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第三話/修繕師グレシャムの復讐①【ペンドラゴンの騎士】

一章/実務訓練


「納得いきません、教官!」

 それは、あるロンドンの昼下がり。

 騎士見習いの紋章を身につけた、まだ幼さを残す顔立ちの女子学生がそう言い放つ。廊下に響く声を張り上げたせいだろう。周囲の視線を一瞬にして引きつけた。

 ここは古城を改装して作られた厳かな雰囲気を纏う学舎、国立ペンドラゴン騎士学校の廊下だ。ここには多くの生徒が在籍しており、言うまでもなくこの廊下も今現在、幾人もの学生が利用している。

 そして、女子学生を目にした群衆は、例外なくその姿に釘付けになった。
 彼女は長い後頭部で纏めた髪に膝下丈のスカートを穿いた、同年代よりも小柄で幼い印象を与える学生だ。子猫を思わせる丸い目は、蜂蜜がかった栗色の、これまた愛らしい色彩の瞳を持つ。

 だが、人々を引きつけるのは、彼女の打ち出す、小さな体からは想像のできない怒りの圧だった。

 異様なほどに白目を血走らせ、爪が食い込むほどに拳を握る。健康的な色の肌は真っ赤に染め上がり、小さな体は小刻みに震えていた。胸の内に押し込められた、弾けんばかりの憤怒を予感させる。

 激昂。正にその言葉が相応しいと言える。

 だが、怒りを向けられた張本人、ペンドラゴン国立騎士学院の教官、教務騎士のマシュー・ブリックは涼やかな表情を崩さない。彼は絵の具箱のような学校の教諭陣の中で、最も頭と意思の硬い人物として恐れられている男だ。

 血色の薄い口元が、無機質に動く。

「パメラ・マクィーン。もう既に決まったことです。貴方にも、そして私にも、一度決まった事項を変更できる権限はありません。怒りを収めなさい」

「私はあの配属先に納得していません! 説明が不十分だと思います」

「なら、もう一度伝えます。指定した訓練先は、修繕騎士(リペアー)としての貴方の能力に、最適な訓練先であることは間違いありません。この私がそう判断しました」

 彼は、丸眼鏡を押し上げ神経質そうに眉をひそめる。

「ですが、教官は修繕騎士の実務訓練が後の職歴にどれ程関わるかご存じでしょう」

「はい。ですから、」

 パメラは、教官の言葉にかぶせるように、再び怒鳴った。

「嫌です。私は、あんなところ、行きたくありません!」

 マシューの表情が、更に険しくなる。彼が言葉の終わりに吐き出した溜息は、彼女、パメラの逆鱗に触れることになる。

「教授ッ!」

「パメラ・マクィーン。これ以上、騒ぎを起こすのなら何らかの処分を言い渡すことになります。私も、優秀な貴方にそんなことはしたくありません」

「ですが、」

「以後行動に気をつけなさい」

 症状は口を噤み、俯く。

「もうこの話は終わりです。今日は大人しく教室へ戻り次の授業に備えなさい」

 そう言ってブリックは踵を返し、足早に廊下を去った。残されたパメラは、唇に赤を滲ませ俯きながらに吐き捨てる。

「クソが」

 わずかな時が流れ観衆が去り、予鈴のチャイムが鳴った後。それでもパメラは変わらず立ち尽くしていた。まるで、その揺るがぬ意思で拒絶するかのように。

・・・

 ここは、国立ペンドラゴン騎士学院。通称、アカデミー。名の通り、英国を守護する騎士を育成するための機関であり、英国とともに長い歴史を歩んだ英雄達の学び舎だ。どこか時代錯誤な石造りの古城を校舎とし、若い騎士たちが日々己を極める鍛錬に勤しんでいる。

 パメラ・マクィーンもまた学園の生徒であり、『魔書修繕騎士団(グリモア・リペアー)』を目指す熱心な騎士見習いだ。

「……本ッ当に最悪……」

 自習教室の机に突っ伏したパメラは、長い長い溜息をついた。その場にいる二十人余りの生徒の殆どは、我関せずと読書に勤しんだり、友人との談笑を楽しんでいたりする。唯一その様子を、級友であるグレースとミアがじっと見つめ続けていた。彼女たちは、騎士学校入学時からパメラと交流のある友人。所謂いつもの三人組と呼ばれるものであった。

