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二話/ブラッド・ルージュの誓い②【ペンドラゴンの騎士】


二章/風変わりな騎士


 その出会いは、突然訪れた。

「待ちなさい。聞いているのですか、待ちなさい!」

 思えばあの看護師長の一声が、無彩色だったジェフの日常に絵筆を投げ入れた。

 ジェフ・アダムソンは生まれつき体が弱かった。幾つもの持病を抱え、幾度となく命の危機を経験してきた。故に物心ついたときからロンドンの中心に存在する『騎士団立カデュケウス第一病院』の病室で生活している。

 体調が良いときは病院の敷地内に限り自由に出歩いて構わないと医師に言われているが、正直にいってそんな気は起きない。窓にかかる無地のカーテンに手を伸ばすことすら、億劫に思える。気力も欲求も何もかもを吸い取られた無地の空間で、ジェフは横たわることしかできなかったのだ。

 生きている自覚は、あるにはある。だが、それ自体に意味というモノは見いだせず、ただずっと、ぼんやりと毎日を過ごすだけ。

 まさに、灰色の日々だ。

「ヘンリー・フレッチャー!!」

 だが、偶然にも開いていた窓から、その声が聞こえた。恐らく声は看護師長ドナ・グローヴァーのもの。彼女はこの病棟随一の経験を持つ歴戦の猛者だ。ふくよかな体格といかめしい顔つきが特徴で、一部の患者に恐れられつつも親しまれる人物である。彼女の怒号は日常茶飯事だが、それが外から聞こえてくるのは初めてだった。

 一体、何が起きているのか。

 ぞくり、と身を震わせる好奇心が芽生えた。きっと、普段なら伸びないはずの手が、カーテンに触れる。徐々に高鳴る鼓動のまま、ジェフは勢いよく陽を浴びた。

「……?」

 眼下に広がっていたのは、思わず目を疑う光景だった。

 病棟を取り囲む高さ七ヤードはあると思われる壁に、何かが張り付いている。人だ。ありえない、と瞬時に思った。この壁は、病棟がまだ城だった頃の名残で外敵を退けるために作られたものだ。およそ人が素手で登れる者ではない。だが人影は嘘のように、するすると壁を上るかのように難なく登っていくのだ。その真下では看護師が物干し竿を振り回し、声を張り上げる。

「聞いているのですか。貴方は当院の患者なのですよ!」

「患者である以前に私は騎士だよ。戦場に行かせて貰うから」

「何馬鹿なことを言っているんですか! 貴方は数日前運ばれてきたばかりなのですよ? 傷だって直ぐに開いてしまう!」

「心配は無用。私は生まれつき体が丈夫なんだ」

「そういうことではありません!」

 看護師のいうことも聞かず、騎士と名乗るその人物は躊躇わず登り続ける。僅かな凸凹に指を掛け、まるで猿かヤモリのように。

「え、えぇ……」

 ジェフは思わず声を出した。感嘆ではない、例えるなら困惑。かのシェイクスピアでも、こんな喜劇の一幕は思いつかないだろう。

 今まで何冊もの本を読んできたが、目の前で繰り広げられる珍事は、どんな物語よりも彼に衝撃を与えた。事実は小説よりも奇なりとは、まさにこのことだ。

「あらジェフ君。珍しい、君が窓の外を見るだなんて」

 食事を持った看護婦が、病室に入ってきた。ゆるい巻き毛を束ねた物腰の柔らかな彼女は、病院内で最も付き合いの長い人物の一人でもある。

「気になる? あの人」

 ジェフは小さく頷いた。

「昨日やってきた、騎士団の人。戦争で傷を負って、療養に来たんだって」

「騎士団……ペンドラゴン騎士団。え、騎士様?」

 ペンドラゴン騎士団。この英国における最高戦力の一つ。英国のためにその身を捧げ、刃を振るうその姿は国民の憧れと言っても過言ではない。戦いだけでなく国民への福祉へも貢献しており、この病院も彼等の働きによって生まれた施設の一つだ。それ故、昔から深手を負った騎士が身を癒しに来ることが何度もあったが、ジェフがその姿を見るのは初めてだった。

