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第一話/ガーディアン④【ペンドラゴンの騎士】


四章/作戦


 曇る街の空の下、ロンドン=ペンドラゴン城の裏口から出てきたアリスター一行。先ほど手続きを済ませてきた彼らの服装は騎士団の制服でも囚人服でもなく、道を歩いても何の違和感もない、一ロンドン市民の装いを身に纏っていた。

「わぁ、こんなの着るの久しぶり。ねえ先輩先輩! 私の格好変じゃないですか? ねえ、ねえっ!」

 眉を情けなく下げ、古びたコートをつまみ上げるキャロル。くるくると回り裾を気にする姿は、正に年相応の少女そのものだ。普段制服ばかり身につけている彼女にとって、一般的な女性ものの洋服を身につけることがくすぐったいのだろう。例えそれが風景に溶け込む地味な服装だとしても、だ。

「似合ってる似合ってる。何にも気にならなん。そこらの坊ちゃんにしか見えないぞ」

「ねえちょっと、スカート穿いているんですけど。レディですよ。レディ。その目は節穴なんですか」

「馬鹿、冗談だ」

 ふん、と一息つくと、アリスターはハンチング帽を目深に被る。その横からブルーノが恐る恐る声を掛ける。

「アリスターさん。お、俺の服なんですが……」

「何だ。何かおかしいところでもあるのか」

「い、いいえ! ただちょっと、慣れなくて」

 気恥ずかしそうに俯くブルーノが着るのは、ここら辺ではよく見るワーキング・クラスの服装だ。何の変哲もないそれだが、どうにも落ち着かないらしい。それもそのはずだろう、彼同じ服ばかり着まわしていた彼にとっては、新しい服というのは、それだけで居心地が悪いのだ。

「もう少し簡素な服はありませんか」

「残念ながら無い」

「では、コートを脱いでも」

「だめだ。お前はここでは顔が知られているんだろう。少しでも背格好を騙すためだ」

 そんな、とまるで捨て犬のような肩をすぼめるブルーノに笑いを堪えながら、アリスターは歩き出した。

「行くぞ。時間は有限だ。一刻も早く奴らをふん縛るぞ」

「はーい、です!」

「了解しました……」

 機嫌良く歩き出すもの、何処かぎこちなくも脚を進める者、彼等を引き連れアリスターは、ロンドンの街へと繰り出すのだった。

・・・

 三人がやってきたのは、イーストエンド・ロンドン地区。ワーキング・クラスの住民が多く住む工業地帯だ。そして、現在確認されている違法魔書の被害が最も多い場所もここ周辺である。

 ブルーノ曰く、違法魔書を託したあの集団は主にイースト・エンド地区で活動しており、日によって異なる場所で会うように指定されているらしい。複数のアジトを持つことで、万が一の時の目くらましに使うつもりらしい。

「そして今、俺たちは例の策に踊らされようとしているという訳か」

 悔しげに唸る声が、地図を見ながら低く唸る。

 現在アーネスト達は、いくつかの集合場所のうちの一つにやって来ている。ここは数年前廃業されたパブだ。ろくに手入れがされていないせいか、蜘蛛の巣が張り、窓も割られている。

「まずはここか。ありがちな感想だが、いかにもって感じの場所だな」

「はい、三度ほどですが、この中に入ったことがあります。あの、アリスターさん、俺の家族は本当に……」

「大丈夫ですよ」

 キャロルは縮こまったブルーノの肩をぽんと叩いた。

「騎士団の中でも一等強い、前衛騎士団を連れて保護に向かっていますから。彼等、張り切ってますよ。罪人をぶっ潰せるかもしれないって」

「前衛騎士?」

 ポカンと呆けるブルーノに、アリスターが口を挟む。

「ああ、そういえばロンドン市内では余り姿を見ないな。英国最強格の軍事部隊〈前衛騎士(カタストロフ)〉、守に特化した俺たちとは違い、破壊や攻撃行為を得意とする。大体何処かの戦場にいるか、他騎士団の護衛を務めるかするのが任務だが、今回の様に市民保護兼犯罪者確保にも必要とあらば出撃する事がある。戦いを生業とするだけあって、かなり血の気の多い連中だ。決して性格は悪くないがな」

