見出し画像

Ⅲ章/上【BeastOfTheOpera】

 記念公演当日。オペラ座周辺は、着飾った観衆達でごった返していた。かつての王家の邸宅を彷彿とさせる賑やかさとは裏腹に、地下は身が凍るほどの静寂を漂わせていた。ただ、一つの部屋を除いては。

「エステル。ああ、エステル。素晴らしい。私の見立ては間違いなかった!」

 正装を纏ったペトロニーユは、飾ったエステルをこれでもかと賛美する。褒められた本人は「やめて頂戴」と赤い顔を背けた。

 香油を含ませた結い上げた髪、夜空を映したかのような絹のドレス。薄く乗った化粧に、胸元に添えられた小さな白い花。くたびれた普段着を着ている時も可憐だったが、着飾れば尚のこと。夜に揺蕩う妖精の姫君にも勝る可憐さだ。

「ああ、すまない。そんな顔をさせるつもりはなかったんだ。ただ、あまりにも君が綺麗で……嬉しくなってしまった」

「何故貴方が喜ぶの。変な子ね」

 エステルの頬が緩む。

 さあ行こう、とペトロニーユは細い手をとった。

「今この時の君は、地上のどんな花よりも可憐で、どんな彫刻よりも美しい。呼宵はペルセポネが地上へ戻るその日だ。なんて素晴らしい、春の始まりだ!」

「ふふふ、春はまだ暫く先でしょう」

 本当に、子どものようだ。僅かに口元が緩むのを自覚する。

「エステル、何を笑っているんだ」

「少しだけ、昔を思い出していただけよ……懐かしいわ。貴方はお人形を着飾るように、私におしゃれをせがんでいたわよね」

「あの時からずっと、君が美しく着飾る姿を見たかったんだ。もう、最高の気分だよ」

「よく言うわ……あら、もうこんな時間。公演が始まってしまうわ」

 時計の針は、公演二十分前を示していた。

「ああ、そうだね。さあ、行こうかお姫様」

 二人は地下を後にする。

 通路を抜け地上へ出ると、目に入ってきたのは装飾で彩られたオペラ座だった。麗しき支配人の就任十周年を祝うため、劇場もめかし込んでいる。周りに広がる夜の街のきらめきも心なしか、普段より何割にも増して見える。

「パリ中が貴方を祝福しているかのようね」

「照れくさい冗談はよしてくれ」

 オペラ座の中へ入ると、そこは人っ子一人居ない、がらんどうだった。あらかじめ、人払いをしておいたと聞いたが、改めて目の当たりにすると面食らう。

「……驚いた。本当に人が居ない」

「君のためだけに作った、専用の道だ。私と信用できる職員しか知らない。勿論彼らが君を見つけることもないだろう」

 得意げに目配せすると、エステルを確保していたボックス席へと案内した。五番ボックス席。この劇場の最高級シートの一つだ。

「さあ、入って」

 開かれた扉の向こうには、落ち着いた質の良いソファと重厚なカーテン、いくつかの食事が置かれていた。嗅ぎ慣れない香りもする。

「良い香り。香水?」

「東洋の香だ。簡単な目くらましに使えるらしい。今、私達の姿は、他所からは別の者に見えるんだとか。以前屋敷に招いた商人から試しにと買い取ったものなんだが、なかなかに面白いだろう」

