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第一話/ガーディアン②【ペンドラゴンの騎士】


第二章/鴉の居城


 テムズ川のほとりの一端を陣取るそれは、ビッグ・ベンと並ぶこの街のランドマークとして数百年の間親しまれている。その名もロンドンペンドラゴン城。赤き竜騎士たちの集う、英国最大級の居城だ。

 その一角、英国の治安維持に努める騎士団・守護騎士団(ガーディアン)の本部ロビーに並ぶソファの一角に彼の姿があった。パサついた茶髪を無造作に束ねた青年騎士。彼の名はアリスター・アガター。ロンドンの守護騎士に名を連ねる一人だ。

 天井まである縦長の窓から空を見上げ、灰色の空をじっと見上げる。険しい目つきが、僅かに和らいだ。激務に追われる日々の中、こうしてぼうっと空を見上げる時間が、彼に獲って数少ない憩いの時だった。

「先輩ー」

 ふと、背後から声がした。何度も何度も脳に刻み込まれた、甘い綿飴のような声。

 ああ、彼女だ。

 アリスターは浅く息を吐き、そのの名を呼んだ。

「キャロル」

 どうも! とひょっこりと後輩が顔を覗かせる。動く度に揺れる巻き毛が鬱陶しそうだが、本人曰くおしゃれの類らしい。

「またボーっとしてたんですか。雲り空なんて見ていて楽しいですかね? 私は燦々とした太陽の下で日向ぼっこする方が……」

「ほっとけ。そういえば診察の方はどうだったんだ。どうせまたフローラ先生に何か詰められたんだろう」

 するとキャロルは目を逸らし、ヘラヘラと笑いながら髪をいじり始めた。

「へへ……はい。同時に複数人と感覚をつなげるのはよせって。一時間もお説教されちゃいました。あんなに怒らなくてもいいのに」

「そリャあそうだろう。あれやられるとお互い消耗が激しいんだ。でもまぁ、何もなければそれでいい。但し、やりすぎは厳禁だ。わかってるな」

「了解ですっ! あ、そうだ。騎士団長から連絡があったんですよ」

「連絡?」

 キャロルの言葉に、アリスターは眉を歪めた。

「今すぐ執務室にって。ええと、私たち何かダメなことしましたっけ……」

「覚えはないが、まあ多分事務連絡の類だろう。重要な」

 この守護騎士団の頂点にて騎士たちを統括する騎士団長。彼女に呼ばれると言うことは、何か尋常ならざる出来事が起きたと考えて間違いないだろう。

「よし、今から行けるか」

「もちろんですとも!」

 ひょこりと敬礼するキャロルを連れて、アリスターは歩き出した。

 騎士団長の執務室は守護騎士団棟の最上階かつ最奥。長い絨毯の先にある荘厳な木製扉の前へやってくると、アリスターは名乗りを上げる。

「守護騎士、アリスター・アガター。キャロル・エリオット。ただいま参りました」

 すると、重々しくも滑らかに眼前の扉が開いた。

「ようこそアガター卿、エリオット卿。どうぞ中へ」

 まず現れたのは、団長の副官だった。長身で線が細く、常時無表情を貫く彼は、真意力士からから怖いと恐れられている。だが、彼が守護騎士団の鑑とも言える精神を持つこと、そして意外にも面倒見が良いことを知っていた。

「はい。遅くなりました」

「問題ありません。奥で団長がお待ちですよ」

 副官の促すまま、二人は扉の向こうへと足を運ぶ。

 守護騎士団における最大の要所、騎士団長の部屋は、実に精錬とした美しい内装である。一切無駄のない家具、敷物、カーテン。だが、それ一つ一つに気品があり、来訪者を圧倒する。

 正面に鎮座する幅広のワーキングデスクには、一際洗練された赤い装束を纏った騎士が一人、鎮座している。灰色がかったブロンドを上品にまとめ上げ、アール・ヌーヴォーのシワに彩られた穏やかな目元には、薄い化粧が施されている。例えるなら、正に〈英国淑女〉。彼女に相応しい言葉だろう。

