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Ⅰ章/上【BeastOfTheOpera】

オペラ座の地下には至宝が眠る。この建造物が建てられてからずっと、市民の間で囁かれている噂だ。

 この噂を聞きつけた荒くれ者は、この至宝を我が物にしようとオペラ座の地下に自ら舞い降りる。だが一度降りたが最後、彼らが地上に戻ってくることはなかった。しかも、その事実を知っていながらも、自分は生き残れるという自負と蛮勇を持った盗人が後を絶たない。

 今日も愚かな罪人が地下道を走る。人数は三人、どれも命知らずと言えるだろう。

 湿った石畳の上。数メートルおきにある小さな蝋燭に導かれ、彼らは逃走する。鬼気迫る面持ちで、我先にと走る姿は滑稽でもあった。

 先頭を走る一人が叫んだ。

「おい、出口はこっちじゃなかったのか」

 怒号がトンネルにこだました。焦りと怒りに気圧され、二番目の男が零す。

「たしか、こっちの方向だったはずだ。磁石が言うのだから、間違いない」

 そう言って懐から磁石を取り出し覗き込む。見れば、先ほどまで同じ向きを指していた針は、ぐるりぐるりと回転していた。強力な魔力に当てられたのだろうか、それとも地場が狂っているのだろうか。どちらにせよ、これではまともに方角なんてわかりはしない。
「ああ、クソったれ......!こんな時に限って壊れやがって。早くしないと追いつかれちまう」
 無機物に悪態を吐く二人を眺めていた最後尾の男は、ある違和感に気がついた。

「待ってくれ……ここ、どこだ?」

 小さな呟きに、三人は足を止める。辺りを見渡すと先ほどまで走っていた石の地下道は消え去り、目の前には暗黒の湖が広がっていた。揺蕩うこと無く闇を映す湖面は、異界への入り口を彷彿とさせる。

 男達は身震いする。

「聞いてないぞ、こんな湖があるだなんて……」

「これ以上進めない、戻ろう」

「駄目だ、後ろからはあいつが追っ、」

 その言葉が終わりを迎える前に、ごとんと重たいものが落ちる。同時に先頭に立っていた男の体が、濡れた地面へと崩れ落ちた。

 微かな灯りに照らされ、赤い水たまりが広がっていく。

「う、うわあああああぁぁ!」

 落ちてきた者は、男の頭部だった。たった一瞬で首を切り落とされたのだ。

 残された二人の間に、緊張が走る。片方がヒステリックに叫んだ。

「まさか、アレが追いついてきたのか?無理だ、無理だろう!あの距離から追いつけるはずが……」

「それはどうでしょう」

 空間にこだまするように、女の声が響く。妙齢とも壮年ともつかぬ低く芯まで響く声は、二人の荒くれ者を怯えさせるには十分だった。彼らはまた絶叫する。

「逃げるぞ!」

「で、でもこいつは……」

「死んだ野郎の頭なんぞに構ってられるか、行くぞ」

 男は一人で元来た道を走り出す。ありったけの速度を出して、重い脚で駆けた。

「は、はあ。はあ……あれ?」

 暫く走った男は違和感に気がつき、後ろを振り向いた。誰もいない。自分と一緒に逃げて居るはずの仲間がいない。

 まさか……

 ごくりと生唾を飲む音がした。

 全てを察した男の背に、冷や汗が流れる。

 殺される。

 自分だけでも生き残らねばならない。焦燥とともに、再び腿を振り上げた。この場所から一刻でも早く抜け出さなくては。

 次の瞬間、目の前に重い何かが降ってきた。見れば、先ほど姿を消した仲間だった。腹部には縦に割れた大きな傷口が開き、今もなお絶え間なく血が滴り出している。まだかろうじて息はあるが、手遅れなのは素人目でも明白だ。

 こちらに伸ばされた腕を振り払うように、後ずさりする。死に損ないに構う暇はない。五感を振り絞って、奴の気配を探した。水路、壁穴、天井、全てを見渡すが、その姿はなかった。それでも安心することはできない。確実にこの近くにいる、という確信が男にはあった。