 今夜は人目を気にする必要はないよ。得意げに、ペトロニーユは言った。

 そっとバルコニーの下を覗くと、全ての席が埋まる程の超満員。うっすらと幻想的な照明の中、皆公演を今か今かと待ち望み、談笑している。

 眩暈がしそうだ。久しぶりに大勢の人間を観たからだろうか。無意識に後ずさりする。

「エステル。もうすぐ開演の時間だ。こちらにおいで」

「ええ……」

 言われるがままソファに腰かけると、ペトロニーユは膝にそっと毛布を掛けた。

 みるみるうちに照明が落ちていく。観客達は一斉に拍手し、会場は身の震えるような喝采に包まれる。ブザーの音が鳴り始めるとともに、緞帳が上がった。

 演目は『ファウスト』。ゲーテによって綴られた、一人の老人と悪魔の取引を描いた物語だ。このオペラ座の人気演目の一つであり、ペトロニーユのお気に入りでもある。

 ふふ、懐かしい。

 まだ幼い頃「君の 『ジュエル・ソング』が聞きたい」とせがまれた覚えがある。仕方なく歌ったが、自分の歌はお世辞にも上手いとは言い難かった。粗末なジュエルソングしか聞いていなかった彼女が、最高級の歌声を最高の席で聴ける様になったと思うと感慨深い。

「私は、君のジュエル・ソングも好きだよ。ずっと、遠い記憶の中から手を伸ばすような……そんな温かな雰囲気が」

「おべっか使っても何も出やしないわ」

 ペトロニーユはそっと、エステルの肩によりかかる。

「ずっと、君と一緒に観たかった。君の隣でオペラを観たかったんだ。ずっと昔からの私の夢……十年経って、やっと叶った」

「気分はどうかしら」

「幸せだ。今までの人生でも一等」

 暫く、二人は寄り添うようにしてオペラを眺めた。

 物語が中盤にさしかかった頃。エステルの胸がキリキリと痛み始める。

「……っ」

 手を胸に添え、僅かに屈んだ。同時に猛烈な吐き気が襲う。慣れない人の熱気に当てられたせいだろうか。意識も心なしかぼんやりとしてきた。

 エステルの異変に、ペトロニーユが気づいた。

「……大丈夫かい。どこか悪いところでも」

「少し、緊張しただけよ。休めばきっとよくなる」

「外に出て、新鮮な空気を吸おう。立てるかい」

「ええ、でもいいの?折角席を用意してくれたのに」

 構わない。他でもない君のためだ。と、ペトロニーユはエステルの肩を抱え外に出た。

 二人はボックス席を痕にし、劇場内をゆらゆらと歩く。向かった先は、庭園だった。地下への出入り口があるこの場所は、外から見えない中庭だ。凝り性だった初代支配人の設計によって作られたここは、オペラ座の穴場的名物となっている。普段はポツポツと観光客が訪れ、オペラ座内の逢い引き場所として恋人たちに親しまれている。今夜は式典関係で閉鎖中のため、二人以外に誰もいない。

 手を引かれるまま花の道を歩く。丁寧に植えられた花壇や、整えられた植木はまるで絵本から飛び出してきたかのようで、エステルの童心は踊った。

 たどり着いたのは、小さな広場。小さな噴水と白いベンチのかわいらしいそこは、先代の支配人のお気に入りの場所だった。

「さあ、座って。少し冷えるが」

「ありがとう……」

 ベンチに腰かけ、ゆっくりと呼吸する。ひんやりと冷たい風に、柔らかな花の香りがふわりと全身を包み込む。吐き気は幾分か落ち着きはじめた。

 軽やかな草木の音だけが風とともに流れていく。

「……ごめんなさい。貴方の記念公演なのに」

「そんなこと。君の体の方が大事に決まっている」

 エステルの肩に、一回り大きなジャケットが掛けられた。

「何か、暖かい飲み物を持ってこさせようか。少しここで待っていて」

「ええ」

 子どもっぽく手を振ると、ペトロニーユは植木の道へと消えていく。一人庭園に残されたエステルは、星空を仰ぎ、深く息を吐いた。

・・・

 慣れない正装に顔をしかめ、セザールは鏡を睨みつけた。今まで数度しか袖を通したことのないタキシードは、ぎゅうぎゅうと体を締め付ける。だが、慣れない衣装以上に彼を苦しめるものがあった。