 浅黒い肌の少女、グレースはそのふわふわとした巻き毛を手で弄びながら、ぼそりと口を開く。

「パメラ……まだ言っているの。もういい加減諦めたらいいじゃん」

 彼女に乗じるように、もう一人が続けた。

「そうだよ。もう変えようがないんだから。ね、外で買ってきたビスケットあるよ。食べて機嫌直して」

 小麦色の髪を一つにまとめた少女・ミアは、ビスケットを一枚、うずくまるパメラに近づけた。だが、消え入りそうな「いらない」という声に仕方なく引っ込める。

「もうずっとこんな感じよぉ、パメラったら」

「一度落ち込むと長いからね、こいつは……ほっといてお菓子食べちゃおう。一つ頂戴。ジャムが乗ってるやつがいい」

 いいわよぉ、とミアは可愛らしい紙袋をグレースに差し出す。

「それにしても、なんでこんなにも落ち込む必要があるの。私には分からない。魔書修繕なんて、大方同じようなものでしょう」

 私、魔書に関しては専門外だから。

 そう言ってグレースは、机に立てかけてあった剣をひょいと持ち上げる。こっちが本業だと言わんばかりに。

「違う! 全然違うんだから!」

「うわ、」

 突如としてパメラが立ち上がった。グレースはその燃えるような丸い目に呆気に取られた。

「全然違う。特に一般的な技法とグレシャムが使っている技法は思想そのものの方向性も違って……」

「待って、思想? 思想ってどういうこと」

「とにかく思想!」

 えぇ、と眉を顰めるグレースは、ミアに真偽を問う。彼女は緩やかに首を縦に振ると「確かにそうなのよねぇ」と悩ましげに自身の頬に手を添えた。

「私、装幀行くから修繕の方も少し勉強したけど……パメラが行くところはちょっと変わっているのよ。こう、亜種の中の亜種っていう感じで。説明が難しいわぁ」

「亜種の中の亜種とはいかに」

「異端。異端よ」

 そう言ってパメラは再び萎びた草のように席に着くのであった。

 修理・修繕という行為は、どんな対象においても『元ある状態に戻す』ということが重要視される。それは魔書であっても同じだ。

 魔書は経年劣化や使用時の損傷で、魔術の効果や耐久度が薄れていく。傷ついた魔書を放置していると魔術が変質したり、使用者を巻き込んで魔術が暴発し死傷する可能性があるのだ。故に、ある程度年月が経過した時点で定期的に修繕行為を行うことが推奨されている。

 魔書装幀とは異なる高度な技術を要する修繕は、膨大な知識量と素材の特性を見分ける観察眼が必要不可欠。一見地味に見える仕事だが、魔書の歴史においてなくてはならない存在だ。

 この英国において、修繕行為を行う専門集団がペンドラゴン十三騎士団の『魔書修繕騎士(グリモア・リペアー)』である。この騎士としての称号を持っていないと、公的に修繕の仕事を請け負うことができない。そして、騎士として卒業するには、必修科目履修後の『実務訓練』を受ける必要がある。この項目は、どんな場所でどんな訓練をしたかによって、今後の評価に大きく関わるとされている。

 若い修繕師の中には「一度上手く乗れれば安心して職につくことができる」と賛同を述べる者もいれば「たった数ヶ月で修繕師としての人生を、しかも学校に決めつけられる」と反対の声も多い。よく言えば『伝統的な風習』悪く言えば『時代遅れの悪習』だ。

 再び、ゆるりとパメラが起き上がる。寝不足なのだろうか、目の下にくっきり隈を作り、どことなく顔色が悪い。

「そう。私は、私は、家のために『グレシャム』なんかには行けない」

「お家、ねぇ」

 むすっと不満そうに、グレースはビスケットをかじる。

 パメラの実家は、政商であるマクィーン商会に連なる一族だ。卒業後、商会に入る身であれば、より良い研修先へ向かいたい、ということだろう。
 グレースは不思議そうに問う。

