Ep2/或る音楽家の日常【カルペ・デュエム・トライコメディア】
バルト・ブレーメンは美しい。
香油で整えられた、亜麻色の絹の長髪。細腰にすらりと伸びた四肢、ルネサンスの彫刻を思わせる顔立ち。極めつけは、世にも珍しい菫色の瞳ときた。この視線に射止められれば、老若男女など関係ない。どんな人間でも、たちまち自らの心臓を抉り捧げてしまうことだろう。
また、強かなことに彼は自らの美しさについて十分に理解していた。二十数年の人生経験を経て、自分が自分らしく社会で生き残る方法を熟知することになったのだ。故に、身だしなみを整えることを欠かさない。巧みな話術を心得、自陣を増やすことを忘れない。
一見完璧に見える男の人生設計だが、この「自分らしく生きる」というが、そう、あまりにも無茶苦茶だったのだ。
貞操観念的な意味で。
・・・
「てめえバルト! 俺の嫁に手を出したな!」
「あははははは! 誘ってきたのは君の奥方だよ。僕はただちょっと微笑んだだけさ!」
「野郎ぶっ殺してやる!」
心地よいテノールの高笑いが、エカムの街に響く。浮浪者の横たわる狭い路地で、バルトと妻を寝取られたと主張する大柄な男が逃走劇を繰り広げていた。どうやら勝負は地の利を制するバルドにあるようで、障害物の多い道を身軽に駆け抜けていく。男は体力に自信はあったが、障害物競走には向いていないらしい。ひらひらと逃げ舞う背を追うのでやっとだった。
彼らの声を聞きつけたある者は酒の肴とし、ある者はため息を吐く。またある者は凶器を携え、彼を追いかける列に加わるのだった。
「ここであったが百年目だ、頭かち割ってやる!」
「生きてきたことを後悔させてやるわ!」
大挙して押し寄せる見知らぬ被害者の群れを目にしても、バルトは口笛を吹き、ただ逃げ続けるのだった。
「おやおや。気がつけば一、二、三、……五人も鬼が増えているじゃないか。ううん、これは想定外。ささっと行方を晦ますとしようか!」
バルトはパチンと指を鳴らす。するとたちまち体が景色に溶け込み、姿が見えなくなった。光の屈折を操った、簡単な魔術だ。何も知らない追っ手達は怒りで鼻息を荒くし、得物を狙うかの如く周囲を見渡す。
「どこいったあのスケコマシ」
「ちっ、ちょろちょろ逃げやがって。見つけたら再起不能にしてやる!」
怒りをあらわにしながら過ぎ去る集団を、直ぐ側で眺めて居たバルトは安堵の息を吐く。
こうして逃げるとき自分が光魔術の魔術師であることに、心から感謝する。
「バルト」
「ひっ! う、ウルリカ⁈」
気がつけば、直ぐ隣にいかにも不機嫌な表情を浮かべたウルリカの姿があった。彼女は治安の悪いこの町に看板を掲げる『トラジコメディア』の用心棒だ。見た目こそ妙齢の女性だが、彼女にとっては、そこら辺の荒くれ者を爪で弾くなど造作も無い。
角度によって銀にも見える黒髪が、さらりと揺れる。
「また追いかけられているの? 呆れた」
「不本意ながらね。美男子の宿命というものさ。ところで、なんで僕の居場所がわかったんだ。まだ魔術を解いていないはずなんだが……」
今だ、バルトの体は背景に溶け込んだ状態だ。端から見れば、ウルリカは何もない壁に向かって話しかけていることになる。
「匂い。奥方のウケを狙った五番の香り。シャワーで落としたつもりみたいだけど、私の鼻はごまかせない」
残念。と嘲る彼女の瞳には、まるで食らったように月が浮かんでいた。獣生病の中でもルプス型と呼ばれる狼の特徴が現れる病を患う彼女は、人間の数倍優れた嗅覚と夜目を身につけている。
「はは、今の僕はさながら狼に狩られた兎のようだ。君にはお手上げだよ」
「よく言うわ。さ、営業時間に遅刻するよ。あの人達も遠くへ行ったみたいだし、今日は特別に護衛してあげる」
「感謝するよ、用心棒様!」
足早に立ち去ろうとするウルリカの後ろを、魔術を解いたバルトがついていく。さながら、親ガモの後ろを歩く子ガモのようだ。