 正直、騎士だと言っていたそれは、唯の冗談かハッタリの類だと思い込んでいた。

 あれが、騎士か……あれが……

 壁面をよじ登る姿をじっと見つめる。騎士というものは、いかなる時も気高さを失わない完璧な存在だと思っていた。だが目に見えるそれは、想像とは真反対の、斜め上をいく奇っ怪な存在だ。

「気になるのは分かるけど、昼ご飯の時間だよ。たったか食べましょう」

「はぁい」

 ジェフは看護師の言うがまま食事を摂るも、頭の中は、あのよじ登る騎士のことで一杯だった。

 ・・・

 あれから、例の騎士は毎日のように脱走事件を起こす。

 あるときは出入りする業者に変装し正門から堂々と脱出、あるときは深夜に裏門から、またある時は警備員を砂糖菓子で買収しようと試みてた。だが、努力も空しく作戦は全て失敗に終わり、毎度毎度看護婦長によって病室へと連れ戻されている。間近で見てはいないがそういった噂は狭い院内では直ぐに回ってきた。

「もう、ちょっとした有名人ですね。ふふ」

 この話が出る度に、ジェフの担当看護師は可笑そうに肩をくつくつと震わせる。

 不思議な人だ。怪我での入院なら治ればいずれ退院できる。その時まで待てばいいのに。脱走に失敗して怪我でもしたら、外に出る日が遠くなるだけなのに。

 不思議で仕方が無かった。それ故か、ジェフは徐々にあの騎士に対し徐々に興味を持つようになった。

 一体どんな姿をしているのか。外ではどんなことをしていたのか。そして、どんなふうに戦うのか。いつかしか、彼の頭の中は脱走騎士のことばかりで埋まっていた。

 今日もまた、ジェフは病室で本を読む。時たま見舞いに来る両親は、いつも必ず一冊の本を持ってきてくれるのだ。一冊づつと言っても回数を重ねればそれなりの冊数になる。いつしか、ベッド脇の棚に収まらない量となっていた。退屈な日々を癒してくれるのは、この本だけだ。本なら、どんな世界にも連れて行ってくれる。灰色の日々に舞い落ちる小さな花弁だった。

 だが、それも昨日までの話。

「失礼、少年」

「⁈ だ、誰……?」

 突如として彼の前に現れたのは、一閃の帚星だった。それは配布の検査着を纏い、肩口までさっくりと髪を斬り落とした、女性の姿をしている。彼女が文字通り、瞬く間に、一瞬のうちに目の前に現れた。

 やや眠そうに垂れた瞳が、こちらを見下ろしている。圧と言うべきだろうか。独特の緊張感が、その場を支配する。ジェフはすっかりと黙り込んでしまった。

 僅かな沈黙のあと、彼は声を絞り出す。

「あ、あの」

 すると、女性はベッドの下をチョンと指差し、言うのだった。

「下、ちょっと借りてもいいかな。隠れさせて」

「隠れ、え⁈」

 答えを聞く間もなく、女はベッドフレームの下へと滑り込んだ。ジェフは今目の前で起こった出来事が飲み込めず、呆然と空を見つめていた。

 一体何者なんだ、彼女は。

「ヘンリー・フレッチャー!」 

 丁度彼女が隠れた瞬間、看護婦長ドナ・グローヴァーが現れた。小走りできたのだろうか。息切れを起こし、いつもぴたりと整えている髪型もやや崩れかけている。彼女はキョロキョロと見回すと、真っ先にジェフの元へやってきた。

