はそう口を開いた。ああ、良かった! 連載終了じゃなかった。でも、何を書くんだ?
「いま、テレビでは日テレが圧倒的に強いですよね? その強さの源流を探るようなものを書けませんか」

日本テレビか——。
ぼんやりとした不安が消えた後に、今度は、ハッキリとした不安がやってきた。
なぜなら、僕は日本テレビのバラエティが「苦手」だったからだ。    


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