 ああ、こんなことになるのなら来るんじゃなかった。後悔しても、もう遅い。愚か者の背後に既に、裁きの手が近づいていた。

 小石の転がる微かな音に、男は振り返る。視界に入ってきたのは一人の影だった。

 背丈は男よりも拳一つ小さいほど。そして、全身をすっぽりと覆い隠してしまう闇色のローブ。垂れ下がるくすんだ赤毛は、地面近くまで垂れ下がっている。骸骨のような細腕に似つかわしくない大鎌は、遠くの蝋燭の光に触れ妖しく反射していた。

 ローブの隙間から覗く肌は青白く、蝋人形を思わせる。向かって左半分は白くどろりとした仮面で覆われているが、もう半分は妙齢の女性のそれだった。酷くやつれているものの、憂いを帯びた彫刻のように整っている。

「貴方で、最後の一人でしょうか」

 おどろおどろしい姿からは想像できない可憐なソプラノは、かえって男を恐怖させた。女は身の丈ほどある大鎌を軽々と振り上げ、眼下の罪人に向けて振り下ろす。

「ここに来た貴方たちが悪いのですよ」

 まるで、死神だ。

 男は掌を前に構え、指先に力を込める。すると一瞬、腕の太さほどの炎の渦が現れた。女は振り上げていた鎌を空振り、一歩、後ろに飛んだ。間髪入れず、男は渦を出し、女に向かって放つ。女は花弁のように、ひらひらと舞い避けた。

 男はしめた、とほくそ笑む。

「おい、さっきの威勢はどうした。逃げるばかりじゃ殺せないぜ!」

 わざと煽っても、近づく素振りを見せない。好機をうかがうように、虚ろな視線が此方を刺してくる。

 このままなら、いける。男の予感が確信へと変わった。

「……ああ、そうか。お前、魔術が使えないのか。なるほど獣の類いと聞いていたが、まさか本当だとは」

 返事はない。黒い外套が、闇に踊るだけだ。

「図星だな。〈獣の病〉の罹患者は素体として高く売りさばける。俺にもやっと運が巡ってきたぜ、死ね!」

 男はもう片方の手をかざすと、湿った地下道を突き抜ける、巨大な炎を生み出す。

「燃えろ、燃えろ燃えろ〈オペラ座の怪人〉!焼き殺してやる!」

 炎は勢いを増し、壁に滴る水を枯らせる。橙色に燃え上がる光は、いつしか周囲一帯を焼き尽くした。

 全てを燃やし尽くしたと考えた男は、腕を下げ、炎を収める。すっかり呼吸は乱れ、体中から汗が噴き出している。急激な魔力消費によって体力は減り、今は経っているのがやっとだ。鼻孔を刺激する焦げ臭い匂いに、にやりと口角をつり上げた。

「ふ、ははは……これだけやれば、死んだだろ」

 男の荒い息と微かな水滴の音が、静かに地下道に響いた。涼やかな静寂に、安堵のため息を吐いたその時。

「嗚呼、お気の毒に」

 焼き殺したはずの声が、脳にこだまする。男の額から冷や汗がにじみ出た。

「どうやら、地の利は私にあったようですね。残念ですが、仕事なので」

 瞬間、影が天井から降りてきた。思わずしりもちをついてしまう。目の前に先ほどの女が立っていた。外套の繊維は一つとして燃えた形跡はない。

 何故だ、何故生きているのか。

 あんな炎の中、例え〈獣〉でも生き伸びるなんて不可能だ。

 男が上を向くと、薄暗い視界の中、一点更に暗い部分が存在しているのが見て取れる。穴だ。穴が開いていた。天井に人の通れる大きさの穴が開いている。

 ああ、なんだ。男は口の端で笑う。

「……反則じゃねぇか」

 希望を失った瞳はただ呆然と、その刃が自身の首に突き立てられる瞬間まで、揺れる赤髪を見つめていた。

・・・

 パリ・オペラ座の支配人、ペトロニーユ・E・ガルニエは、楽屋の廊下を颯爽と歩く。踊り子達は皆、彼女のために道を空け、壁際でよりそうながら黄色い歓声を上げる。モーセの海割りを彷彿とさせる光景は、このオペラ座では日常茶飯事だ。