「私の同期にもいますよ、前衛騎士! 大きくて楽しくて、とっても頼もしいんです。今は大戦の為に大陸へ渡ってしまいましたが」

「おいキャロル。今俺が話しているんだ」 

 賑やかな二人のやり取りに、ブルーノの表情が僅かにほころんだ。そして決意を固めたように、深呼吸する。

「あいつらは俺に違法魔書を渡す時、いくつかの場所を日替わりで指定されていました。なので……今日ここにいるかはわかりません」

「かまわない。虱潰しに探せばいいだけのことだ。準備はいいか、キャロル!」

「はぁい!」

「いくぞ!」

 アリスターはドアを蹴破り、廃屋の中へと侵入した。キャロルも続き、その指先から透明な玉虫色の糸を放出し室内に張り巡らせる。だがそこは案の定と言うべきか、もぬけの殻であった。

「い、居ないですね……」

 悲しそうに眉を下げるキャロルの肩を叩くと、アリスターは店の中を歩き回り始めた。その鋭い視線が廃墟が無人であることを確認すると、ブルーノの待つ出入り口の方までズカズカと歩く。

「ちっ、次だ。ブルーノ、最寄りのアジトは」

「はい、ええと……こっちです!」

「了解でーす!」

 その後も三人はロンドンの街を駆けた。ブルーノの知るアジトのありかを、片っ端から押しかけて歩く。一件、また一件と候補を突撃して回るが、組織の者の姿を目の当たりにすることはなかった。