「わかったわかった。それが、訓練先なの。そこは他と何が違うわけ。思想とかじゃなくてさ、具体的に」

「違う。全然、何もかも! あんなの、修繕じゃない」

 グレシャム技法。それは修繕技法の中でも禁忌とされる技法である。

 通常魔書の修繕時は破れてしまった頁や表紙、欠けた装飾を本来と同じ見た目、効果にするために行う作業のはずだが、グレシャムは本来の姿ではなく、分割して新たな魔書を数冊製作する。魔書の分解及び再構築は極めて危険な作業であり、一歩間違えれば使用時に惨事を引き起こしかねない。だが『グレシャム技法』を使用すれば、魔術効果をそのまま縮小した規模で行使できる数少ない技法なのである。

 そして、英国においてこの技法を習得できるのはただ一つ、創始者であるグレシャム家一族のみ。彼等は数百年の歴史を持つ名家中の名家だ。かつてはロンドン随一の工房を構えていたが、この悪しき修繕を行うせいで周囲から忌避の目で見られていた。近年における魔書は、まるで産業革命に反するかのように、唯一性や独自性を求められるようになってきたからである。それを意図的に崩そうとするグレシャム技法は、徐々に忌避されるようになってしまった。

 歴史の変化故か、それとも別の理由か、グレシャム家はいつしか歴史の表舞台から姿を消し、ここ数年は界隈の間でも滅多に名を出される事がなかった。それなのに、突如実務訓練の訓練先として名が上がりはじめたのだ。発表から一夜が明けたが、この自習室の外、下級生や他の修繕師志望の学生の間では既に『マクィーンがグレシャムに行く』と広まっている。程なくすれば、外部企業や工房の方にも話が回るはずだ。

「まあまあ……アンタやミアは最悪実家があるし。大丈夫よ、きっと。それか、今からでもうちに来る? 体力は要るけど、給料は悪くないよ、前衛騎士」

「本当、他人事だと思って……」

 でも実際他人事だし、そう言ってしまえば彼女の逆鱗に触れることになるだろう。二人は黙ってビスケットを齧り続ける。

 噂によれば、現在グレシャム技法を引き継いでいるのは、たった一人だとかなんとか。

「何で私なのよ。絶対他に候補いたじゃないの……そもそもなんでグレシャムなんかからの要請なんて蹴っちゃえばいいのに。アカデミーに何のメリットがあるの。ほんと分かんない。賄賂?」

 相も変わらず、パメラは愚痴をこぼしている。その姿を見つめる友人は互いに目を合わせ、肩をすくめた。

 以降もグレースとミアは、午後一杯を彼女の愚痴に費やされることになるのだった。

・・・

 騎士学校からロンドンバスで暫く進めば、その工房はある。らしい。

 ここはロンドンの下町、イーストエンドにほど近い一角。周囲のイメージほど治安は悪くでないものの、どことなく退廃的な雰囲気を感じさせる。

 嫌だなぁ。あまり長居をしたくないのだけど。

 工房の方から指定されたバス停の前で、パメラは空を眺めていた。傍には、重量を感じさせる大きなボストンバッグと命と同等の価値すら見出せる道具箱。彼女はこれから待ち受ける日々に大きな不安と一抹の絶望を胸に、迎えを待っていた。

 本当に、嫌になる。

 ついにやってきた実務訓練の日。今後を憂い、パメラは心の中で愚痴を溢した。あれからブリック教官、及び学院に実務訓練先を変えるよう何度も抵抗を試みたが、全て失敗に終わった。そしてあっけなく今日という日を迎えてしまった。

 だが嫌でも何でも、この二ヶ月の間で運命は決まる。修繕師としても、マクィーン家の娘としても。少しでも愛想よく、利口に過ごして評価を上げなくては。そう腹を括っていた。だが実際にバス停に立ってみれば、ただただ気分は下がるばかりだ。

