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Ep1/或る肉屋の日常【カルペ・デュエム・トラジコメディア】

 汚物と廃液にまみれた夜の畔を、一人の女が歩く。ボリュームのある赤茶色の髪をうなじで纏め、右足には鈍い黄金色を放つ義足。そして右手にはミートペーパーに包まれた商品には濃紺のインクで書かれた『お買い上げありがとうございました』の文字。

 この街・エカムの住人であれば、彼女が何者かという初歩的な疑問を抱かない。彼女の名はフィリッパ・フェッリ。ここらでは有名な精肉店『メラーニア』の店主だ。

 かつかつかつ、と歩みを進める度に響く金属の踵は、冷え切った冬の空気の中、彼女の存在感を際立たせる。ゲヘナと揶揄されるこの月の元で、眩暈がするほどの生の気を纏っているのも理由の一つだろうか。虚ろな目をした浮浪者は、何かを訴えようと必死にその姿を視線で追うが、あしらわれるどころか振り返りもしない。

 フィリッパは路地裏に入ると、古びた扉の前で脚を止める。看板を外され、小窓に目張りがされた物寂しい雰囲気漂うそれに、呆れを含んだため息を吐く。

「公然の秘密だから別に良いだろうに。どうせ、警官も来るんだろ」

 二度、戸を叩いた。そして一言、呟いてみせる。

「カルペ・デュエム」

 数秒も経たない間に、小気味良い音と共に扉が開いた。一番に顔を出したのは、丁度十代半ばにさしかかるであろう年ごとの少女だ。目深に被ったローブの下から、北欧の海を思わせる冷たい青が、きらりと輝いた。

「フィル! どうぞ、中へ」

「オシゴトご苦労様、ウルリカ。どうもありがとう」

 そう言ってフィリッパは店内へと脚を踏み入れる。ウルリカは軽く外を見渡すと扉を閉め、近くの壁に寄りかかった。するりと組まれた腕には、人間のそれよりひとまわり大きな手。それから伸びる黒い爪があった。普段ローブの下に隠れているそれは、見る者が見れば『獣生病』罹患者の証と解るだろう。

 店内は、寂れたドアの向こう側にあるとは思えない見事な酒場だった。掃きだめの名を冠するこの町の者とは思えない、小綺麗な空間だ。

 スピークイージー、ブラインドタイガー、潜り酒場。通称は数あれど指す意味は一つ。禁酒法が施行されるこの腐ったアメリカにおける酒の密売場。こういった場所は合衆国中に数あれど、この『トラジコメディア』は一風変わった店だった。

「オレル」

 カウンターの奥でグラスを磨く痩せぎすの男に声をかけた。彼はかつては眩しかった灰混じりの金髪を掻き上げ、だらしなくにやける。

「ああ、『メラーニア』の店主直々にお届けに来てくださったか。ご苦労だったな」

「たまには店の様子を見に行って欲しいってプルデンシオから」

「ああ、成る程。今日の肉は」

 枝のような指が、慣れた手つきで麻紐を解く。

「若いアジア系魔術師の肩肉だ。どう調理してもいいが、おすすめは葡萄酒煮だな」

「上物じゃないか。普通に売った方が儲かるだろう。魔獣同盟とか」

「いやぁ……」

 気まずそうに目を逸らすフィリッパを目にし、オレルはこの肉塊の身元にピンときた。

「あはははは、成る程。訳ありか。証拠隠滅のためにウチの客に食わせようっていうのか。まあありがたく頂戴するけどなぁ」

 普通の酒場なら、人肉を喜んで受け取るはずがない。だが、ここにはある一定の需要が存在するのだ。それが『トラジコメディア』が他のバーと一線を画する点だろう。

「頼まれたんだから仕方ないだろ。腹をすかせた奴に適当に出してやれ。きっと喜ぶだろうよ」

「はいはい、どーも。今日は何か飲んでいくか」

「じゃあ、マンハッタン。適当なツマミも頼む」

 オレルは頷くと、店の端でうたた寝する青年に声をかけた。

「イヴァン、イヴァン! ジェンティーレからのご注文だ。起きろ」

「……はぇい」

 イヴァンと呼ばれた男は眠そうに顔を上げると、覚束ない足取りでコンロの前に立った。寝癖の立った柔らかそうな栗色の髪を撫でるように整えると、食材の準備を始める。

「どうも」

 大きなあくびをしながら、イヴァンは問いかけた。

「何か食べたいものはありますか?」

「中甘辛の酒に合うツマミなら何でも。ああ、ピーナッツの類いは避けてくれると嬉しい」

 わかりましたぁ、と気の抜けた返事とともに、イヴァンはフライパンに油を引き始めた。今にも眠りに落ちそうなおぼろげな瞳とは裏腹に、手元はきれのある動きで調理を始める。その対比は、いつ何時もフィリッパの興味を引いた。