人通りの少ない川沿いの路地には大通りでは見ない、物乞い以下の浮浪者や、動物の死体が転がっている。数年前、エカムに来たときこそこの辺獄を彷彿とさせる光景に驚いたが、今ではもう慣れたものだ。
空を見上げる。ぽっかりと丸い月が、淡いベールのような光を滲ませていた。
「綺麗な月だ。まだ七時を回ったばかりなのに」
「冷え始めて暫くだから。そりゃあね」
どうやらウルリカは、満月をお気に召さないようだった。俯いたまま、転がる小石ばかりを見つめている。
「こんな日にはドビュッシーを弾きたくなる。ああ、ヴェートーベンでもいい。柔らかな光を浴びての演奏は、きっと心地よいことだろう。君も、そう思わないか?」
「別に」
「ねえ、もう一度君の歌声を聞いてみたいんだ。今夜、一曲いかがかな」
ひょい、と顔を覗き込むと、軽蔑の籠もった眼差しがバルトを刺す。
「気持ち悪い。口説いているつもり?」
「ああ、君の歌声に惚れ込んだのは間違いないからね」
「嘘ばっかり。ほんとクズ。フィルに同じようなことしたら去勢してやるから」
「手厳しいな」
ふん、と他所を向いたウルリカは、一人で先を急ぎ始めた。
「ああ、待ってくれ! もう少しゆっくり……」
小さな背を小走りで追いかけながら、バルトは心の中で呟いた。
本当なんだけどなぁ。
誤解されるのも日頃の行いのせいだろうか、と少しばかり反省する。
一度だけ。彼女、ウルリカが歌っていたのを聴いたことがある。あの日も、こんな月夜だった。偶然という在り来たりなレッテルを貼るには、あまりにも刹那的な。そう、言うなれば運命の瞬間。ロマンチシズムを愛する男はそう考えた。
数ヶ月前、ただの気まぐれで普段より一時間早くトラジコメディアについた時だった。きっと、誰も来ていないだろう、食料庫から一つワインでもくすねようか。そう企みながら入り口のドアノブを捻る。瞬間、脳髄を貫くような旋律がバルトの体を震わせた。
聞いたことがない曲だ。バルトでも僅かに歌詞を理解できることから、北欧かオランダの民謡だろうか。規則的な三拍子に乗る切なげな歌声は、狼の遠吠えを思わせた。
バルトは、無意識に気配を消し、店内へと歩みを進めた。ろくに明かりのついていないカウンターの下で、ウルリカが一人グラスを磨いているのが見える。よほど集中しているのか、いつもの野生の勘とやらは利いていないらしい。防戦と立ち尽くすバルトの気配に数分は気づいていなかった。
「美しい」
観客がそう呟いたことで、ようやく彼女は我に帰ったようだ。目深に被ったフードの下から、気まずそうに青い目が覗く。
「……いつからいたの」
「ほんの数分前からだ」
「聴いてた……?」
「ああ、素晴らしい歌声だった」
瞬間、グラスが割れた。ウルリカの爪がわなわなと震えている。
「君が歌を歌うなんて初めて知ったよ。しかも、孤狼のような透き通った無二の乞えとは……こんな逸材が近くにいたとはおどろき、ぐえっ」
胸ぐらを掴まれ、壁に押しつけられた。後頭部を強打したようで、鈍い痛みがじわじわと広がる。
「オレルたちには言わないで」
「何故? 素晴らしい歌声なのに」
「嫌だからに決まっているでしょ!」
徐々に締め上げられる襟に、流石のバルトも降参した。だが、蝶番の外れた彼の口が、この日の出来事を黙っていられるはずもなく、ウルリカの歌声については、じきに衆知の事実となった。
ああ、あの時のことをまだ恨んでいるのか。でも、こんなに面白いこと、黙っていられるはずがない。
ふふふ、という笑い声がいつの間にか漏れていたんだろう。いぶかしげなウルリカの視線が刺さる。
「なにそのニヤついた面は。気持ち悪い」
「ふふふ。僕はいつでもいつまでも、君がステージに立つ日を待っているよ。レディ」
「早く死なないかしら、こいつ」
ウルリカは機嫌悪そうな顔を、ふいと背けた。
「悲しいなぁ」
ああ、なんて面白い! 頑なな相手ほど、興味をそそられるものだ。
バルトはくるりと軽い足取りで、今夜の演奏について考えた。
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