 ああ、このまま誰も来ないで欲しい。

 そう願ったのも束の間、丁度定時刻通りに車道の向こうから手を振ってやってくる影がひとつ、見えてきた。思わず諦めの感情が脳裏を駆け巡る。
 その人物は、ヒョロリと背の高い、パメラよりも数個ほど年上に見える男性だった。伸びきった癖のある前髪で右目を隠した、どことなく根暗な雰囲気だが、ひまわりの咲くような笑顔が好印象を与える。服装も少々くたびれてはいるが良品、イーストエンドには不釣り合いにも見える、品のある出で立ちだ。顔つきもなかなかのハンサムだと言えるだろう。だが、ブンブンと元気よく振られる左手とは対照的に、だらりと下がる右腕に違和感を覚えた。

 間違いないだろう。彼がグレシャムからの使いだ。

「やあ、君が騎士学校の見習いさんですか?」

 印象に違わない明るい声色は、そう言った。パメラは丁寧にお辞儀をする。

「パメラ・マクィーンと申します。あなたがグレシャム工房の修繕師で?」

「ああっ、違う違う。僕は一応グレシャムの出身だけど、今は修繕師でもなんでもないんです。申し遅れました。僕の名前はヘイデン。ただの家事手伝いですよ」

 何故か慌てるように修正するヘイデンを不自然に思いながらも、よろしくお願いします、と改めて挨拶する。

 家事手伝い。成程、グレシャムほどの名家であれば、フットマンの一人や二人雇えるだろう。だが、それにしてはいささか雰囲気が緩すぎるのが気になる。燕尾服や豪華な装飾品のひとつやふたつ、着けているのが自然だ。

「学生さんを待たせてしまって申し訳ない。工房はすぐそこだから、案内しますね。ああ、荷物持ちましょうか」

 そう言って、彼はひょいと荷物入りのボストンバッグを持ち上げた。そこそこの重量であるものを、左手で軽々と。

「すみませんね、こんな場所で待たせてしまって。寒くはありませんか? 幸い、工房はすぐそこなので、着いたらお茶をお出しいたしますね」

「すぐそこ?」

「はい。この通りを進んで、右に曲がった場所にあります。分かりにくいですけど」

 自信満々に答えるヘイデンに対し、パメラは覇気の無い生返事を返した。

 てっきり車か何かでやってきたのかと思っていた。なんせ、この周辺はグレシャムが工房を構えるような立派な住宅地でもなんでもない。一般的なイーストエンドの市街地だからだ。ならば屋敷が目立つのは当然のこと。グレシャムの屋敷だ、さぞ立派な造りをしているのだろう。

 言われるがまま、道を行くことにする。暫くすると、ヘイデンは話し出す。

「いや、まさか君の様な優秀な見習いさんがやってくるだなんて。姉さんと一緒に驚いていました」

「お姉様がいらっしゃるのですか」

 グレシャムお抱えのメイドか何かだろうか。

「そうですよ。グレシャムを継いでるのは僕の姉さん。アガサっていいます。ちょっとぼーっとしているけど、弟の僕の贔屓目なしにでも、とっても優秀な修繕師ですよ。その、あんまり人と喋るのが得意じゃない人だけど、姉さんも君が来るのを楽しみにしています」

 思わず「え、」と声を上げる。彼の姉がグレシャムの修繕師、ということであれば彼もまたその血を引く者。継承権をもつ貴族の称号を持つ殿方ではないか。

 それが、こんな格好を。

「ん、何か気になることでも?」

「なんでもありません! そ、そうですか……」

 きらきらと輝かんばかりの笑顔を向けられ、パメラは思わず目を逸らす。まさか、出迎えにグレシャムの一族。しかも、こんなにも絵に描いたような好青年が出てくるだなんて思わなかったのだ。どうせ、今時門外不出の技法を継ぐ古くさい一族だ、陰鬱な奴らに違いない。と、心の中で決めつけていたというのに。