「ああ、ごきげんようジェフ君……ヘンリー・フレッチャーを見なかった? また逃げ出したのよ」

「ヘンリー? えっと、男の人は来てないけど」

 そう応えると、看護婦長は間髪入れず補足した。

「名前は男性だけど、女性なのよ」

「ベッドの下にいる」

 フレームの下から「なっ、」と絶望に満ちた声が聞こえた。看護師は躊躇いなくベッド下に手を突っ込み、先ほどの検査着の女性を引きずり出した。

「あ、その、グローヴァー女史。これには深い訳が」

「訳も何もあるものですか。まったく、少し目を離した隙にどこかに行ってしまうなんて、そこらの子どもよりも手がかかる」

「どこかに行けるほど、もう元気っ、元気だからっ」

「だめです。包帯どころか抜糸もまだなのに馬鹿なこと言っているんじゃありません。患部をぶつけて出血したら追加入院ですよ。いいんですか⁈」

「閉じてるもん。患部閉じてるもん。私大丈夫だもん」

「言い訳は結構!」

 そう看護婦が言うと、ヘンリーと呼ばれた女性は渋々とつれて行かれた。帰り際、寂しそうな瞳がこちらをじっと見つめていたのは気のせいだろうか。

 ぱたんと扉が閉まると、ジェフは一息ついた。

「何だったんだ」

 ヘンリー・フレッチャー。遠くから見たときは解らなかったけど、まさか女性だったとは思わなかった。確かに背は大きくないが、グローヴァー看護師長よりかは背丈はあったし、声も低い方だ。特に名前。その名を聞けば誰しも男性だと勘違いするだろう。

 不思議な人だ。

 例えるなら荒野に咲く野花。顔つきこそ人形の様に可憐でありながら、僅かに露出された四肢や筋肉、姿勢から野性的な荒々しさを感じる。張り詰め筋張った筋肉のせいだろうか。まるで物語に出てくる女傑を思わせる。

 もう一度、会ってみたい。

 戦争の怪我で、尚且つ動けるのであれば、直ぐ下の怪我人病棟に居るはずだ。きっと、行けば会える。そんな気がした。

「……あれ」

 床を見ると、銀色の光が見えた。拾い上げると、それはペンダントだった。装飾品と言うよりも名札のようなもの。『ヘンリー』の名と彼女の目の色の宝石が嵌め込んである。恐らく、先ほど引きずり出された拍子から外れてしまったのだろうか。

 翌日、ジェフは看護師の承諾を得て、ヘンリーの元へ向かうことにした。病室の壁に地図を貼っていたお陰で、院内の大まかな構造は理解している。だが、残念なことに肝心の彼女の病室の場所を把握していなかった。