 男性ほどある背丈に、くっきりと整った顔立ち。うなじで結んだ黒髪は、揺れるたび艶やかな光沢を放つ。おまけに男装を好むせいか、誰が呼んだかオペラ座の貴公子。ロマンス小説から飛び出してきたような彼女の出で立ちには、数多くの女性が虜になっている。上映される演目よりも、彼女の姿目当てにやってくる観客もいるほどだ。

「今日もお美しいわ。まるで絵画から抜け出してきたかのよう」

「また香水を変えられたのかしら。とてもよい香り」

「あの方の姿を拝見できたのよ、今日一日最高の踊りができそうだわ」

 踊り子たちはうっとりした視線を向ける。中には抜け駆けしようと声をかける者もいた。だが、ペトロニーユはにっこりと微笑み手を振るだけで、決して誘いに乗ることはなかった。

 そんな中、ある女性が彼女の行く手を阻む。

「ねえ、ペトロニーユ。今日こそは逃がさないわ」

 一人の踊り子が、ペトロニーユを引き留めた。誰よりも白い衣装に、誰よりも煌めくブロンドの髪。そして、青空の宝石の瞳。踊り子主席のルイーズだった。オペラ座にて彼女に匹敵する美貌を持つ者はいないとまで謳われる娘で、10代ながらパリ中に名を轟かせている。

 少しこの強そうな目元は、じっと目の前の愛しい人を見つめる。

「ルイーゼ、何のつもりだい」

「何もかもないわ。今から私と一緒にカフェに行くのよ。ねえ」

 柔らかな腕に抱きしめられ、ペトロニーユは困ったように眉を下げる。周囲の踊り子達は歓声を飛ばすのをやめ、おずおずと引き下がった。

 ルイーズはオペラ座で最も美しい踊り子だが、同時に傲慢で我が儘な女として知られていた。愛しのペトロニーユとの会話を邪魔すれば最後、翌日にはあの手この手で嫌がらせを受け、退団に追い込まれてしまうだろう。そうやって姿を消した踊り子を、彼女たちは何人も知っていた。

「ルイーズ。私には仕事があるから、また今度にしてはくれないか」

「嫌よ。前だって、そうやってはぐらかして以来じゃない。その仕事って、最高の踊り子である私よりも大事なことなの?」

「その質問は反則だ。君と仕事は天秤にはかけられないと言っただろう」

「嫌、答えて」

 徐々に強くなる腕を引く力に、流石の支配人とて観念した。

「……ああ、わかったよ。仕方ないな。じゃあ今日の五時、楽屋裏で待っているように。必ず迎えに行くから」

 ルイーズは目を輝かせ、本当?と何度も確かめた。ペトロニーユは彼女の手を取り、約束するよとウインクをする。有頂天になったルイーズは鼻歌を歌いながら、くるくると自身の楽屋に戻っていった。それを見届けると、ほっと胸をなで下ろし再び歩き出す。

 向かったのは、いくつかある踊り子たちの共用楽屋の一つだ。踊り子主席やそれに類する立場の役者は個室を与えられているが、それ以外は皆三〜四人で一つの部屋を共有している。

「失礼するよ、マドモアゼル」

 中に入ると、一人の踊り子が部屋の隅でうずくまっていた。それを心配するようにルームメイトであろう少女たちが取り囲んでいる。

 踊り子が踊りの講師にしごかれ、涙を流すことはよくある。が、彼女の泣きようは尋常ではないと直感した。毛布にくるまり、震えている。まるで、何かに怯えているかのように。

