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Ⅲ章/下【BeastOfTheOpera】

 庭園から逃げるように帰ったエステルは、ボックス席のソファで縮こまる。劇場は第二部へ向けての準備中だ。観客達も今か今かと再会を待ち望んでいる。ペトロニーユも、軽食を摘まみながら緞帳が上がるのを待っていた。

 左手首に残る感触に、身震いしながら受け取った毛布を握りしめる。

 先日地下道に迷い込んだ青年・セザールと再会した。まさか、彼が夢と勘違いしているとはいえ、自分の事を覚えていたとは。天使と呼ばれ、名前を尋ねられた。あの時の真っ直ぐな視線が、今でもどこからか注がれて居るいるような感覚がして焦燥が身を焦がす。

 あの時、ペトロニーユが帰ってこなければどうなっていたことか。彼女がいて、本当によかった。

「大丈夫かい、エステル。体を冷やしてしまったのか」

「……少し。でも温かいワインを貰ったお陰で、暖まってきたわ」

「なら、何故こんなに震えているんだ。もしかして、私のいない間に何か……」

 エステルは首を振る。本当よ、少しただ冷えただけ。そう言ってもペトロニーユは信じていない様子だった。

「そうか……?わかった。君の言葉を信じるよ」

「ありがとう」

 心地良いアルトが、すっと耳に馴染んだ。

 照明が落ち、『ファウスト』の第二部が始まる。この部では、マルグリートがジュエル・ソングを歌うシーンがあった。ペトロニーユのお気に入りのシーンだ。心待ちにしている様子が、暗い中でもわかった。

 そしていよいよ、ジュエル・ソングが始まった。

 可憐な歌手の歌声は、硝子のように透き通った、芯のあるソプラノだ。美しいマルグリートに観客達は魅了される。エステルもその一人だった。

 ジュエル・ソングを聴くのは何十年ぶりだろうか。ずっとうろ覚えでいたものだから、勘違いしていた箇所も多い。これを平然と歌っていたなんて恥ずかしい。

 思わず顔が熱くなった。それに気づいたペトロニーユは、すぐさま耳打ちする。

「君の歌も十分美しいよ。なんたって、私の初めてのマルグリートなんだから」

「……ちょっと、恥ずかしいわ」

「ふふふ、真っ赤になってしまって」

 そんな冗談を交わしているうちに演目は終了。大喝采の中幕は下ろされた。明るくなった劇場から、観客達は次々と席を立っていく。

「素晴らしかった。やはりファウストはいいね。流石、オペラの傑作だ」

「私も今まで見た物語の中でも一番好きよ」

 本当かい、と細まった目につられて口元が緩んだ。

 部屋のドアがノックされる。ペトロニーユは返事をすると、外へ向かった。口調からして、秘書か何かだろう。短い会話の後、彼女は部屋に戻って言った。

「すまない、急用が入った。少しの間、ここで待っていてくれないか」

「勿論よ。まだまだ食事はあるし。本でも読んでいるわ」

「ありがとう。じゃあ、行ってくるよ。」

 微笑み目配せをすると、ペトロニーユはボックス席を後にした。

 自分一人だけとなった小さな小部屋で、エステルは一人ぼうっと軽食を摘む。フルーツにパン。チーズまで。改めてみれば、なかなかの種類が揃えられていた。備え付けのフルーツを摘まみつつ、劇場内を見やる。五〇年以上前のこけら落とし公演以来だ。

「随分と立派に……愛される場所になったのね」

 過去に火災が起こったことも忘れ、しみじみと感傷に浸る。この劇場の建設に、初代支配人……ペトロニーユの祖父が注力しているか知っていた。

 パリ一番の名所に育てるんだ。

 そう輝いていた彼の妻の瞳の色は、今だ色あせず記憶に刻まれている。ああ、あの時は楽しかった。思い出の頁を捲っていると、どこからか注がれる視線に気がついた。

 肌を震わせるような緊張感。それに急かされるようにして、バルコニーから周囲を見渡した。すると視線の主は直ぐに見つかる。エステルの額を冷や汗を伝った。

 彼だ。

 先ほど自身の左腕を握った青年、セザールだ。

 遠い空間越しに目が合う。思考が硬直し動く事ができない。何故、彼はこちらを凝視しているのか。他所からは、別の姿に見えているはずじゃないのか。

 ふと香を見る。どうやら全て焚ききったようで、小さな皿の上には灰だけが乗っていた。香りに鼻が慣れてしまったせいで気づかなかったのだろう。

 早く、早く視線の外へ逃げなければ。

 震える手でカーテンを掴み。思いっきり滑らせた。レールを進むけたたましい滑車の音と共に、ボックス席が薄暗くなる。

 閉めてソファに座る。果実を口に放り込み、気を紛らわそうとするが、脳裏に浮かぶのは彼の、セザールの顔だ。じっと此方に向けられるオリーブ色の視線が途切れることはない。

