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隼への手紙~幼なじみとラジオの相方から~


まずは隼の幼なじみからの手紙

隼へ

お誕生日おめでとう!

今日二十歳になった隼に、僕が初めて会ったのは僕たちが幼稚園に入った頃です。そしてその後、同じ小学校に入学した僕たちは、中学生になっても高校生になっても同じ学校にいました。
単純に計算してみると20ぶんの14年間、つまり人生の3ぶんの2以上も側にいたことになります。なんとなく納得なような、全然実感が湧かないような感じがするけど、隼はどうですか。

せっかくの機会なので、隼との思い出を小さい頃のことから順に少し思い返してみました。

既に書いたように僕たちは幼稚園から一緒だったわけだけど、その頃の記憶が曖昧なのと、後半2年間はクラスが違ったので一緒に何かした思い出はあまりありません。でも何度か東京のお家にお邪魔して、庭のプールで遊んだり、サウンドオブミュージックのDVDを見たりした記憶があります。笑
そして小学生になるタイミングで千葉に引っ越した僕たちですが、学年が上がるにつれて一緒に遊ぶ機会もどんどんと増えていき、毎週のように、時には毎日のように、夕飯まで一緒に食べるようになりました。

夏に毎日暗くなるまで海で遊んだりもしたし、
相手の家に思いがけず長居してお風呂に入ることになった時には、着替えを用意していなかった相手にパンツを貸したこともお互いに何度かあったと思います。そういえば、僕が補助輪なしの自転車の運転を練習し始めたのも隼の自転車でした。

こうして隼たちと遊ぶことが日常の一部になっていく中で、気がつけば僕たちは中学生、高校生と大きくなっていて、そして気がつけばクラスはだんだんと小さくなっていました。まず男子は僕たち2人だけになり、最終的にはクラスが僕たち2人だけになりました。このラジオでもたまに話に出てくる農業実習や交流会に2人で行ったのもそんな時だったと思います。そうして2人で授業を受けることになったわけですが、この頃の僕たちの関係を今振り返ると、話さなくても相手の考えていることがわかるほどの仲であると同時に、クラスは同じだけど特に話したことはない同士のような関係でもあったなと勝手に思っています。

小学3年生くらいの時にプラスチックの棒を投げつけあったのを最後に目立った喧嘩をしていない一方で、学校以外で一緒に何かするということもあまり多くなかった気がします。思えばそれまでも、一緒に遊ぶ時には親やお互いの弟が一緒で、本当に2人だけで遊んだことはほとんどなかったわけです。

そんな中、高校の途中で隼は転校し、その後何度か顔を合わせたことはあったけど、高校の後に僕がドイツに来てからここ2年ほどは全く会えていない状況です。

なのでこのラジオを通して、隼が元気そうにしていることを知っては嬉しくなると同時に、昔から変わっていないなとおかしく思ったり、とても変わっているところに驚いたりしては、久しぶりに隼と話してみたいなと、最近よく思います。そして特に、働くってなんだろう、大人になるってなんだろうなどと考え話している会などを聞いてはその気持ちを強めているので、お互いに二十歳になる今年こそは是非会って話しましょう。

これまでの十代までの隼との付き合いに感謝してます。どうもありがとう。そして二十代になる僕たちの新たな関係にワクワクしています。これからもよろしくね。 



次にラジオの相方岩田から

隼へ

お誕生日おめでとう。そして毎週3時間以上電話して、それを公開するという変態行為に付き合ってくれてありがとう。あんまり友達と二人で誕生日を祝う機会もないと思うので、嬉しいかぎりです。

こんな機会だから、僕たちって今までどんな感じで付き合ってきたかを振り返ってみようと思いました。少し照れくさいけれど、頑張って書いたから聞いてね。

隼が僕を認識したのは、中学3年で英語劇を見に来たときだよね?出る側だった僕は隼を覚えていないけど。劇の中で僕の役はアイルランドの巨人で、民族衣装であるスカートをはいて赤ちゃんの真似をするという演出だったのだけど、今思い返すと出会い方トリッキーすぎるね。