「一体、何があったんだ」

 来訪者に気がついた踊り子達は、はっと顔を上げる。口を揃え、ガルニエ様!と叫んだ。ペトロニーユは彼女らの元に駆け寄り跪くと、事情を尋ねた。

「ああ、ガルニエ様。私達にもわからないのです。コレットは怯えて何も話してくれません。今朝部屋にやってきてからずっと、こんな調子で……」

「わかった。悪いが、少し下がってくれるかい。私からも彼女に話してもらうように頼んでみるよ」

 踊り子たちは頷くと、部屋の入り口の方へと下がる。ペトロニーユはすすり泣き怯える少女、コレットの手を優しく取った。恐る恐る、泣き腫らした目が視線を上げる。

「ガ、ガルニエ様……」

「コレット、嗚呼かわいそうに。こんなに怯えて辛かっただろう。もう大丈夫だ、私がついているよ。だから、何があったか話してはくれないか」

 瞬間、コレットは堰を切ったように泣き出した。そして、驚くべき一言を放つ。

「私、わたし……〈オペラ座の怪人〉を見たの!」

 その言葉を耳にした踊り子達は、皆悲鳴を上げる。ペトロニーユも整った眉を歪めた。
「〈オペラ座の怪人〉ですって!」

「それは本当なのコレット」

「まあ、なんてこと......!恐ろしいわ」

 口々に騒ぎ立てる踊り子へ向けて、口元に人差し指を添える。

「静かに。今はコレットの話を聞こう。続きは話せるかい」

 コレットは頷き、呼吸を整えると、ことの顛末を話し始めた。

「今日は私が楽屋の掃除当番だから、夜明けの一番でこのオペラ座に来たの。楽屋入り口から入ろうとしたわ。でもまだ管理人が開けていなかったみたいで……鍵が開いていなかったから、仕方なく楽屋裏のもう一つドアから入ることにしたの。この時から私、すっごく嫌な予感がしていたのよ!」

 楽屋裏のもう一つのドア。昼でもどこか暗く、薄気味悪いと有名な場所だ。早朝と深夜に管理人が施錠のため出入りするため、開いていることの多い扉だが、殆どの役者と職員は使いたがらない。

 なぜなら、その場所がオペラ座の怪人の出現場所として有名だからだ。

「そして薄暗闇の中、私は見たの!赤く滲んだずだ袋を持った怪人の姿を!」

 踊り子達は悲鳴を上げる。興奮状態となったコレットはまくし立てるように続けた。
「その姿の恐ろしいこと!真っ黒なマントに血のような赤毛、顔は骸骨のよう!死神がいるのなら、きっとあんな格好をしているに違いないわ!」

「黙りなさい!」

 突如飛んだペトロニーユの怒声に踊り子達は息を止めた。俯く黒髪の隙間から、見開いた目が覗くことに気づいたコレットは青ざめる。

「も。申し訳ありませんガルニエ様……」

「……いいや、謝るのは私の方だコレット。驚かせてしまってすまない。つい感情的になってしまった」

 ペトロニーユは軽く指を鳴らすと、こぼれ落ちた涙をシャボンのように浮かべ、拭う。

「実のところ、私も少し怖がりでね。恥ずかしながら、怪談の類いは苦手なんだ。かの有名な〈オペラ座の怪人〉についてとなれば尚更、ね。他の踊り子達には秘密にしておいてくれないか、」

 その言葉に踊り子達はほっと胸をなで下ろす。

 オペラ座の怪人。それはこの建物が建てられた時から流れる、普遍的な怪談話の一つだ。全身を包む黒いマントに、色あせた赤髪。そして、骸骨のような顔面。その死神のような姿をした怪人は夜な夜なオペラ座を徘徊し、この建物のどこかに存在する至宝を狙う者を殺すのだという。怪人の正体は人々の格好の話の種で、初代支配人が生み出した魔物という説や、〈獣の病〉をもって生まれた人物のなれの果てという説もある。