 どうしよう、この部屋にやってきたら。部屋をノックされて名前を呼ばれたら。

 考えれば考えるほど、装丁は最悪の方向に向かっていく。

「ああ、いやだ」

 脈拍する胸を抑えようと、ゆっくり呼吸を繰り返す。頭の中に、心音だけがどくどくと響いた。

 徐々に恐怖に包まれていた思考が、ぼんやりと薄くなる。今までの気苦労のせいだろうか。瞼はゆっくりと下がり、ついには眠ってしまった。

 ・・・

「エステル。起きてエステル」

 肩を揺すられ、目を覚ました。遠く、心地良い声が耳に入る。うっかり寝てしまったのだろうか。そう自覚しゆっくりと目を開ける。見れば、ペトロニーユが小さく眉を下げ、子犬のようにこちらを覗き込んでいた。

「……大丈夫かい。やっぱり、体調がよくないんじゃ」

「お酒を飲みすぎただけよ。少しはしゃいでしまったの」

「それなら良いんだけど……今日は早めに眠った方が良いかもしれない。今日はもうお開きにしようか。何か気に入ったものがあれば地下に持ち帰るといい」

 二人は五番ボックス席を出て、人のいない静まり返ったオペラ座を歩く。照明のいくらか落ちた廊下にどこか安心感を感じる。

「今日は沢山のお客様がいらっしゃったのね。超満員だったわ」

「それはどうも。お祖父様のときと、どっちが多かった?」

「同じ位よ。ふふ、張り合ってどうするの」

「いいじゃないか聞くくらい。ねぇ、なんで笑っているんだい」

「妬いているのかしらって思って。やだ、そっぽを向かないで」

 わざとらしく顔を逸らすペトロニーユを、エステルは優しく窘めた。

「今日は、とても楽しかったわ。大好きな貴方が、沢山の人に愛されて慕われているのを見ることができて。自分の事ではないのに、嬉しかった」

「ありがとう。でも、私の一番はいつだって君さ、エステル」

 ペトロニーユは、職員用入り口の扉に手をかける。

「いいのかい。地下まで送らなくて」

「大丈夫よ。貴方も今日は疲れているでしょう」

「心遣いに感謝する。君も気をつけて帰ってくれ」

 扉が開き、冬の風が隙間を抜ける。エステルは意を決し、口を開いた。

「最後に少し、聞いてもいいかしら」

 ペトロニーユは「なんだい」と首を傾げる。

「ここの階のボックス席って、普段とか今日とか、どんな人たちが座っているのかしら。少し、気になって……」

「珍しいな、君がそういうものに興味を持つだなんて。確か、お祖父様の代からの知り合いや、貴族用の専用席だったはずだ」

 ペトロニーユは少し、首を傾げる。

「……でも、誰がどこに座っているかは把握していないな。全部秘書に任せているから。そうだ、明日の朝までネームプレートをそのままにしておく予定だから、気になるなら見に行ってみるといい」

「ありがとう。そうさせてもらうわ」

「うん。じゃあ、おやすみ。良い夢を」

「ええ、今夜はしっかり眠って頂戴」

 ペトロニーユは、無邪気さの残る表情で笑った。

「もちろんだよ、また明日」

 扉から、かちゃりと鍵がかかった音がする。施錠されたことを確認すると、エステルはボックス席の並ぶ廊下へと向かう。

 端から数え、丁度五番ボックス席の対角に当たる席を見つける。聞いたとおり、扉には部屋番号と、金色のネームプレートが掲げられていた。

「……ラファイエット」

 エステルに巡る血が、一気に下へと降りた。

 ラファイエットといえば、フランスでも有名な装幀師一族の家柄。かつての王家に連なる血を引く貴族だ。このパリに身を置くものであれば、誰もが知っている。

 ぞくりと背筋に寒気が走る。心なしか手も震えていた。

「……まさか。いや、関係ないはず。気のせい、気のせいよ」

 僅かに露出した首筋に鳥肌が立った。

 きっと、体を冷やしてしまっただけだ。そう自分を欺し、エステルは地下の自室へと戻った。

・・・

 記念公演から一夜明けてもなお、セザールの胸の高鳴りは止む気配はない。

 自室で勉強を進めようとしても、脳裏にはあの赤い髪の女性……エステルの姿が浮かんでくる。忘れよう、忘れようと教本を覗き込んでも、目が滑ってしまう。

 昨晩目の前に現れたあの姿。櫛の通った柔らかな髪に、遠くを見据えるような澄んだ瞳が忘れられない。女性に対して魅力を感じた事は何度かあったが、彼女のそれは、今まで経験した全てを上回る。絡みつく花の蔓のように思考を拘束するのだ。