 ネクタイだ。ネクタイが結べないのだ。

 かれこれ一〇分以上格闘している。おろしたての素材だからだろうか、滑る上に硬く、上手く手順を踏もうとしても不格好な形に仕上がるのだ。

 眉間を狭め、「これだから正装は苦手なんだ」と悪態を吐く。

「セザール、準備はできたか」

 なかなかやってこない息子にしびれを切らせたのだろう。部屋の外で待っていた父がやってきた。彼もまた正装を着込んでいる。

「おや、随分と前衛的な結び方だな」

「……すみません」

「構わない。今日は私が手伝おう。次回までの課題だな」

 父はネクタイを受け取ると、慣れた手つきで結び上げた。手本のような見事な結び目に、思わずぽかんと口を開ける。

「二〇年結び続ければ誰でも上手くなる」

 屋敷を出ると、既に馬車が扉を開け親子を待ち構えていた。戸が閉まると、鞭の音と共に、軽やかな蹄鉄の音が鳴り始めた。

「セザール」

「はい」

「怪我はまだ痛むのか」

 その言葉に体が冷える。

 先日セザールは、オペラ座の地下へと潜り込み朝方発見された。その結果、軽傷の範囲だがいくつか怪我を負った。勿論説明を強いられたが、流石にオペラ座の地下に行ったとは言えない。ロジェと口裏を合わせ、酒に興味が出たと誤魔化した。執事や妹には無断外出や怪我を酷く叱られたが、父は口を挟まずその姿を遠くで見ているだけだった。以降、今日まで一度たりともその話に触れられていない。

「もう、おおかた治りました」

「ならば良い。人間はときおり無茶をしたくなる事がある。仕方の無いことだ。だが、命の危険に関わる物事には細心の注意を払いなさい」

「はい」

 セザールの一言と共に馬車が止まる。空を見上げた。先ほどは茜色に染まっていた空も、すっかり藍色のベールを纏っている。普段無い装飾を施されているからだろうか。照明に照らされたオペラ座は、化粧を施されているかのようだった。

 父に連れられるまま、劇場の中へと入る。オペラ座には劇場とは別に、いくつかのホールがあった。今回はその一つでパーティーが開かれている。

 大勢の人間がこの場に集まっているのかと思うと改めて理解する。耳障りな喧騒に、今すぐにでも泥になりたい気分だ。

「客人として、最良の振る舞いを心がけなさい」

「……はい」

 父は、赤い扉の前で止まると、それを挟むドアマンに軽く礼をした。彼らは礼を返すと、持っていた杖で軽く地面を突く。すると、扉はゆっくりと開いた。

 瞬間、香ばしい料理の匂いと人々の談笑する声が耳に入ってきた。

 中には、既に訪れていた観客たちが色とりどりの衣装に身を包み込んでいる。皆、思い思いの交流を楽しんでいた。

 父とセザールが会場に足を踏み入れると、何人かの目ざとい客人がこちらを捉えた。彼らは一目散に此方に歩み寄り、二人は瞬く間に囲まれてしまう。

 彼らは口々に話しかける。

「これはこれは、ラファイエット伯。ご機嫌いかが」

「またお会いできて嬉しいですわ。私のこと覚えていらっしゃる?以前パーティでご一緒しましたでしょう」

「久しぶりだな、ラファイエット。そういえば、君とは何年も食事をしていなかった。そうだ。このあと我が家に来ないか。腕の良いシェフを雇ったんだ」

 観客たちは我先にと父へと声をかけ、その視線を自分に向けようと必死だ。セザールは思わず父の背中へ身を隠す。

「ははは、皆様お元気そうで何よりだ」

 彼らに対しにこりと微笑む父の姿は、今までになく頼もしかった。

 ラファイエット家は、社交界でも魔書学会で広く名を知られている。それ故、家柄に財産、そして身内から見ても美しい容姿を持った父の元には、蠅のように人が寄ってくる。彼らの目的はラファイエット家との繋がりそのものだ。繋がりが強固であればある程、この世界では有利になる。中には、後妻の座を獲得しようとする猛者までいるらしい。勿論父が、そういった誘いに乗ることは一切なかった。