まだ出会ってないから知らないだろうけど、僕はその後賢治の学校に転入という形で入って、色々悩むのだよ。なかなか学校に馴染めなくて、でも天然パーマをいじってもらったり転校生だからなんだかんだチヤホヤしてもらったりして、高1の終わりには漫才をやって「面白いキャラ」としてなんとか受け入れてもらえた気がした。

話は戻って、僕が隼をしっかりと認識したのは、高1の秋に全国のシュタイナー学校高等部が集まる交流会で、隼が漫才をやっていたのを見た時だな。1番後ろで見ていたから声が聞こえなくて、どうせすべってると思って下を向いていたけど、オードリーのネタをアレンジしたみたいなやつで春日役をやっていたのを覚えているよ。鬼瓦。

その数か月後に僕も学校内で漫才をすることになって、めちゃくちゃ緊張して、春日君は数百人の前でこれをやったのか!と思ったな。そしたらその春日君が高校2年からうちに来ることになって、めちゃくちゃびっくりした。

4月に入学してきた春日君は、一週間とたたないうちに学校に馴染んでいってもっとびっくりした。僕は一年前にその学校に転入したのだけど、さっきも書いた通り馴染むのに時間がかかったからね。そんですぐに、こいつとはキャラが被っていると思って焦ったなあ。

僕よりもがっつり天然パーマだし、フレッシュな転校生で、ラグビー経験があって、苗字がいから始まって、漫才をやって人気者になって、、、。僕が一年間やってきた分野で自分より強いキャラクターが来るってどういう状況だよ!と思った記憶がある。

今思えばキャラ被っているわりに意外と早く仲良くなってたよね。4月のゴールデンウイーク前にはメールアドレスを交換して、白いガラケーと銀色のガラケーでやり取りしていたら共感するポイントが多くて、距離が縮まったのかな。この時代にガラケー使ってるって事までキャラ被ってるじゃん!

被ってる被ってる言ってるけど、僕の中ではそうじゃないなと思った出来事があって。体育の時間に野球をしてて、当時髪の毛を伸ばした隼がハッスルしてグラウンドを全力疾走している姿が面白すぎて、みんなで大爆笑したの覚えてる?動きが面白いっているのは自分にはない物だったから「ああ、この方向だと勝てない」と感じたのです。他にも色々な理由があるけど、そこあたりからツッコミ役を目指していった気もするよ。

自分語りばっかりごめんなさい。高2の秋には学校祭のラーメン班で一緒になって、二人ともけっこう重要な役職で頑張ったよな。たまにぶつかったりしながら、あの時は本当に忙しかったけれど、ラーメンを一から作るという、みんなが毎年実現不可能だと諦めていたことに挑戦しちゃうワクワクは、その後の何物にも代えがたい気がする。

放課後とか休日に他の友人込みで一緒に遊ぶことも多くて、当時の写真を見返すと麵をくわえてるか、変顔をしてる隼が沢山いるよ。変顔も自分にはできないからすごいと思うし、未だに見返して笑ったりするよ。

雪の日の蒙古タンメン

初期の変顔…

だけど高2の終わりから、一度うちら疎遠になるんだよね。

隼に好きな人ができて、その人との時間が多くなっていって、別に誰が悪いとかではなくて単純に話す機会がほとんどなくなっていって、高3の最初の方の写真にはほとんど隼がいなかった。夏休みに友人から隼が病んでいると聞いて、連絡してみたけどあんまり心をひらいてくれなかったり。かと思ったら二人でキリンの工場見学に行く相変わらずの変態ぶりを発揮したり。

仲が悪くなった訳じゃないから、2学期に入ってからは徐々に話すようになっていくのだったよね。そんで秋にクラスで行ったヨーロッパ旅行では、二人ともじゃんけんで負け続けて、五日間連続同じソファーベットで寝るという苦行を乗り越えたね。僕のスマホには、その時ソファーに座って上半身裸で変顔をする隼がしっかり復活しているよ。