 紅色に縁取られた唇が、にこりと微笑んだ。

「アリスター、キャロル。このたびの任務、お疲れ様でした」

 品のある、それでいて威厳を纏う老女の声が空気を震わせる。

「いいえ、私たちは英国を守護する騎士として、当然のことをしたまでです」

「善き解答ですね、素晴らしい。成長目覚ましいあなた方の活躍を今後も期待していますよ」

 にこりと微笑む騎士団長の言葉に、キャロルは頬を高調させ「はい!」と元気よくうなずくのだった。

「さあ、傷を癒した直後で申し訳ないのですが、一連の報告を。少々面倒かと思いますが、規則ですので」

「それは後ほど、書類にて提出を」

「いいですから。さあ」

 緩やかな手で促されたアリスターは「頼んだ」とキャロルに視線を送る。
「はい、お任せください!」

 敬礼すると、キャロルは懐に忍ばせていたメモを広げ、読み上げた。

「先日匿名の情報をもとに張り込み及び巡回中、渡し手の男と遭遇、彼の手には組織から受け取ったと思しき違法魔書がありました。追跡の上、回収及び捕縛。現在ロンドン塔の牢獄にて身柄を拘束しています」

 団長は書類を流し見ると、薄く目を伏せ「良いですね」と呟いた。

「よろしい。さて、これより貴方たちにいくつか伝えなくては行けないことがあります。まず、違法魔書の解析結果について」

 団長はそう言って、団長は手元の紙面に目を通した。

「結論として、貴方たちが入手したものは魔書ではありませんでした」

 魔書ではない?

 二人は同時に、素っ頓狂な声を上げた。両者とも……キャロルはアリスターの視界を通して、逃走犯が魔書を行使する姿を目にしたはずだった。

「どうやら、あれは所謂錯覚だったようです」

「さ、錯覚」

「追い詰めた状態における、所謂『思い込み』だそうです。『自分は今、魔書を使っている』そう思い込むことで、通常以上の力を出せる、という心理的な要因によるものだ。それが彼を担当した医療騎士の見解だそうです。言うでしょう、火事場の馬鹿力と。それです」

 団長の言葉を聴き遂げた瞬間、アリスターの方の力がどろりと抜けた。あの瞬間の焦燥を返せ、という思いと、危険物ではなくてよかったという安堵が同時にやってくる。隣でもキャロルがほっと胸を撫で下ろしていた。

「造りそのものは、違法魔書と大差ない代物でした。以前入手したものと同じ素材、同じ構造、まさに大量生産品の一つ……という出で立ちでしたが、中に書いてあった魔術式は出鱈目。無造作に文字を並べただけ。魔術式を構成すらしていませんでした」

「そ、そうでしたか……」

 魔書は獣の病の罹患者の体を素体にして作った書物で、その中身には魔術式が書かれている。これが難解で、正しい方程式を組んだ内容を書き記すさねば、いざ魔力を注いだとしても何も起こらない。ただの魔書の形をした玩具となるのだ。

「素人目には分かりませんからね。魔術式は履修せねば異国の言語のようなもの、仕組みを知らぬ者が見ては、正しいものもそうでないものも、唯の文字の羅列です」

「無駄足だったってことですかぁ……?」

 眉を下げ、情けない声でキャロルが首を傾げる。

「いいえ、そうとは限りませんよ。まず、今回の偽物魔書は、これまでに回収された違法魔書と大部分が同じ素材、手法でできていることが判明。そして、新発見された残りの素材から、さらに詳細な彼らの行動経路を辿ることができるかもしれません」

「と、言うことは……一歩進んだ、ということですね!」

 目を輝かせるキャロルに、騎士団長はやさしく頷いた。

「それにブルーノ・オフレールという青年からさまざまな情報を聞き出すことができるでしょう。それがどんなものであれ、違法密売組織に近づくことは間違いありません」

 騎士団長は、にこりと二人の騎士を見やった」

「お手柄ですよ、二人とも。報酬としてこれから数日の休暇を……と言いたいところですが、現在英国は戦争に多くの騎士団員を送り出しています。少々人手不足でして。あと少し、働いて貰ってもいいですか」