「……駄目だ」

 勉強を諦めたセザールは、ベッドに横になる。

 劇場を立ち去る最後の瞬間、彼女と再び相見えた。広い一階席の吹き抜けを挟んで、丁度対角にその姿を見つけたのだ。視線を交わしたあの数秒間、まるで時が止まったようだった。

 運命だ。

 セザールがそう確信するには時間を要さなかった。

 三階のボックス席にいるのならば、きっと名のある貴族の令嬢なのだろう。年齢もセザールとそう変わらなく見えた。既に社交界に出ていてもおかしくない。

 もう二度と会うことは無い、そう言われた。だが、いつか再会できるという根拠のない自信が胸の内に確かにあった。

 どうすれば、エステルともう一度会うことができるのだろうか。フランス中の貴族の中から探すか、もう一度オペラ座に向かうか。どちらにせよ、セザールにとって苦手な手順を踏まざるを得ない。だが、それでも構わないとさえ思った。

「……君に会いたい」

 無意識に、シーツを握りしめる。ぽつりと呟いた声が、昼下がりの部屋に消えた。

 直後、部屋に力強いノック音が響く。どうせ執事か妹だろうと踏んだセザールは、気の抜けた声で返事した。

「はぁい……」

「セザール、勉強の調子はどうだ」

 聞こえた低い声に、ベッドから跳ね起きる。父だ。慌ててシーツを整え、先ほどまで勉強に励んでいたように装った。緩い返事をした事を後悔する。

「あ、はい。順調です。入ってどうぞ……」

 短い返事と共に父が部屋に入る。仕事から帰った直後なのだろう。正装を身につけていた。強い威圧感に、思わず身構える。

「勉強中すまない。少し様子を見ておきたいな。うむ、元気そうだな。よかった」

 昨晩、観劇を途中で抜けたことを心配しているのだろう。その間に、息子が立ち入り禁止の庭園でうつつを抜かしていた。なんて、きっと夢にも思っていないだろう。

「顔を見るついでに一つ、報告があってな」

「知らせておくこと、ですか」

 そうだ、と父は話を続ける。

「会食で会った支配人を覚えているか。ペトロニーユ・ガルニエ女史なんだが」

 セザールは頷いた。ドレスを着た婦人ならまだしも、男装の麗人を忘れることなどそうそうない。

「来週、彼女と食事の席があるんだ。お前も一緒にどうかと思っている」

「……!」

 はっと顔を上げる。

「食事の席、ですか」

「ああ。卒業制作も近いだろう。彼女も学院出身だから、なにか参考になる話が聞けるかもしれない」

 セザールは頷いた。

 これは間違いなくチャンスだ。オペラ座の支配人であれば、招待客……エステルについて何か知っているかもしれない。

 胸が高鳴るのを感じる。

「勿論、学校の課題もあるだろうから無理強いはしない。余裕があれば……」

「い、行きます!」

 身を乗り出すように答えるセザールに、父は一瞬あっけにとられる。だが直ぐにわかった、と頷いた。

「当日の馬車を手配しておこう。お前も時間を空けておきなさい」

「はい」

 父はどこか満足そうに部屋の外へ出た。

「そうだ、ネクタイを結ぶ練習もしておくことだな」

「わかりました」

 ドアが閉まったのを確認すると、セザールはベッドへ飛び込んだ。全身を包む高揚に溺れ、足をばたつかせる。

 会える、きっとまた会える。

 まだ何も事が進んでいないはずなのに、確証だけはあった。

 今度出会えたのなら、何と話そうか。まずはあの晩の失礼を詫びるところから始めよう。そしてお互いの好きなものについて話して、食事をして、いつか婚約をする。それならば、いつか家督を譲り受けるその日までに、立派な装幀師としてより一層勉学に励むべきだろう。

 気が早いにもほどがある。暫くすると、胸の奥に芽生えた羞恥心がじわじわと脳を刺激した。

 ふと時計を見ると、時刻は十四時を回っていた。今日はロジェと卒業制作について話し合う日だ。約束の時間まで準備をし、玄関へ向かう。

 家を出るまでの間、使用人と何度か擦れ違った。彼らは皆、一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに穏やかに微笑む。