 拍子抜けしちゃったじゃん。

 勝手に落胆し、勝手に高揚するパメラは、独り言をぶつぶつと呟くのだった。

 わずかな時を共に歩き、よれよれの革靴がぴたりと止まる。パメラは思わず「え、」と呟いた。

「さあ、ここが輪が家の工房ですよ」

 ヘイデンが指さす方へと顔を上げる。瞬間、パメラは顔を引きつらせた。

「ここ、ですか?」

「はい。ちゃんと看板が」

 そこに現れたのは、至って普通の一軒家……多少蜘蛛の巣や剥がれたペンキが目立つが、至って普通の一軒家だ。周囲の街並みからは特に違和感のない、ありきたりな風貌。ヘイデンの指差した、扉に掲げられた『グレシャム工房』の看板を見落とせば、すっかり通り過ぎてしまうだろう。少なくとも、伯爵の爵位持ちの貴族がここに住んでいるなんて、まず第一に想像ができないような家だ。

 古めかしい邸宅を想像していたパメラは、ポカンと見上げてしまった。英国有数の名家だから、きっと大層なご邸宅に違いないと予想していたのだ。それに対し見せられたこの荒屋。拍子抜けにも程がある。

「ははは、驚いてしまいましたか。グレシャムは、もう僕と姉さんの二人だけしかいませんからね。先代が死んだ時にこちらに引っ越してきたんです。元の屋敷は……今はどうなったか知らないや」

 ヘラヘラとそう言いながら、ヘイデンは荷物を持った手で器用に扉を開ける。見えた室内も外と同様、構造そのものはなんの変哲もない一般的なワーキング・クラスの家の室内といったところだ。しかも整理整頓が行き届いてないようで、廊下のあちらこちらに散らばった荷物が気になる。だがパメラはアッパー・ミドルの生まれだ。その部屋から漂う匂いや雰囲気に思わず口元を覆う。

 何、これ。これが家だっていうの?

 入る前はワーキングクラスの一般家庭かと思ってが、正直それ以下だ。普通の感性を持つ人間ならば、掃除という概念があるはず。少なくとも、見た限りでは、それすら感じられない。ただ荷物を置いて、寝起きをしている。それだけだ。

 ヘイデンはパメラを家へと招き受け入れ、指を差しながら、大まかな部屋案内をした。あそこがキッチンであそこがシャワー室、そして向こうが客間だ、と。

「狭い家だから紹介なんてするほどじゃないですけど。何かご質問は?」

「お住まいなのはヘイデンさんと、グレシャムの職人のお二人で?」

「ああ、そうだね。二人っきり」

「使用人などは」

「昔は居ましたけど、今はそんな余裕などありません。人を雇える余裕など」

 世知辛いものです、とヘイデンは笑いながらも溜息をついた。

 おかしい。絶対におかしい。

 パメラは眉間に皺を寄せた。まさか、あのグレシャム家がこんな絵に描いたような没落様を晒しているなど想像すらしていなかった。かの家系の相伝技法は忌み嫌われているものの、ある種のコレクターたちの間では高値で取引される、安定した価値がある。多少の地位が落ちたとてこのような有様になるはずがない。

 瞬間、パメラは気づいた。今までどうしてこの話が界隈に回ってこなかったのか。

 不自然だ、あまりにも不自然だ。髪をぐしゃぐしゃとかきむしり、ため息をつく。

 しばらく一階を回ったのち、二人は最奥の部屋の前に立ち止まった。ぴたりと閉じられた扉。ここだけ、なぜだか雰囲気が違う。パメラは無意識のうちに呟いていた。

「ここが工房……ですか」

 ヘイデンはが、ニッと嬉しそうに目を細める。

「正解。やっぱりわかるんですかねー。今ちょうど、姉さんが中にいて作業をしてるんです。挨拶しましょうか」

「え、いいんですか。作業中は……」

「大丈夫大丈夫。そういうの気にしない人ですから、姉さんは。姉さーん、入るよー」

 パメラが制止するのも構わずに、ヘイデンは扉を開けた。

 ゆっくりと開け放たれる部屋の隙間から、涼やかな風が這い出る。同時に、薬品のツンと鼻につく香りが鼻孔を刺激した。嗅ぎなれた、懐かしくも落ち着く匂い。

 そこは、絵に描いたような小さな工房だった。広さは百フィート(約六畳)にも満たない小さな空間。窓を潰し入り口以外の全ての壁に棚を取り付け、ぎっしりと道具や素材を敷き詰めてある。中央には二台の大きな作業台が設置してあり、グレシャムの職人と思われる女性が、そこで作業をしていた。道具を扱う静かな物音が、心地いい。