 働く? と二人分の声が重なった。

「はい、問題ございませんが、一体どのような」

 僅かに険しくなった騎士団長から発せられた一言。それは、アリスターすら予想できない言葉だった。

「彼、ブルーノ・オファレールから情報を聞き出してください」

「わ、私たちがですか!?」

 目を丸くしポカンと口を開けるキャロルを横目に、アリスターは騎士団長に問う。

「……それはつまり、私たちが尋問を執り行う、と言うことですか」

 団長は無言で頷き、アリスターは眉を顰める。どうやら団長自身もこの提案は不本意なようだった。

 囚人への尋問行為というものは見、かけ以上に配慮が必要である。故に騎士団では暗部騎士(レイヴン)が、専門職『尋問官』なる役職を設けることになっている。仮に暗部騎士が人手不足だとしても、残りの人員で執り行うべきだ。アリスターもキャロルも、尋問についてはアカデミー時代に教本で流し読んだ程度。十分な知識を持ち合わせていない。適任とは言い難いだろう。

「御言葉ですが、私たちには不可能かと存じます。碌に知識のない者に鞭を預けるのは、危険であること、団長もご存じでは」

「はい、ですが今回はどうしてもなのです。任を受けなさい」

 キャロルは目を丸くし、珍しいと呟く。守護騎士団の団長はがこんなに語気強く主張することなど滅多にないからだ。

「ベティ・ベル。ブルーノ・オファレールの担当尋問官である彼女が、そう主張しているのです」

「……げ、バンシー……」

 その名を耳にしたアリスターは、思わず苦虫をかみつぶしたかのように顔を歪めた。対してキャロルは不思議そうに首を傾げている。

「容疑者の収監から数日が経過した現在。一切の進捗が無いそうです。普段の彼女なら、半日あれば容疑者から情報を聞き出すでしょう。今回のような例は初めてだとか」

 余りにも特殊な人物として有名なベティ・ベルが手こずるなど余程のことだ。いけ好かない女であることは確実なのだが、アリスター自身も彼女の実力を認めてはいる。

「なかなか口を割らない、というよりはまるで魂が抜けたかのように呆然とし、かと思えば声を荒げ野犬のように吠えるのだとか。曰く、『彼に魂を入れなくては話にならない』とのことで。貴方を指名してきたのですよ、アリスター卿」

「成程、そうでしたか」

 あの女のやりそうなことだ。

 そう言って、喉まで出かかったため息を必死に飲み込む。

「はい。そういうことですので、既に迎えのが待っています。彼女の案内のもと、ロンドン塔へと向かってください」

「え、既に?既にってどういうことですか……ヒェッ!」

 キャロルが背後を振り向いた瞬間、驚いた猫のように飛び上がった。そこにはいつ入ってきたのか、一人の騎士が立っている。一見、愛想のいい若騎士だがその首元から覗く黒い羽に、二人は息を呑んだ。

「お迎えに上がりました、守護騎士のお二方。こちらより先は私、暗部騎士団が一人、サンドラ・スタントンがご案内いたします」

 穏やかに微笑む口元とは裏腹に、臙脂色の瞳は一切笑っていなかった。ふわりとプラチナブロンドが揺れる。彼女の何とも言えぬ威圧感に、アリスターとキャロルは無意識に頷くのだった。

・・・

 黒檀色の鴉がひとつ、鳴いた。

 ロンドン・ペンドラゴン城のすぐ隣にもかかわらず、その敷地内は不気味なほどの静寂に包まれている。まるで世界で自分達だけが取り残されたような孤独感すら感じられる。それもそのはず、この英国随一の罪人収監施設、アルデバラン刑務所に並ぶ大監獄・ロンドン塔なのだから。

 この建造物周囲には全て、常に最新鋭の防音効果と防御機構が施されている。例え、塔の中で大砲が撃たれても、音や惨状が外に漏れることはないだろう、また大砲が撃たれたという事実すら露見することはない。理由は、述べるまでも無いだろう。