 一人、廊下の隅で考えあぐねていると、医師がやってきた。

「おやおや、ちびっ子が一人うろうろしてちゃあいけないぜ?」

 金髪を頸で一纏めにし、無精髭を生やした男性医師だった。その身につける腕章から、医療騎士団の一員であることがわかった。

「あの、ええと、ヘンリー・フレッチャーさんのところに行きたいんですけど」

 ジェフは事情を説明すると、彼は成る程と疎な顎髭を撫でる。

「幸運だな、坊主。なんと俺はあの女の主治医だ。丁度これから様子を見に行くところだし、一緒にどうだ」

「いいの!」

「勿論だ。彼女も人好きだからね。きっと喜ぶさ」

 こっちだ、と手招きされ、ジェフはそのあとをついていく。道中、彼は医療騎士の名を訪ねた。

「俺か? 俺はモーリス・ボールドウィンだ」

「ボールドウィン先生」

「モーリス先生でいい。そのほうが嬉しいな」

「じゃあ、モーリス先生」

「はは、ありがとうよ」

 モーリスの言われるがままついていくと、一つの共同病室へと案内された。その最奥、カーテンのかかった向こう側へとモーリスは足を踏み入れる。

「ヘンリー・フレッチャーさん、お客さんだぜ」

「モーリス先生。アンリって呼んでって。あれ」

 医師がそう言うと、退屈そうに本を読んでいた、眠たそうな目がこちらを振り向いた。

「あ……」

「君、昨日のベッドの」

「は、ベッド?」

 首を傾げるモーリスに、先日の出来事を伝えながら、彼女は笑った。

「あはははは! なるほど、それが昨日の脱走事件の真相か」

「笑わないでよ先生。私はいつだって本気なんだから」

「本気すぎるのも考えものだな。ははっ、おかしいったらありゃしない」

 モーリスはひとしきり笑うと、仕事があるからと出て行った。彼の引き笑いは、しばらく聞こえ続けていた。

「あんなにツボに入らなくてもいいのに」

「うん……」

 ジェフは、改めて女の横顔をみる。綺麗だった。昨日と同じ、荒々しい印象を抱きながらも、その中に繊細さを織り込んだような、唯一無二の美しさ。美貌と言うにはまた違うが、彼女は間違いなく綺麗であった。

 思わず見惚れる少年の視線に気付いたのだろう。彼女もまたジェフを見やった。眠たげな瞳の奥に宿る、確かな力強さ。それを至近距離で目の当たりにしたせいだろうか。幼い少年の心臓はどくどくと波打ち、脳の奥まで血液の流れる音が響く。同時に身体中が熱を持ち、生まれて初めて感じる高揚に包まれた。

 なんだ、何だ。

 これは、一体。

 混乱するジェフだったが、彼を渦巻く混沌は彼女のたった一言によって解放された。

「君は?」

「へっ」

「お名前」

 あ、と息を止めた。

「ジェフ……、ジェフ・アダムソン」

「ジェフか。よろしく。私はアンリ・フレッチャー。あ、知ってるかな?」

 そう言ってヘンリーは握手を求める。おずおずとその手を取ると、硬化した皮膚が彼女が騎士であることをありありと伝える。だが、次の瞬間、ジェフは彼女の言葉に違和感に気がついた。

「アンリ? ヘンリー・フレッチャーじゃないんだ」

「父がフランス人なんだ。家ではいつもそう呼ばれていたから」

 ほんのりと、アンリの口元に笑みが浮かんだ。その微笑みがあまりにも眩しくて、ジェフは思わず目を逸らす。そして、話題を逸らすようにして言った。

「えっと、その、今日は、脱走しないの」

「ふふ、できなくなっちゃった。婦長騎士団に告げ口したみたいで。団長に『次に逃げようとしたら強制除名だ』って怒られた。言われたら大人しくしなきゃ仕方が無い」

 きょうせいじょめい。耳慣れない言葉だが、余程の大事であることは、ジェフにもわかった。

 こっちにおいで。

「えっ」

 突然の誘いに、ジェフはピョンと一歩後退りする。

「あ、えっと。立ってるの辛いかなと思って。君、上の長期入院病棟の子でしょう」

「どうしてわかったの」

 アンリは自らの腕につけられたリストバンドを示す。これには、各患者の管理番号が書いてあり、どの病棟のどのベッドに配属されているか一目でわかるようになっている。

「うん、だから無理しないで。こっちにでも座りなよ」

 アンリはまごつくジェフを軽々と抱き上げ、ベッドの脇に座らせた。

「嬉しいな。私のお客さんは週に一度しか来ないから」

「そうなんだ」

「これでも友達が少なくて。そういえば君は、どうして私のところに来たんだ」

「あ、えっと……っ」

 ジェフは、ポケットに入れていたペンダントを差し出した。途端にアンリの目が見開かれた。

「ああ、私のペンダント! なくしたと思っていた」

「よかった。アンリのだったんだ」

「うん、ありがとう。ジェフ」

 そう言うとアンリは頭を垂れ、首筋にかかった髪を掻き上げる。日焼け跡のある滑らかな首筋に、ジェフは思わず小さな悲鳴をあげた。まるで大人な、観てはいけないものを見たような気がしたのだ。

「よければ着けてくれるかな」

 囁くような甘い言葉に、ジェフは息を呑む。

「わ、わかった……」

 恐る恐るアンリの首に手を回す。図らずとも、抱きしめるような格好になってしまった。今まで母に抱きしめられたことも、看護婦に抱え上げられた経験もある。幾度となく、だ。その時は殆ど何も感じなかった。すんなりと受け入れられてきた。当たり前だった。