 そしていつしか太陽は西へと傾き始めていた。広場のベンチへと腰かけたアリスターは煙草を一本取り出し吸い始める。くすむ香りと紫煙が、ふわりとロンドンの空に消える。

「はぁー……草臥れた。なかなか見つからねぇな、組織の奴ら」

「でも簡単に見つかったは見つかったで怖くないですか。あっさりと尻尾を見せられたら、それはそれで拍子抜けしますよ」

「まぁ、わからんでも無いな」

 売店で購入したフィッシュ&チップスを食べながら、ふとキャロルはブルーノの顔を覗き込む。

「んえ。どうしたんですか、ブルーノさん。不思議そうな顔をして」

「いいや、英国の竜騎士も疲れるんだなー……って」

「あはは! そりゃあ、先輩は騎士である以前に、人間ですから。私なんかとは……んんっ? おわっ!」

 何か言いかけたキャロルの帽子を、グリグリと整え、突き放すようにしてアリスターは席を立つ。

「はいはい、雑談はそこまでだ。紋章を外していようと俺たちが騎士であることには変わりない。最後の一仕事、シャキッとしていくぞ」

「はあい」

 キャロルは残りの、ぐい、と背伸びしてチョコチョコとアリスターの後をついていく。

「ブルーノさんもー」

「あ、はい! 今行きます!」

 ブルーノは手持ちのチキンを飲み込むと、小走りで二人の後を追った。

「キャロル、ブルーノ。休憩は終わりだ。最後の一箇所、あいつらがいる可能性が極めて高い。気を引き締めていけ」

「了解です!」

「宜しくお願いします!」

 号令と共に三人は歩き出した。静寂の元、呆然とアリスターの背を眺めるブルーノは、ふとキャロルに小脇を小突かれた。

「どうしたんですかブルーノさん。ぽけっとして」

「ああ、その。お二人、仲がいいなって思って。やり取りとか、キャロルさん俺よりもきっと年下なのにしっかりしていますし……いつから知り合いなんですか」

 ブルーノの言葉にアリスターは少し首を傾げると、至って真面目な顔で答えた。

「覚えてない。気がついたらコイツが地面から生えてきた」

「もう、人をノーム(大地の精霊の小人)か何か見たいに言わないでくださいよ」

 キャロルは不満げに口先を尖らせる。そして、咳払いをすると、語り出した。

「先輩は私目標であり、命の恩人なんです」

「命の恩人?」

「そうです、恩人です!」

 キャロルは目を輝かせながら続けた。

 三年前、キャロルは不幸にもとある連続殺人鬼と遭遇し、命に関わる重傷を負った。だが、その場に偶然居合わせた騎士の機転によって、一命を取り留めたのだった。

「それが先輩だったってワケです」

「さ、殺人鬼って……」

「その時から、私は先輩みたいな清く正しい騎士になると決めたのです。騎士学校に入って、試験に合格して……今こうして、先輩の隣に居られるなんて、夢のようです」

 清く正しい。

 ブルーノは振り返り、先行く場所で安い紙巻き煙草を吹かすアリスターを見やった。変装故完全に庶民と化している。だが、彼の清廉さや真摯さについては短い交流しかしていないブルーノ自身も十分過ぎるほどに理解していた。

「騎士か……」

 己の内に込めた誇りと共に戦う、騎士道精神を歩む者。か細い胸の内に点った、一つの灯り。高揚に似た何かが自分の中で膨れ上がっていく感覚を、ブルーノはひしひしと感じるのだった。

「ふふぅ。ブルーノさん」

 遠い場所を見つめる視線に、突如ひょっこりと顔を出すキャロル。難の前触れも無く現れた少女に、ブルーノは素っ頓狂な声を上げて後ずさる。その声にアリスターも静かな視線を向けた。

「ブルーノさん。あんまり見てると睨まれちゃいますよ。先輩、お顔見られるのが好きじゃないんです。気になるんですって」

「あ、は、わかりました」

「煙草を吸っている時は警戒していますからね。眺めたい時はお昼寝時を狙うと良いんです。さぁ、姉弟っぽく歩いて。んふふっ、変装してパトロールするの、結構楽しいですね!」

 お昼寝、と先ほどのキャロルの言葉を心の中で反復し、ブルーノは口元を緩ませる。不覚にも、この時間が楽しいと思ってしまったのだった。

 公園を出てからしばらく。古い倉庫街の中でブルーノは脚を緩め始めた。

「目的の居場所までもうすぐです」

「ああ、」

 遠くを歩いて居たアリスターも、近づいてくる。

 最後の一箇所はテムズ川辺りの古い倉庫だった。ロンドンの町の中心であるにも関わらず、周囲に通行人の姿はない。どこからともなく漂う異様な雰囲気と異臭から、市民にとってこの場所がどう扱われているか一目瞭然であった。

 ブルーノ曰く、彼等はこの倉庫の一角を塒の一箇所としている。他の居場所を潰しきった今、彼等はここにいつ可能性が極めて高い。ぞくりと粟立つ肌を押さえ、一行は足音を忍ばせ近づいた。

 アリスターはトタンの壁伝いに目的の倉庫へとやってくる。錆特有の鉄臭さに顔を顰めながら、中を覗き見た。

「居る」

 僅かだが、気配を感じる。感覚からして潜む人数は数人程度。作戦通り進めば、自分たちだけで十分対処できる人数だ。背後でブルーノはゴクリと唾を飲む。反して、先ほどまで騒いでいたキャロルの表情は引き締まっていた。

「ブルーノ。作戦は頭に叩き込んであるか」

「……はい」

「頼んだぞ。お前が頼りだ」

 アリスターは腰に下げていた短剣を外し、ブルーノに手に握らせる。シルエットこそ簡素であるが、鞘に施された竜の意匠から、一般人の彼にもこの行為そのものに込められた意味をいやでも理解することができた。