 アリスターたちはサンドラ・スタントンと名乗る暗部騎士に促されるがまま、このロンドン塔敷地内に足を踏み入れた。不気味にそよぐ風の音と、時折混じる鴉の声。いつ訪れても変わらない不気味な雰囲気だ。二人は、特にキャロルは身を震わせ挙動不審にちょこまかと動き回っている。

「うう……なんか、寒くないですか? さっきより体感的にひんやりしている気がぁ」

「気のせいだ。そう思っておけ」

「気のせいですか? そうですか……」

 悠々と進むサンドラの背後に隠れるようにして、恐る恐る周囲を見渡しながらキャロルは進む。普段こそ大股でだばだばと歩くくせに、今は小さく縮こまり狭い歩幅で進む。まるで尻尾を丸める子犬のようであった。

 アリスターはその様子を横目に、僅かにキャロルとの距離を詰める。だが、次の瞬間小さな悲鳴が耳をつんざいた。

「ヒィッ! 先輩、今背中触りました⁉︎ ね、触りましたね⁉︎」

 ヒョコヒョコと飛び跳ねながら、大袈裟に当たりを見渡す。その滑稽な姿にアリスターは呆れ、彼女の肩に乗る枯葉を摘み上げた。

「触っていない。ほら、ただの葉っぱだ。ギャーギャー騒ぐんじゃない」

「でもぉ……」

「大丈夫だって言っているだろう」

 普段こそ威勢のいい眉毛をくたりと下げ、キャロルは身を震わせる。俺だって早くここを出たい。本音を押し殺し、アリスターはサンドラの後頭部を追う。こうも余所者が騒いでいるのに、何も言ってこないのが不気味だ。

 暫く進むと、ロンドン塔の敷地内でも最も大きな建物の前までやってくる。サンドラは立ち止まり、仰々しい扉に手を掛けた。かつて白かったであろう煉瓦の壁には、蔦が縋るようにまとわりつき、屋根の上には此方を見下ろすカラスの影がいくつも見てとれた。

「ヒィ……」

 隣でキャロルが鳴いている。出来るなら自分だって悲鳴を上げたい。そんな気持ちを抑えつつ、アリスターは息を呑んだ。

「これよりロンドン塔内へと入ります。少し薄暗いので、足下にはご注意くださいね。あ、『飛んでくるモノ』にも」

 サンドラは貼り付けたような笑顔のまま、そうだ、と付け加える。

「そうでした。現在この中では騎士達が任務に当たっていますのでどうかお静かに願います」

「ああ、もちろんです。なぁ、キャロル」

「は、はいぃ……任務中……」

 まだ塔内に足を踏み入れていないというのに、彼女の林檎のような頬はすっかり血色を失ってしまった。ここまで案内して貰った上、今更外で休ませて欲しいなどと言えるわけない。

 ついに、背の高い扉が押し開かれる。瞬間、飛び込んで来た喉を裂くような悲鳴に、アリスターとキャロルは目を見開き後ずさった。

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」

「話す、話すから、虫を虫を!」

「死にたくない、嫌よ!死にたくない!」

 阿鼻叫喚の地獄音が、突如として解放されるのだった。分厚いセメントで塗り固められた壁の向こうから、一人、二人、三人。助けを求める声、恩赦を願う声、激痛にむせび泣く声。ありとあらゆる慟哭が、一気に鼓膜を震わせた。

「ひ、ひぇ……」

「では、改めて」

 サンドラはくるりと振り返り、形式通りの敬礼を、アリスターたちに捧げた。

「アガター卿、エリオット卿。よくぞいらっしゃいました、鴉の居城へ」

 にっこりと弧を描く、サンドラの口元。アリスターには、彼女の言葉に返事できる余裕はなかった。アリスターもキャロルも、とってつけたような苦笑いを浮かべるので精一杯だ。

「さあ、進みましょう。我が上長がお二人をお待ちです」

 振った美サンドラは踵を返し、散歩でもするかのような足取りで奥へと進んでいく。

「ここが、ロンドン塔……」

 英国の影そのものに住まう、彼ら暗部騎士(レイヴン)の主な役割。それは捕縛した囚人・犯罪者の監視と尋問である。ここ数年、戦争の開戦と違法魔書の密売が重なり、彼らの仕事はぐんと増えた。加えて始まった戦争だ。増える囚人に、減る騎士。人員不足は火を見るよりも明らかだろう。