「まあ、一体どうしたのかしら」

「今日は珍しく表情が明るいこと」

 背後で囁かれる声は、セザールの耳には入ってこなかった軽やかな足取りは、ロジェとの待ち合わせのカフェへと向かう。

 シャンゼリゼ通りはパリ随一の大通りだ。評判に違わず、沢山の人が行き来する。そのせいか近隣には様々な形式のカフェが多く立ち並ぶ、激戦区となっている。通りには、洒落た午後を求める多くの若者達でごった返していた。

 物好きであるロジェは例外に漏れず、シャンゼリゼ通りに詳しい。彼の指定したのは最近できたばかりの新しいカフェだ。セザールは慣れない地図に苦戦しながら、目的地へと向かう。

 目的の店にたどり着くと、彼は既にテラス席に腰かけていた。よく見ると、口の端に小さなガーゼが貼ってある。その状態で無理して珈琲を飲もうとするものだから、ガーゼに焦げ茶色の染みがついていた。

 ロジェはセザールからの視線に気がつくと、しまりなく笑った。ペンだこまみれになった手を振り、友人を呼び寄せる。

「やあ。傷の調子はどう」

「はは、まだ痛むよ。親父、思い切りぶってきたんだもん」

 へへへと笑う。傷が疼いたのか、一瞬顔が強張った。

 先日の地下での出来事によって、ロジェは両親にこっぴどく叱られた。特に父親は激昂していたらしく、頬に平手打ちを食らわせたのだ。普段温厚なフリムラン伯が暴力を振るったと聞いたときは、心底驚いた。それでもロジェは「親父が子どもに手を上げるなんて初めてだ」と笑いながら語った。

 勿論当初の『オペラ座の怪人魔書計画』は頓挫し、企画の立て直しを余儀なくされた。今日集まったのは代案の相談のためだ。

「修正案、考えてきた?」

「まあ、それなりに。とりあえず、計画表を見てくれないか」

 セザールは鞄から紙の束を取り出す。それは全て計画表だった。一枚一枚、大まかな設計図とコンセプトが丁寧に書かれている。ロジェは目を輝かせた。

「すごいじゃないか。たった数日でこんなに……」

「君から前の計画を聞く前から、案は練っていたからね。いいよ、好きに手に取って」

 ロジェは計画表を掴み、全てに目を通す。かっこいい、素敵だ、とその都度感想を言うものだから、セザールの顔は徐々に熱くなってくる。

「ろ、ロジェ、恥ずかしいから、感想は後で良い……」

「なんで?すごいのに。僕じゃこんなに書き出せない」

 しばらくの間、二人は珈琲片手に意見を出し合った。

 この計画には無理がある。材料が足りない。流石に間に合わない、式構成に無理がある。議論は夕暮れ時まで続き、終わった頃には重い疲労感が肩にのしかかっていた。ロジェも同じようで、注文した菓子を片手に机に突っ伏している。

「こ、これで大丈夫だよね……」

「……ああ、予定通りに行けば完成する……はず、だよ」

 セザールの言葉に安堵したのか、ほっと安堵の息を吐いた。

「終わったー……少し遅いけど、これで作業が始められる……」

「今日にでも取り掛かりたいけど、流石に明日からにするか」

「そうだね。ところでセザール。何かいいことでもあったの?」

 何の脈絡もなく飛び出した質問に、口に含んでいた珈琲を吹き出しそうになる。
「な、ななな、なんだよ急に」

「ちょっと、そんなに動揺しなくてもいいだろう。君が魔書についてそんな熱心に話すのに驚いてさ。だって、学校に居るときとか課題について話すとき、いつもどこかしんどそうに話していたんだもん。一体どんな風の吹き回しかなって」