「アリスターさん、これ……」

「預ける。頼んだぞ」

 ブルーノは頷くと、短剣をジャケットの下にしまい込み、一人倉庫の中へと消えていった。暫くすると彼を歓迎と侮辱の声が出迎え、薄かった気配が徐々に強く浮き出始めた。

 外で静かに待つアリスターだったがキャロルはどうにも我慢ならないようで、ソワソワと忙しない。

「落ち着けキャロル。余計に動くと気配が割れるだろう」

「わ、わかってますよぉ! わかってますけど、けど……大丈夫ですかね、彼」

 心配そうな声でキャロルは言った。見れば、いつも元気な巻き毛も心なしか下がっているように見える。

「……ああ、大丈夫だ。あいつなら、ブルーノならやってくれるだろう」

「そうですか……ふふ、なら安心です。先輩が言うなら間違いないですね」

 へらりと気の抜けた笑顔を見せる少女騎士に、アリスターは溜息を吐いた。僅かに嬉し紛れのそれに、恐らく彼女は気づく事は無いだろう。

「そういうお前こそ、俺のこと信用しすぎじゃないか。ちょっと気持ち悪……」

 瞬間、アリスターの脳に重い衝撃が走った。鉄鍋を思い切り叩いたような眩暈と激痛が、視覚聴覚を鈍らせる。

「あ、が……ッ」

 張り詰めていた筈の姿勢は一瞬で砕かれ、支柱を失った体は地面へと倒れ込む。藻掻こうにも、脳髄を走る痛みに指先を動かすのが限界だ。朦朧とする視界の中、アリスターは力を振り絞り背後を見た。そこには、夕日の逆光に照らされる数人の影。凶器を持った彼等が何者であるか、混濁する思考回路でも一瞬にして閃いた。

 そうか、あの集団の。

「せんぱ、い」

 薄れゆく感覚の中、掠れたキャロルの声がした。瞬間、体に電流が入ったかのようにアリスターの体は動き出す。

「キャロル……!」

 力を振り絞り、手を伸ばす。だがその爪は、舗装された地面に力なく爪を立てるだけだ。

 次第に安定し、同時に暗くなる視界の中。アリスターの瞳に映ったのは、煉瓦の上に横たわるキャロルの姿だった。

・・・

 頬に感じる、ひりついた感覚にアリスターは目を覚ます。ここはどこだ、一体自分は何をしている。本能的に動こうにも、体が拘束されていようで、芋虫の様に蠢くことしかできない。

「……っ、あぁ……」

 朦朧と揺れる視界を睨みつける。徐々にだが、自分が今置かれている場所が、薄暗く窓のない空間であることが理解できた。周囲には十を越えるであろう人の気配も感じる。

「キャロル……ブルーノ……?」

 名を呼んだ。品のない嘲笑の奥から、小さく返事があった。

「アリスターさん……」

 やっと定まった焦点を、その方向へと向ける。そこには、血の気の引いたブルーノがいた。彼の隣には、下品な笑いを浮かべる大柄な男がいた。彼がこの集団の首領格であることは、周囲の空気感で理解できる。

「やっと起きたか、竜騎士様。はは、実に無様! いい気味だ」

「……ブルーノ、お前」

 はっきりと見えた視線は、かの青年を捉える。彼の表情は、ブルネットの髪に隠れ、表情をゆみ取ることが出来ない。継いで言葉を書けようとした次の瞬間、大柄な男が声を上げた。

「信じられるか? こいつが、お前らを売ったんだよ! 金に釣られてなぁ!」

「キャロルは……」

「キャロル? あぁ、あの小娘か。お前と同じようにスヤスヤ眠っていやがるぞ。まるで死んだみたいにな」

 頭領の指し示す先には、気を失った相棒の姿があった。ぐったりと為す術無く椅子にその身を縛り付けられている。乱雑だが強固な拘束は、そう簡単には解ける事は無いだろう。

「キャロル……、起きろ、キャロル……」

 未だ掠れる声で必死に呼びかけるアリスター。首領格はその姿を見て、満足そうにニタつくのだった。

「ほう、そうか……そうか……」

 顎髭の蓄えられた口元から、一つ、提案が成される。

「思いついた。手札をひとつ無駄打ちするのは惜しいが……お前のその達観した表情が崩れる様子が見れるなら、釣り銭が出る」

「は、」

 呆然と目を丸くするアリスターを尻目に、首領格の男は言った。

 その小娘を殺せ、と。

「お、おい……!」

 頭領がそう宣告した瞬間、仲間の一人がナイフをキャロルの喉元に当てた。乱暴に髪を掴み晒された喉元は細く、

「……!」

「ああ、こんな惨めな騎士の姿など、そうそう見れるものではない。お前ら騎士団に溜められた日頃の鬱憤、晴らさせてもらうぞ」

「キャロル……! 起きろ、キャロル!」

 かろうじて回る状態の呂律で、アリスターは叫ぶ。だが周囲のならず者たちはそれすらも見世物として嗤っていた。首領はブルーノの首根を掴み、彼の元へ歩み寄ると、乱れた茶髪を掴み上げた。