 セザールは、人間の醜悪さを凝縮したような姿に、思わず顔をしかめる。一方父は顔色一つ変えず、一人ひとりに丁寧に返事を返していく。

「すまない。今夜は息子を連れているのでね。また後日にさせてもらってもいいかな」

 広い掌に肩を軽く叩かれる。緊張でびくりと体が震えた。

「まあ、彼がご子息で。お父様ににて端正な顔つきをしていらっしゃる」

「以前より大きくなりましたな。確か、学生でしたか。うむ、将来、大物になりそうな顔をしている。きっと、歴史に名を残す魔書を作るだろう」

 向けられる視線に囚われないよう、生返事を繰り返す。

 そんなこと、きっと微塵も思っていないんだろうな。

 質問と言葉の雨が降り止んだ頃、突然照明が落とされる。どよめきと共に人々の視線は、ある一点に集まった。セザールもつられて顔を上げる。

 吹き抜けのロビーの二階、バルコニーにてワイングラスを持つ人物にライトが当てられる。一見すればタキシードを着た男性のようだが、顔つきや僅かな仕草で女性だとわかった。彼女は滑らかな動作で礼をする。

「紳士淑女の皆様、今宵はお集まりいただき本当にありがとうございます。お楽しみ頂けていますでしょうか」

 女性にしてはやや低く、骨に響くような張りのある声。歌手だと言われれば納得してしまうだろう。

 セザールはその姿を、以前新聞で目にした事があった。彼女こそ、このオペラ座の主。ペトロニーユ・E・ガルニエだ。まだ若いながら、大火災で痛手を負った劇場を復興させた優秀な経営者であり、希有な美貌を持つ男装の麗人だ。パリの新聞記者や権利活動家、婦人達の憧れの的でもある。

 人々は彼女へ、盛大な喝采を送る。

「本日は私の支配人就任一〇周年の記念すべき日です。今日までオペラ座が輝けているのは、ひとえに皆様のご愛顧と応援のお陰。本当に本当に、感謝いたします。また、今夜の演目は『ファウスト』。今最もオペラ座で愛される歌劇にして、私の一番のお気に入りです。開演まで今暫くお待ちください」

 上品な仕草で礼をすると、会場の人々は拍手でペトロニーユを称えた。つられてセザールも小さく手を叩く。

 照明が戻り、ペトロニーユが引き下がると、人々はまた談笑を始める。ぼうっと立っていればまた誰かに話しかけられるだろう。セザールは皿を持って、逃げるように食事スペースへと向かった。

 食欲はないが、何か口に含めば気持ちが落ち着く様な気がした。白いテーブルクロスの上には、無数の食事がこれ見よがしに並んでいる。焦燥から手当たり次第に料理を取り、口へと運んだ。だが勢い余ったせいで、大きなチキンが喉に詰まってしまう。

「う、うえぅ」

 嘔吐き咳き込んでいると、水の入ったコップを渡される。飲め、と言うことだろうか。涙の膜で覆われた視界では、目の前にいる人物が誰かわからない。とにかく胃へチキンを流し込みたかったセザールは、コップを受け取り一気に飲み干した。