 分厚い眼鏡の奥が、にやりと細まる。

「あったの?いいこと」

「……うん」

 セザールは頷いた。彼への隠し事は、無駄だと解っている。

「そっか。ふふ、よかったじゃないか」

 ロジェはそれ以上何かを問いただす訳でもなく、残りのクッキーを口に放り込んだ。
「いつか、俺にも聞かせて」

「……ああ、いつかね」

 二人は支払いを済ませると、夕日を背にそれぞれの自宅へと帰っていった。

 ・・・

 ファウストの公演から数晩明けた。数日経てば、記憶も感情も薄まるはず。そう踏んでいたが、エステルの心は今だ落ち着く様子はない。

 昨晩庭園に現れた青年、セザール・ラファイエットのことが頭から離れないのだ。

 月空の下、真摯に自身を捉える真っ直ぐな視線。強く握られた腕、最後に告げられたあの言葉。

 いつか、また会えますか。

 柔らかなテノールは今だ耳から離れず、何度も何度もささやきかける。それが恐怖によるものなのか、または別の感情によるものなのか。混乱した脳ではまだ判別がつかない。

「……」

 エステルはマントを繕う手を止め、深呼吸する。大好きな紅茶も、今日ばかりは味がしない。何か別のことに手を着けてみよう。天井を仰ぎ、目を伏せた。

 本でも読みましょうか。いいえ、きっと登場人物に彼を重ねてしまう。

 暖炉の火でも眺めましょうか。いいえ、きっとあの時の記憶が蘇る。

 食事を作りましょうか。いいえ、彼はどんなものを食べるか気になってしまう。

 何をどうしようとも、胸の内に荒波が立つ。

「一体、どうしてしまったの……」

 自問自答を繰り返すも、自分がおかしくなってしまったことしかわからない。エステルに赦されたのは、ただ無意味な時間を過ごすことだけだった。

「エステル。そんなに浮かない顔をしてどうしたんだい」

 気がつけば、ペトロニーユがこちらを見下ろしていた。時計を見れば、彼女が来訪する時間になっている。

「あ、ああ。ペトロニーユ。大丈夫、大丈夫よ」

「君がそういうときは大抵大丈夫じゃないんだよ。ねえ、何かあったのかい」

 ペトロニーユはエステルの真横に腰かけた。白い手袋が、優しく赤い髪を撫でる。布越しに感じるほんの少し冷たい手に、エステルは安堵した。

「あ、あのね……」

 無意識の声がすぼむ。彼女にセザールについてを話す訳にはいかない。知れば、きっと不幸にさせてしまうだろう。かといって嘘を吐けば、すぐにばれてしまう。

 言葉を探していると、不意に左手を。視線捕まれた。見れば、人差し指の先には小さな赤い滴が零れている。

「針を刺したのかい。怪我をしているじゃないか。早く手当を」

 ペトロニーユは棚から救急箱を取り出すと、手際よく処置を施した。エステルの指先には分厚く包帯が巻かれている。その様子がどこか滑稽で、笑みを零した。

「少しやり過ぎじゃないかしら」

「いいや、多少やり過ぎるのが丁度良いんだ、これは」

 おどけたように笑うと、持ってきていたバスケットを手渡してくる。

「今週分の食料だよ。足りるかな」

「一人暮らしにしては十分すぎるくらい……というよりも二人分だわ、これ」

「ふふ、君は鋭いな。だめだったか」

 自分よりいくらか長身の女性が、甘えるかのように寄り添う。女性特有の柔らかな筋肉と香水の香りが、緊張した心を安らげる。

「いいえ。これ、使わせてもらうわ。少し離れて頂戴」

「君の手料理、大好きなんだ。楽しみだよ」

 長い腕から解かれ、バスケットを持って台所へ向かう。

「今日はどうするの。泊まっていく?」

 本棚に手を伸ばしていたペトロニーユは目を輝かせるも、しゅんと肩を落とした。

「そうしたいところなんだけど……明日は昼から用事があってね。ここに来るとランチの時間まで寝てしまうだろう」

「じゃあ、明日の夕食は食べに来る?」

「そっちの方も残念ながら。知り合いとの会食があってね」

 めずらしい、と思わず口にした。

 ペトロニーユは社交の場に適した性格をしているが、そのものはあまり好きでは無いと聞いていた。必要であればやむをえず赴くような事ばかりで、会食など滅多にしない。少なくとも聞くのは一年に数度だけだ。

「その人は父の友人の一人でね。親のいない私に、昔からよく目をかけていてくれたんだ。今日また仕事ご一緒して、食事でもどうだってね……エステル。顔色が良くないがどうかしたか」

 言われて初めて、身がすくんでいることに気がついた。確かに、不快な寒気が肌を走る感触もする。

「そう、貧血かしら……少し休むわ」

「食事は私が作ろう。きっと、昨日の疲れが出ているんだよ」

 握っていた食材を取り上げられ、ソファに腰かける。いつの間にか暖炉には追加の薪が焼べられ、周囲はほんのりと暖かくなっていた。

「先日のことが尾を引いているのだろうか。君に無理をさせてしまったようで、申し訳ない」

「いいの。とても楽しかったし。ファウスト、私も好きだもの」

 ペトロニーユはそっとエステルの頬を撫でると、キッチンに立った。

 心地の良い調理音と香ばしいスパイスの香りが小さな部屋を包み込む。心地よい安堵に包まれながら、エステルはそっと目を伏せた。


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