「恨むならの坊主を恨むことだ。こいつの密告のおかげでお前らは今、追い詰められているわけだからな」

 キャロルの首筋に、銀のナイフが当てられる。白く薄い肌に、それは食い込んだ。

 やめろ、とアリスターが叫んでも、嘲笑を誘うだけだ。ブルーノは未だ、青い顔をして俯いたままでいる。

「呼んでも無駄だ。お前の数倍の量の薬で眠らされている。痛みも声も、届くことはない。眠ったまま、この小娘は血しぶきと共に死ぬ!」

「キャロル……キャロル!」

 アリスターは、痛みを振り払い、叫んだ。

「今だ! 起きろキャロル!」

 瞬間、刃が彼女の動脈部を切り裂いた。だがこの場にいる数十人の望んだ朱い首飾りは現れること無く、ナイフは首の半分ほどに食い込んだ。

「……は」

その言葉と同時に、キャロルの首と両腕がぼとりと地面に転がる。僅かな静寂の後、虫の這うようなざわめきに包まれる。

「おい、お前。切り落とすまでしなくてもだな……」

「い、いいえ。俺は首に少し切れ込みを入れただけで。ましてや腕までなんて……」

 動揺する空気の中、一人の男が呟いた。

「なあ、なんで血が一滴も出てないだ……」

「一体、一体どうなっているんだ!」

「おいおいまさかこの小娘、ピュグマリオンの人形とでも言うんじゃねえよな」

 狼狽する首領にアリスターは静かに言った。「違う」と。瞬間、キャロルの首から吹き出したのは、覚めるような鮮血ではない。無数の糸が、傷口から噴き出したのだ。生命を持ったかのように蠢くそれは、周囲を取り囲む人間達を一人、また一人と拘束していった。

「な、なんだ……! なんだ、これは!」

 我にと逃げ出す構成員だが、あいにく出入り口はひとつだけ。狭い通路に同時に何人も駆け込めば詰まるのは必然だった。瞬く間に彼等は糸の餌食となり、ひとまとめにされていく。

「大げさだな……まぁ、当たり前か」

 ほっと一息吐くアリスターの元に、ブルーノがやってくる。そして彼は隠し持っていたナイフで、拘束を解くのだった。

「アリスターさん!」

「おう、よくやったブルーノ。作戦通りだ」

 解放された手首を解きほぐし、アリスターはため息をついた。

「ブルーノさん。あれは、一体」

「俺の魔書、〈アリアドネー〉の効果の一つだ」

 アリスターはコートの中から、魔書を一冊取り出す。繊細な蜘蛛のレリーフとシルク糸の刺繍は神秘的な輝きを放ち、アリスターが持つような雰囲気の代物ではない。ふとブルーノは、この魔書に既視感を感じる。

「あ、これは……」

 思い出した。自分を追うときに彼が腰から下げていた本だ。

「見ての通り、無数の糸を生み出し操る力を持つ。糸は鋼のごとき強度を持ち、人間の肉体すらつなぎ止める。シンプルだが、その分応用が効くのが利点だ。縫うように物質同士を繋いだり、糸を操ったり。適性さえあれば感覚や魔力の共有だって可能だ」

「感覚の、共有……?」

 あの時、アリスターから逃亡していた時の事を回想する。突如として脳裏に響いた女の声、今思えばあれはキャロルの声だった。なるほど、そういった仕組みだったのか。

 アリスターが関節を鳴らしている間に、男たちは次々と拘束されていった。最後の一人が縄につくと、部屋中を駆け巡っていた糸はするりとキャロルの体に戻って行き、最後は蓋をするように、腕と首が元の位置へと収まった。