「落ち着いて。ゆっくりと飲みたまえ」

「ゲホッ……ふ、ふぅ……ありがとうございま、え」

 顔を上げ、涙を拭う。視界の先に居たのは、先ほどバルコニーで礼をしていた支配人その人だった。彼女はにこりと微笑みながら、陶器の人形のような顔を此方に向ける。

「し、支配に……ん?」

「ははは、いい顔だね。驚かせてしまったかな」

 形の良い眉をくしゃりと曲げて笑う。そんな彼女の様子をちらちらと眺めながら、セザールはコップを握りしめる。

「あ、ありがとうございます」

「それはよかった。に、しても、君とはどこかであった事がある気がするな……うぅん、こう、頭の隅にあるんだけど、どうしても思い出せない」

「ペトロニーユ、久方ぶりだな」

 首を傾げる支配人の背後から、セザールの父がやってきた。支配人も「ラファイエットさん」とにっこりと微笑んだ。

「就任一〇周年おめでとう。随分と立派になったものだ。君が幼い頃の時の出来事を、まるで昨日のことのように思い出せるのに。ああ、時が流れるのは早い」

「いえいえ。こちらこそ、お越しくださり感謝いたします。どうですか、調子の方は」

「ぼちぼち、といったところだよ」

 親しげに話す父と支配人の姿を目の当たりにし、セザールは目を丸くする。

「そうだ、彼のことを覚えているか。一度だけだが、会わせたことがあるんだ。と、いっても二〇年も前のことだが」

「彼が」

 支配人の瞳がこちらをじっと見つめる。深い海の底を思わせる瞳に、どこか狂気じみた色を感じた。

「そうか、セザール。あの小さなセザールか!道理で見覚えのある顔だと思った。私のこと覚えているかい」

 思わず反射的に首を横に振り、すみませんと呟いた。

「無理もない。君たちが出会ったのは、かなり幼い時……セザールなんか生まれて間もない赤ん坊だったからな。君はまだしも、息子は物心のもの字のついていない赤ん坊だった」

「ふふ、そうだ。そうだった。おっと、いけない。用事があるんだ。そうだ、ラファイエットさん。また今度、お食事でもいかがですか。久しぶりにお話しましょう」

「勿論だ。楽しみにしているよ」

 約束ですよ。

 ペトロニーユは綺麗に一礼すると、踵を返し食事スペースを後にした。

「彼に、似てきたな……」

 ぼそりと呟くのを耳にすると、セザールは恐る恐る疑問を口にする。

「父様、あの、ガルニエ様とはどういった……」

「そういえば、話していなかったな。彼女の父親とは幼なじみであり、学院時代の同級生だった。その縁で、彼女とも幼い頃から交流がある」

「ご学友、ですか?」

「お前とフリムラン家の息子のような関係だ。物心ついた時から一緒だった。学校でも家でもよく遊んだものだ。オペラ座の中庭やガルニエ家の庭園は格好の遊び場だった。まさか、娘を残して失踪するとはな……」

 その言葉を口にした瞬間、父ははっと我に返る。僅かに目を逸らすと、どこか気まずそうに口を開いた。

「言い過ぎたな、今のは忘れてくれ」

 セザールが頷いたのを見ると、父はウェイターを呼び、皿を片付けさせた。平然と保つ立ち姿から、僅かな動揺が見て取れる。

「もうすぐ公演が始まる。少し早いが、席へ向かおう。あの場所なら、お前の気も少しは休めるはずだ」

 わかりました、とセザールは返事する。二人は宴会場を抜けて、ボックス席のある階層へと向かう。しんと静まり帰る廊下に、カーペットを擦る僅かな音だけが響いていた。

 劇場二階に位置するボックス席には、これまで何度か訪れたことがある。扉に掲げられた金色の板には『ラファイエット』の文字が掲げられていた。創設時、当時の当主がオペラ座との親交があり、多額の融資の返礼として送られたものだそうだ。

 セザールは、逃げ込むようにして扉をくぐる。席に着くと、父に勧められたワインを口に含み、そして、ぼうっと舞台を見つめる。いつ見てもあまりに美しい、絢爛豪華な出で立ちだ。その過ぎた装飾は、セザールの視界に映る度、心に虚ろを作った。

 暫くすると、先ほどホールにいた観客が一階席へやってきた。静かだった劇場内はざわめきに包まれた。丁度席が埋まった頃。照明が落ち、人々は歓喜の声を上げる。そして、緞帳が上がった。歌劇『ファウスト』の始まりだ。

 盛大なオーケストラ、舞台で踊る一流の役者たち。光に当たって煌めく衣装。多くの案客達は、それらに驚き、感動しするが、セザールにはどうもそれが理解できない。たいしたものだなぁ。と、感心するのがせいぜいだ。

 何度かオペラを見てきては居るが、どうにもこの空間がは落ち着かない。盛大に鳴らされる楽器に、金切り声のようなソプラノ、ちょこまかと動き回る踊り子たち。人々はそれを美しい、素晴らしいと賛美するが、セザールは共感することができなかった。それでも、不満を顔に出すわけにはいかない。