 だが今は違う。アンリと密着しているこの瞬間、あり得ない速度で心臓が鼓動していた。体から香る石鹸のせいか、それともくすぐったい跳ねた毛先のせいか。はたまた胸元の開いた病院着の隙間から見える、傷だらけの柔らかな素肌のせいか。このままの体勢でいたいのに、同時に一刻も早く逃げ出したくもある。

 覚束ない手つきで金具を留めると、アンリは微笑んだ。

「ありがとうジェフ。そうだ、お礼に何かしたいんだけど……希望はある」
「えっと……」

 ジェフは一瞬考え込むと、おずおずと口にした。

「また、来てもいい?」

 申し訳なさそうにこちらを覗き見る幼い目に、アンリは照れくさそうに笑う。

「うれしい。大歓迎だよ」

 その瞬間、ジェフは体験したことのない多幸感に包まれるのだった。

・・・

 それから、ジェフは毎日のようにアンリの病室へと通った。彼はアンリに様々な話を強請った。外国に行ったときの話、両親のなれそめについての話、戦場で戦ったときの話。いつ、何度聞いてもアンリの口から語られる話には飽きなかった。

「君も好きだね、私の話」

 ふと、アンリは言った。「勿論だ」とジェフは返す。

「だって、アンリの話は面白いんだ。僕の知らない、本の外の世界の話を沢山知っている。もっと、もっと聞きたいくらいだよ」

「そんなこと言って。そのうち君も、外に出られるようになるよ」

 ね、とアンリは首を傾げたが、ジェフは満足に返事することができなかった。なんせ、物心ついた時から病院にいる身だ。そう簡単に外に出れるのだろうか、と考えてしまう。

「ねえ、アンリ」

 ジェフは顔を上げる。

「もし、僕が大きくなって病気が治ったらさ。一緒に外に行ってくれる?」
 叶うかどうかわからない、朧げな願いだった。それに対して彼女は優しく頷き、柔らかな幼い髪を撫でた。

「勿論だよ。きっと、大戦が終わったらになるけど。ちょっとした休暇をとって、楽しい場所へ行こう」

「楽しい場所って?」

「うーん。アスコット競馬場」

 まさかの競馬場という言葉に、ジェフは拍子抜けした。「えぇ」と思わず声を漏らす。

「嫌かな競馬場。結構楽しいよ。馬がたくさん芝の上を駆けるんだ」

「かっこいい?」

「勿論! 騎士団の特等席に君を招待するよ」

 ね、と得意げに言うアンリだったが、もっと別のものを期待していたジェフにとっては少々落胆する提案だった。だが、彼の誘いたい場所へかの騎士を招待するには、まだ今ひとつ、勇気が足りなかった。

 そんなある日の出来事だった。いつものように彼女の隣で、戦場での話を聞いていたとき。ふと、アンリの腹の音が鳴った。

「アンリ、お腹空いたの? ご飯ちゃんと食べた?」

「ああ、ええとね。これは……」

 アンリは少し悩ましげな表情を見せると口を開く。

「私はね、少し変わっていて。父の影響でたまに、その……お腹が空きやすいんだ」

「大変じゃん。病院食で足りる?」

「あー……そこは大丈夫なんだけど」

 アンリは少し考えると、ジェフに訪ねた。

「これを聞いても、私のこと嫌いにならない?」

「へっ」

 思わずジェフは声を上げた。今更アンリを嫌いになる要素なんてないが、一体どんな言葉なのだろうかと興味が湧く。そして、そんな秘密を自分に打ち明けようとする姿に、ひどく高揚したのだ。

「だ、大丈夫……」

「そうか。じゃぁ……耳を貸して」

 ジェフは言われるがまま、アンリのそばに近寄った。至近距離まで迫る口元が、そのまま頬にいくのではないかと淡い期待を寄せながら。だが、空想は儚くも打ち砕かれ、一言、彼女は囁いた。