 アリスターの知る限り、数年前の暗部騎士及びロンドン塔はこのような有様ではなかった。ただ粛々と仕事を執り行い、『騎士団の影』の異名に違わない静謐そのもの。まさか、数年でここまで変貌するとは彼は勿論、誰も思わなかっただろう。

「ひ、ひいいいい……か、帰りたいです……」

「……俺もだ」

 団長から命令された以上何もせずロンドン塔に背を向けることは許されない。二人は腹をくくり、牢獄の奥へと足を踏み入れた。そして親鴨の後ろをつく子鴨のように、サンドラの後をついていくのだった。

 だが、白に入ってから数分。なかなか目的と思しき場所に着く気配がない。同時にキャロルの表情が、徐々に暗くなっていくのが分かる。

「どうしたんだキャロル」

「き、気のせいですかね……さっきもここ、通った気がするんですよ……ホラあれ、あの大きな柱時計。さっきも見ませんでした?」

 指さされる方を見ると、時間の止まった古時計が一つ佇んでいた。瞬間、アリスターの血の気が引く。印象的なオブジェだったため、彼の記憶にも記憶にも残っていたのだ。

 もしや、自分たちは何かに惑わされている? ありもしない憶測だと分かりきっていながらも、邪推してしまう。アリスター自身も自分がすっかり気疲れしていることに気がつくのだった。

「ははは! お二方、ご安心を。こちらは脱獄防止のため作り込んだフェイクでございます。道が入り組んでいるのも、同じ理由です。私たち暗部騎士団(レイヴン)は構造を理解していますが、もし部外者が迷いでもしたら……ふふ。お二人とも、くれぐれもはぐれぬように」

 振り返りざまに、にこりと微笑んだサンドラだが、彼女の雰囲気は穏やかにほど遠い。むしろ、自分たちは欺されているのではないか、と勘ぐってしまう。決してそんなことはない、と分かっていてもだ。

 瞬間、尋常ならざる声が響いた。

「どうして、どうしてなの!」

 入り組んだ廊下を進むと、一人の女の叫びが耳に入る。ひときわ高い、歌声のような慟哭だ。高音であるはずなのに、耳障りが異様にいい。この不気味な牢獄の中でも抜きん出る、まるで歌劇場にでも来たのかと錯覚するような声。

 瞬間、アリスターの顔が歪んだ。

「先輩?」

 彼の違和感を感じたキャロルは首を傾げた。アリスターは常に仏頂面の男だ。鉱物並の硬さののクッキーを食べる時も、足の小指をクローゼットに打ちつけた時も、気に入っていたグラスを割られてしまった時も。多少眉毛と口元が動く程度で、明確な喜怒哀楽を見せることはない。

 だが、真横に立ち尽くす彼は眉を歪ませ、奥歯を食いしばり、ただでさえよくない顔色が更に青みを帯びていた。あからさまな嫌悪の表情だ。

「……もしかしてこの声、ご存じなのですか」

 アリスターはブリキの人形のように頷いた。対照的に、サンドラは笑みを強める。

「お気づきになられましたか。ふふ、お待たせいたしました。こちらが囚人、ブルーノ・オファレールの部屋でございます」

 促されるまま扉を押すと、その向こうには女が一人、立っている。その傍らの止まり木には、大柄な鴉が利口に羽を閉じていた。彼女はこちらに背を向けているせいで、表情は分からないが、絶えず震える細い肩やとめどなく溢れる嗚咽から、泣いていることが容易に想像できた。

「ねえ、どうして。どうして話してくれないの?私は、あなたを傷つけたくないのに。どうして? 教えて? 教えて教えて教えて教えて教えて」

 嗚咽と共に紡がれ、厳かに問う。キャロルの背に、生々しいほどの悪寒が走った。先ほど扉の外で聞いたそれより、何倍も美しい声だったのだ。幼い少女のような、艶やかな女。そんな魔性をはらんだ、毒薬のような声だ。

「レディ・バンシー……」

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