 体裁を気にして毎度我慢して最後まで聞いているのだ。だが父は、劇が気に入ったと勘違いしたのか、ことあるごとにセザールを観劇に連れて行く。残念ながら、父親からの誘いを断るほどの胆力は持ち合わせていなかった。

 ああ、嫌だ。

 セザールは、バレないようにため息をつくと、退屈な時間に身を捧げた。

 公演が始まって数十分経った頃。父がそっと耳打ちした。

「どうしました、父上……」

「顔色が悪い。医者を呼ぶか」

 まさか。素っ頓狂な声を上げそうになるのを堪える。この時間が苦痛ではあるが、体調が悪いということはない。むしろ、元気な方だ。

「いいえ、大丈夫です」

「……そう、か」

 父は、セザールの言葉を信じていないようだった。

「無理はいけない。少し外の空気を吸ってくるといい」

「いいんですか……?」

 願ってもない言葉に、声が裏返りそうになる。

「第一部が終わる頃には帰ってきなさい」

 セザールは頷き、ひとりボックス席の外へ出ることにした。扉が完全に閉まったのを確認すると、こっそりと拳を握りしめる。

 突然降りかかってきた幸運に、セザールの気分は浮かれていた。どこで、どうやって過ごそうか。一人で過ごす、そう考えただけでも胸が躍った。

 人気の無い廊下を、一人歩く。普段は観客でごった返しているためか、不思議な気分だ。あいにくレストランは開いておらず、休憩室への道も何故か封鎖されていた。道ばたで立っている訳にはいかない。頭を悩ませているとふと思い出す。

 父が先ほど言っていた。このオペラ座には中庭があったはずだ。あの場所なら、寒さを気にしなければ快適な時間を過ごせるのではないだろうか。

 意を決したセザールは、中庭に向けて足を進めた。廊下の突き当たりに、両開きの扉が現れた。はめ込まれた磨りガラスの向こうには、ゆるやかな照明と暗い緑が見て取れた。

 ゆっくり外への扉を開くと、ふわりと花の香りが鼻孔をくすぐる。目の前に現れたのは、柔らかな光に照らされた月の都の庭園だ。

 オペラ座の閉塞感に縛られていたせいか、思わず足が前に出る。上空一面に広がる星空にため息を吐きながら、庭園の入り口へ向かった。するとそこには、『立ち入り禁止』の看板が立てられていた。こんな時に限って、と、セザールは肩を落とす。

 落胆もつかの間、ゆっくりと顔を上げ辺りの様子を伺った。誰もいない、誰も見ていない。確認するとセザールは立て看板の向こうへ踏み込んだ。

 普段、立ち入り禁止の場所に侵入するなんて考えられない。自分でも、何故実行したのか解らなかった。先日の件で気が大きくなっていたからだろうか。それとも、劇場から抜け出した開放感からだろうか。はたまた神秘的な庭の誘惑のせいだろうか。理由はともあれ、足は進む。引き返そうと思っても、体はどんどん庭の奥へと入っていく。

 常緑樹の壁に色とりどりの花。白い石造りの彫像に、愛らしい石畳の道。人気の無さも相まって、どこか別世界に迷い込んだ感覚に陥った。

 セザールはしばらくの間、景色と新鮮な空気を楽しむ。だが、突如耳に人の会話が耳に入ってきた。侵入がバレたのだろうか。思わず立木に身を隠し、気配の後を辿る。

 庭園の奥からだ。向こうから会話が聞こえた。折角の時間を人と話すのに費やすのは御免だ。そう道を引き返そうとした時、心臓が強く鼓動した。聞こえたのは一人の女性の声。そして脳裏に浮かんだのは、夢で見た儚げな赤い髪。

 あの方の、天使様の声だ……!