「人が、食べたくなる」

「……っ、ええっ⁈」

 思わず大声を上げると、細い指がぴたりと唇に当たる。

「お医者様には黙っているように言われたんだけど君なら、って……ごめん。怖がらせてしまった?」

「ぜ、全然!」

 声が裏返った。もちろん、恐怖からではない。彼女が自分自身に彼女自身の欠片を与えてくれた事実に、自分は特別であるという充足感が心を満たす。

 それ故だろうか、自ジェフもまた、彼女に何かを共有したいという欲求に誘われる。秘めておくつもりであり、いつか口にしたかった秘密。彼女への感情。

「アンリ、あのさ。僕も、」

「おーい。アンリー! 見舞いに来たぞー……って。なんだそのちんちくりん。かわいいな」

「ひっ」

 病室の出入り口に、トカゲ男が立っていた。比喩ではない。トカゲ男なのだ。そう表現するのが的確だろう。天井まで手が届きそうな長身に大きく裂けた口。薄緑色に変色した鱗状の皮膚。一眼で獣だとわかる異形の姿に、空いた口が塞がらない。

 ジェフを指差し首を傾げるトカゲ男。その指先を見たアンリは「あぁ、」と穏やかに言った。

「そうだジェフ、よく話しているビッグ・ビリー覚えている?」

 アンリはジェフに言うが、彼は動く様子を見せない。口をポカンと開けたまま、硬直している。ジェフ、ジェフ、とアンリが何度声をかけても、だ。

「……君の顔を見て驚いてしまったんじゃないのか」

「ええっ」

 その言葉にビリーは目を見開く。反抗的にカパりと口を上げるも、直後大人しく閉口した。

「確かに、おいら顔はすこーし怖いかもしれないけどヨォ……ナァちんちくりん、別に取って食ったりはしねぇからよ……」

「か」

 か。

 ポツリと発せられたジェフの言葉に、二人は困惑する。だが直後、少年は目を輝かせ叫んだ。

「かっけー! かっこいい! ダイナス? ダイナスだ! すげえ、初めて見た!」

 まるでクリスタルのように目を輝かせ、ベッド脇に駆け寄った。先ほどアンリに伝えようとした言葉のことすら忘れ、くるくると巨体の周りを回り始める。ビリーは初めこそ狼狽えていたが、単純な彼の脳みそはまんまと称賛の波に飲まれた。

「おお、よく知ってるな! オイラはタフだ、なおかつ強い。手はどんな壁にでもくっつくし、尻尾は大理石でも砕くんだぜ」

 有頂天になったビリーは、ポーズを決めながら得意げにウインクをする。

 ああそうだ、年頃の少年はこういうのが好きだったな。

 くすりと笑ったアンリは、戯れる二人の姿を見て、ほっと一息ついた。

「ビリーも騎士なんだよね? アンリと一緒に戦ってた」

「ああ! 本当は戦場にいるべきなんだけど、俺らは一応セット扱いだからさ。一時帰国って奴だ」

 一時帰国。ジェフはぽつりと呟く。

「一時ってことは、また戦場に戻る?」

「もちろんだぜ、その時はアンリも一緒に!」

 アンリの顔を伺うと、ゆっくり頷いていた。

「ああ、今すぐにでも戻りたい。騎士として、国を守ること。それ以上の喜びはない。そして未だ戦火が燃え広がる中、自分がこうして病室に籠らざるを得ない状態が歯痒いよ。けれど、師長にはまだ安静にしている必要があるって言われたけど。こんなに動けるのに不思議だ……あれ」

 気がつけばジェフの姿は消えていた。「彼はどこへ」とビリーに尋ねてみるも、彼もまたポージングに夢中で気づかなかった様子。

「便所にでも行ったんじゃないかぁガキンチョってそういうの近いだろう」

「そう。だといいけど」

 アンリは首を傾げる。なぜだか、嫌な予感がしたのだ。不穏な、そして物寂しいこの胸の疼きは何だろうか。

 翌日、彼女の予知は的中した。その日から、ジェフが病室に姿を表すことは無くなったのである。

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