「フィリッパ。最近は支配人から何か便りは来ているか」

「ああ、プルデンシオかぁ。二週間前に見せたアレが最後。まあ、もう少ししたら来るはずだよ。なんだかんだで律儀な男だから」

 思わず、口元が緩んだ。

 プルデンシオ・パレホ。この『トラジコメディア』の創設者でありオーナーだ。生来の根無し草であり、店を放り出して世界を彷徨って歩いている。フィリッパとは父の代からの知り合いであり、何故か店と彼との連絡係をさせられているのだ。

「次、この街に来るのはいつになるんだろうな」

「待ち望んでいる時に来ないのは確かだよ。あいつはいつも、忘れた頃にやってくる」

「間違いない」

 けらけらと笑うオレルの脇から一枚の皿が差し出される。

「はい。チキンと豆とジャガイモを……その、炒めたやつ、多分」

「随分歯切れの悪い名前だな」

「だって、最初に何を作ろうとしたか忘れてしまったから」

 フィリッパは皿を覗き込む。本当にただ炒めただけ、そんな名状しがたい料理だが、漂う香りは抜群にいい。流石、プルデンシオに連れられて世界を巡った経験がある男だ。舌と腕は、古今東西様々な料理を記憶しているらしい。

「ありがとう。いただくよ」

 一匙口に運ぶと、口の中が心地よい胡椒の香りで満たされる。

「最高だな。イヴァン。レシピに書き出せば、きっとご婦人よく売れる」

「残念です。もう作り方を忘れてしまった」

「君たちぃぃぃぃぃーーー! 天才音楽家のご出勤だぞぁ!」

 突如、耳をつんざく男の声が響いた。

「うっわ」

「喧しいのがきたな」

 入り口からふらふらと現れたのは、この潜り酒場お抱えの音楽家、バルト・ブレーメンだった。絶世の美男子と自称する彼の頬には、赤い血飛沫がべっとりとへばりついている。

「おいバルト。ステージに上がる前にそれ拭いちまいな」

「ああ、もちろんだ。神聖なステージを汚すわけにはいかないからね」

 そう言うとバルトは、胸元から取り出したハンカチで、血を拭った。その所作は嫌気が差すほどにスマートで、まあ美しいといえば美しいだろう。

「ボケナス。今日は誰に刺されたのよ」

 入り口に立つウルリカが眉をひそめる。

「この間お会いしたお嬢さんの恋人さ。ちなみに刺されたんじゃない、返り血だ!」

「……またこの街に死体が増えたんですね。フィリッパさんが儲かる」

 軽口を言われてもなお、バルトは反省する気配を見せず、さっさと荷物を裏に片付け舞台へと上がった。

「さ、今日は機嫌が良い。ミス・フェッリ。君のリクエスト受けようじゃないか。聞きたい曲はあるかな?」

「じゃあ、『貧しき者の夢想』」

「ははは、サティか。なかなかいい趣味だな。ウルリカ! 歌いに来るといい」

「気分が乗らない」

「そうか、今日もまた振られてしまったか、あははは!」

 機嫌の良い指先が、鍵盤に舞い降りた。狂ったように笑い転げるバルト本人とは裏腹に、繊細に踊る指先、幼子を撫でるような優しいメロディー。

 口元に運んでいたグラスをテーブルに置き、じっと自称天才の背を見つめる。

 歌うような高笑いと慈しむようなピアノ。ああ、もうすぐ『トラジコメディア』の一日が始まる。この退廃のゲヘナに住まう住人が、つかの間の福音を求めてやってくる。

 どうか、今夜だけでも平穏でいられますように。

 届くことのない祈りは、地上の混沌に消えた。きっとまた、誰かが病む。誰かが死ぬ。知らない奴かもしれないし、ここにいる誰かかもしれない。

 それでも、このつかの間の喜劇を生きたい。フィリッパは残りのマンハッタンを飲み干した。


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