 例え夢でも、あの声は鮮明に覚えている。鈴を転がすような、春の若草を風が薙ぐかのような声。思い出すだけで夢へ誘われるような声。それが近くにある可能性を自覚したときには、セザールの体は声のする方へ向かっていた。

 行き着いたのは、噴水のある小さな広場だ。高鳴る胸を抑え、花壇の影からそっと顔を出す。白いベンチに一人の女性が座っていた。

 その姿を目にしたセザールは、ぽかんと口を開けた。

 くすんだ赤毛の髪に黒いドレス、月に照らされて浮かび上がる。陶器の仮面。絵画から飛び出したかのような強い色彩に、目が熱くなる。

 夢に見た天使が、そのまま現実へと舞い降りたのだ。

「天使様……」

 思わず、声を漏らしてしまう。瞬間、彼女もこちらを振り向いた。空色の瞳には困惑の色が浮かんでいる。

「あなたは……」

「あ、いや、違うんです。違う、と言うわけではないのですが」

 セザールは姿勢を正すと、恐る恐る女の元に近づく。

「貴方はもしや、天使様ではございませんか」

 女性は、天使?と、どこかばつの悪そうな顔をした。

「一体、何を言っているんですか。人違いです」

 困惑する目が視線を泳がせる。セザールは慌てて失礼を詫びた。

「すみません。困らせるつもりでは……その、夢で見た人と貴方が瓜二つで」

「そう、ですか……それはどうも」

 庭園の照明を映した瞳が、ちらりとセザールを見やる。だが直ぐに伏せられた。それきり彼女は俯いたまま黙りこくっている。僅かな会話のせいで退くに退けない雰囲気になってしまう。

 気を利かせて何か話題を出すべきだろう。あが、あいにくまともな対人経験が少ないセザールは、話を切り出す胆力を持ち合わせていなかった。勢いで話しかけることができたのが奇跡なのだ。

 風が庭園を凪ぐ音が、静かに二人の間を抜ける。その沈黙を切ったのは、セザールの方だった。

「貴方も、今夜の公演を見に来たのですか」

「……こ、公演」

「はい、支配人の就任一〇周年の」

 女は、どこか迷ったように頷く。

「僕もガルニエさんから招待されて来たんです。貴方もですか」

 赤い髪がこくりと揺れた。

「で、ですよね。ちなみに誰かといらっしゃっているのですか。僕は父と……」

「なら、早くお戻りになられては。きっとそのお父様が心配することでしょう」

「はい。ですが、私はあまりオペラの公演が得意ではありません。体調も芳しくなかったので外の空気を吸いに来たんです」

「そう、なんですか」

 再び二人の会話は止まった。どちらも口を開かぬまま、じっと時が過ぎていく。

 不意に、遠くで何者かが呼ぶ声が聞こえた。先ほど話していた、もう一人の人物の声だろう。女ははっと顔を上げ、席を立つ。

「連れが帰ってきたようですので、私は戻ります」

 ドレスを軽くつまみ上げ、走ろうとしたその時、セザールは腕を伸ばしていた。

「待ってください」

 細い手首を握りしめ、じっと瞳を見つめる。大して女の方は硬直し自身の手首とセザールの顔を交互に見つめていた。

「……なんですか。は、離して。人が来ているんです」

「せめてお名前だけでも。お教え頂けませんか」

「でも……」

 こうしている間にも、呼び声はこちらに近づいてくる。女は少しの間悩んでいたが、観念したように明かした。

「エステル。エステルです。これでいいですか」

 待ちに待った言葉を耳にし、セザールは手の力を緩めた。

「エステル……美しい名前だ。エステル、いつかまた会えますか」

「いいえ。二度とないでしょう。さようなら」

 そう言い残し、エステルは庭園の奥へ消えた。彼女がいなくなった後もセザールはその場に立ち尽くし、速まる脈に踊らされていた。手に残る手首の感触を噛み締め、彼女の名をもう一度呟く。

「エステル」

 熱くなる頬を夜風が冷やす。余韻に浸り空を仰ぐと、先ほどよりも大きくなった月がこちらを見下ろしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?