 パメラは、その光景に思わず言葉を失った。

 艶やかな栗色の髪を肩口で丁寧に切りそろえ、丁寧にピンで留められた髪。すらりと伸びた美しい姿勢に、それを支えるかのように巻き付いたコルセットベルト。腕まくりし露出された肘より下の腕は、まるで真珠のように艶やかで白樺の様に繊細。輪郭はしなやかで、妖精の肌はきっとこうだと想像を掻き立てる。

 そして何より、女性にしてはやや骨張った細長い指。これが器具を撫でる姿は異常なほどに滑らかで、ただの修繕作業の一端であると理解していても、どこか胸の内に後ろめたさが芽生える。

 言うなれば妖艶。言うなれば背徳感。なぜ彼女にそのような感情を抱くのか、パメラ自身も理解し難かった。

 だが確かに、生まれていた。胸の内をくすぐる高揚が。

「姉さん、作業の邪魔してごめん。連れてきたよ」

「あら、もうそんな時間なの」

 弟の声を聞きつけ、ふと女は顔を上げる。繻子のような滑らかな声。そしてやや憂いを帯びたような表情が、彼女をより儚げに演出していた。

「ああ、貴方が例の訓練生の。来てくれて嬉しいわ。私はアガサ・グレシャム。一応『グレシャム技法』の修繕師よ。そしてほんの少しの間だけ、貴方の先生役」

 アガサが右手を差し出す。見ると合成インクで汚れ、いくらか爪が欠けていた。恐る恐るパメラが自分のそれを差しだすと、彼女の手が予想より遙かに大きいことに気がついた。ひんやりと冷たい表皮の芯に、ぼんやりとにじみ出る熱。潤いのあるきめ細やかな肌に何故か顔が熱くなる。

「よ、よろしくおねがいします。パメラ……マクィーンです」

「こちらこそ、よろしくお願いするわ、パメラさん……でいいかしら。訓練生用の部屋は二階にあるのよ。最低限の家具は置いてあるけど、少し落ち着かないかも、好きなものを自由に置いても構わないから……」

「私!」

 突如大声を出したパメラに、緑色の目がぱちくりと見開かれる。

「お世話をかけるつもりではないので、お構いなく!」

「あら、」

 そう言って踵を返し、全速力で二階へと駆け上がってしまった。あっという間に消えていった小さな背を、下の階に残された二人はぽかんと見送る。

「ふふふ、随分とそそっかしい子だわ」

「道中もそんな感じだったよ。多分少し人見知りの気があるようだけど、元気そうで安心したよ」

 ヘイデンはどこか嬉しそうにジャケットを脱ぐが、アガサは僅かに肩を落とす。

「違うわ。彼女、工房をよく思っていないみたい」

「そ、そうかな。俺にはただ緊張しているようにしか見えなかったけど」

「あくまでの、私の予想なだけよ。女の感ってやつ」

 アガサは皿の上に積んでいた出涸らしの紅茶に口をつける。

「でも、そうでしょうね。忌まわしき技術屋グレシャムの元で実務訓練だなんて。私だったら逃げ出すわ。そうでしょう」

「あはは、冗談きついよ姉さん。流石にそんなことあるわけないじゃないか。そうだ、夕食用のパンを買ってこなきゃ。折角のめでたい日なのに焼きたてが食べられないのは少し残念だけど。じゃあ、行ってきます!」

 そう言いながらヘイデンは外へ出て行った。彼の後ろ姿を見届けると、アガサは粗末な作業椅子に腰掛け、窓から差し込む茜色の光に目を落とす。

「どうして、先生はあんな子を選んだのかしら」

 きっと嫌われるに違いないのに。

 誰に聞かせるでもなく、呟いた。

「ここから数ヶ月。上手くいくといいけれど」

 赤褐色の水面に反射するアガサの瞳は、どこか歪んでいた。

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