「起きろ。起きろーキャロル」

 軽く肩を叩かれると、彼女はバネのように跳ね、キョロキョロと周囲を見渡した。

「おわっ。お疲れ様です、先輩! ってあれ。なんかもう終わってますね」

「やっと気がついたか。お前すっかり眠らされてたからな。俺がやった」

 そう言ってアリスターが拘束を解くと、キャロルは擦り傷のできた手首を摩り笑う。

「えへへ……すみません。でも、うまくいったようでよかったです。おとり作戦だなんて緊張したでしょう。感謝します、ブルーノ」

 にこり、とキャロルが笑いかけると、ブルーノは耳を赤くし、後頭部を掻く。

「いいえ。俺はただ言われたことをしただけですから……アリスターさんの作戦のお陰です」

「謙遜するな」

 ブルーノが照れたように笑みを浮かべた。そのときだった。

「畜生!」

 がなる大声が、地下室に響く。

「お前ら……お前ら全員ぶっ殺してやる……!」

「⁈」

 一瞬にして、周囲に冷風が吹き荒ぶ。出入り口に目を向けると、先ほどブルーノの隣にいた、首領らしき男が立っていた。その手には、お世辞にも出来がいいとは言えない、粗末な魔書が抱えられていた。

「先輩、あれは!」

「お前……!」

 アリスターとキャロルの表情が強張る。

 あれは、間違い無く――。

「はっ、はははは……! 全員氷漬けにしてやる!」

「やめろ! 今すぐその魔書を離せ」

「離すもんか! これが、これさえあれば……」

 アリスターは駆け出す。

「アリスターさん!」

「先輩!」

「クソ、ぶんどるには間に合わないか……!」

 ならばせめて、彼等の身だけでも守らなくては。

 アリスターは腰から下げた魔書に触れ、魔力を流し込む。瞬間現れた無数の虹色の糸を操り、自身と首領の間に蜘蛛の糸を張った。

「そんな糸で俺の魔書が防げるとでも思っているのか!」

「馬鹿だな。基本中の基本だ」

 アリスターは一つ、指を鳴らす。すると張り巡らされた糸が瞬く間に炎を帯びた。その光景は正に、炎の壁だ。間髪入れず、首領の氷の違法魔書が発動する。大量の氷柱はアリスターたちに向かって突きつけられるが、全て、炎の壁に吸収されていく。

「待て、待て、何故だ! あ、ああっっ⁈」

 ゆるゆると炎の壁を縮めていく中、突如、炎の壁の向こうで頭領の体が凍り付き始めた。脚から胴、腕、ついには頭まで、水晶のような氷が侵食していく。

 その身が完全に凍り付いた時、アリスターは炎の壁を完全に仕舞うのだった。

「俺は止めたぞ。自業自得だ、馬鹿め」

 唖然としたブルーノは呟く。

「これは……一体」

 キャロルはヒョコヒョコと氷付けになった首領の元へ歩み寄り、一冊の本を摘まむ。それは、ブルーノが運ばされていた偽物違法魔書とよく似ていた。アリスターはそれを受け取ると、表紙を指で突いて見せる。

「違法魔書は確かに安く大量に生産できる。だが、その品質は最悪だ。全くと言っていいほど、安全性が考慮されていない。ほんの少し扱いを間違えれば、こうだ」

 もし、あの時、お前が持っていた違法魔書が本物で、使っていたとしたら……?

 アリスターの言葉に、ブルーノは口を閉ざした。

「キャロル、応援を頼む。頭領は取り逃したが、下っ端はふんじばったってな」

「はあい!」

 明るい返事と共に、キャロルは部屋を出ていった。

「応援が来るまでゆっくりしているか」

 アリスターは椅子を一つぶんどり、また紙煙草をくゆらせ始める。

「一本いるか。火なら沢山ある」

「少し、考えますね」

 ブルーノは、細く吐き出される紫煙を、静かに眺めていた。

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