変顔復活INヨーロッパ

ヨーロッパ旅行から帰ってきたら卒業劇があったんだけど、それは二人の関係を語る上ですごくでっかい出来事だよね。隼が主役で、僕がその親友役で二人のシーンが本当に多かった。殴ったり怒鳴り合ったりのアクションシーンが沢山あって、他にも泣きついたり抱き合ったり、難しい演技が山ほどあったのを覚えています。感情をぶつけ合う殴り合いでは、うちらの関係でそんなことがなかったから戸惑ったのを覚えている。

僕は役を演じきれなくて、本番も含めて本当に苦しかったけど、この芝居が僕らにかかってて、初めて密に二人だけの空間があることを楽しんでいた気もする。言語化するとありきたりになるけど、誰にも邪魔できない俺らの時間って感じ。そんなこと隼は思ってないか。

二人とも手探りで、どっちの足から踏み込むかとか細かい所まで話し合って、でもなかなかうまくいかなくて、うちらが見える所で他のことしてるクラスメイトの悪口言ってなんとかメンタル保って、あの時期は休憩無しにずっと舞台上で隼と一緒だったイメージがある。濃かったな。


劇が終わってうちらも卒業になって、8年生以下の人とやったお別れ会で二人して号泣したのも印象に残った思い出の一つ。ゆずの栄光の架け橋の歌詞が、転入してきて苦しんだけど頑張ってきた自分に重なって泣いちゃって、横を見たら隼も号泣していて、派手に泣いているのはその二人だけだったから、やっぱり境遇は似ていたのだなあと思った。

号泣する二人。恥ずかしい


卒業してから僕は京都に行き、隼は千葉に行って、たまに連絡を取り合って年に数回会う関係になったけど、なんだかその時期隼は弱弱しい感じがしてた。多分その頃の変顔はつまらなかったと思う。偏見だけど。単純に直線距離が400㎞離れているから覇気が届いてなかっただけかもしれないけどね。

それから隼はもう一度東京に戻ってきて、ウーバーイーツという天職を見つけて、インドへ行って、二人でラジオを始めることになったのは卒業してから1年経った頃だよね。始める時は深く考えていなかったけど、最初はとにかく難しかった。

考えてみれば、僕が面白いと思うのは、いつも隼が動いている姿で、多分隼もそっちのほうが好きで、それなのにラジオは声しか使えない。構成とかオチとか、もっとボケろとか、すごく狭い世界に隼を閉じ込めるのが申し訳なくて、でも引きずり込んじゃったからにはちゃんと出来るようになるまで辞めたくなくて。かと言って自分も全然上手く話せなくて、けっこう悩んだなあ。

面白いと思ったコンテンツが伸びなかったり、僕がラジオをバカにされて噛みついちゃったり、大変な事が多かったけど、相談すると隼はなぜか「僕ら以外全員間違ってるんだよ」と言ってくれて、毎回救われました。

もちろん辛いことだけじゃなくて、二人してオードリーのオールナイトニッポンのファンになったりして、夏頃にはなんとなくラジオが楽しくなってきた気がする。僕は若林の口調を真似して「ちょうだいよ。とか、いやなんでだよ!」とか言ってて、隼は春日ばりにためて「いやー、つっ、まあ」とか言ってたり。気づいたら僕が初めて隼を見た時も「春日役」で、今も毎週春日ぽいラジオをしてて、感慨深いものを感じています。ラジオだから動くことはできないけど、これからはもっと、あの舞台みたいに思い切り暴れまわってほしいと思います。

高校時代だったら「一生ラジオ続けようぜ」みたいなこと言ってたけど、お互い二十歳超えれば、それぞれ色々な事情があってなかなか現実的じゃないというのはなんとなくわかるよ。でも先の暗いことばかり考え過ぎずに、ふざけ合う時間が週に一回あってもいいと思う。もっともっと、いいラジオにしよう。僕が東京に帰った時は、また一緒にご飯を食べましょう。改めて、お誕生日おめでとう。


良い一年になりますように。

2021年1月29日 岩田悠吾

※この手紙は、本日公開の岩田と伊藤のラジオで読まれたものです。手紙を書いてくださった幼なじみさん、ここには載ってないけど他にも書いてくれた人、本当にありがとうございました。

僕か隼のInstagramストーリーからラジオへ飛ぶことができます。


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