 特にコレット達のような若いバレリーナは怪人を恐れていた。

「例の出入り口か……あの辺りは使わなくなった大道具が捨て置いてあるからなぁ。もしかしたら、それを見間違えたのかもしれないよ」

「でも……」

「ああ、怖いだろう。私もそうだ。念には念をおいて、見回りを増やすように手配するよ。もし、怪人でも大道具でもなく生身の人間だったら、別の意味で恐ろしいからね」

 さてと、とペトロニーユは立ち上がった。

「今日は踊り子のみんなで一緒に帰ろうか。もちろん、私もついて行くよ」

 コレットはぱっと顔を明るくし、礼を言う。他の踊り子達も頭を下げた。

「ただ、約束して欲しいことがある。〈オペラ座の怪人〉については、今この場に居る私達だけの秘密にしよう。他の踊り子達が怖がってしまったら次の公演に支障が出てしまうかもしれない。お願いできるかな」

 踊り子達は皆、一様に頷いた。

 その日オペラ座にいた踊り子たちは、ペトロニーユに連れられ近くのカフェに出向いた。愛らしい少女達がとろけるような甘さのスイーツに舌鼓を打ち、至福のひとときを過ごす。その光景は周囲の人々の心も和ませる結果となった。

 怯えきっていたコレット達も、怪人のことを忘れ不幸な一日を小さな思い出に変えた。
 ただ一人、二人きりのデートと勘違いしていたルイーズだけは終始ふくれっ面でフォークを握っていたことを除いては。

・・・

 深夜、草木も眠る午前二時。オペラ座では一つの影が、足音も無く彷徨っていた。真っ黒な外套と伸ばしきりの赤毛を垂らし、一人静まった廊下を進む。

 灯りのない暗黒の中、ぬらりと淡白く浮かび上がる右半分の仮面。青い左の瞳は終始辺りを見渡し、処分対象がいないか目を光らせていた。

 ふと、背後で僅かな布擦れの音が聞こえる。人の気配だ。

 手に持っていた鎌を振り上げ、瞬時に重心を変える。くるりと踵を返し、侵入者と思しき人物の首元に刃を突き立てた。

「おっと、怪人殿。見回りご苦労だ」

「……!」

「武器を下ろしてくれないか。傷がついてしまう」

 瞬時に思考を巡らせ、耳馴染みのある人物のものだと理解すると、口元が緩んだ。

 言われたとおりに刃を下げる。

「やあ、エステル」

 ゆらりとランタンが点った。声の主はこのオペラ座の支配人、ペトロニーユだった。エステルと呼ばれた仮面の女は、くすりと笑みを浮かべ、口を開く。

「驚いた。貴方がこんな時間に会いに来るだなんて」

「君に会いたくなってね。駄目だった?」

「いいえ、いつでも歓迎。でも急に来られたら驚いてしまうわ」

「失敬失敬」

 赤髪の女は、柔らかな笑みを浮かべる。無骨な金属と可憐な女性の組み合わせは、アンバランスかつどこか退廃的であった。

「相変わらず、可憐だね。ああ、君がかの〈オペラ座の怪人〉だなんて、誰が想像するだろうか」

 パリの人々が恐れる〈オペラ座の怪人〉。その正体こそ彼女、エステルだった。彼女はペトロニーユが生まれるずっと前、オペラ座がこの地に建設されたその時から、当時の支配人の依頼で深夜の見回りを生業として生きている。その存在を知るのは、支配人を務めるガルニエ家の当主たちのみ。現在ではペトロニーユだけだ。

「いつもそう言うわね。何年も前から……それこそ、まだドレスを着ていた頃から」

「君はあの頃からずっと美しい」

「貴方は随分と見た目は変わってしまったけど。私にとっては小さなペティのまま」

 物心ついた時から両親を知らず、祖父以外に家族が居なかったペトロニーユが、歳の離れた友人に懐くのは必然だった。母のように甘え、姉のように敬い、恋人のように慕った。エステル自身も、幼い少女の友愛を受け止めそれに応えていた。

 二人の友人関係は今でも続いている。あの時と変わらぬまま、穏やかで少し神秘的な関係。少なくともエステルはそう思っているようだった。

「今夜は少し、ご一緒しても良いかな」

 エステルは頷くと、ペトロニーユの歩幅に合わせゆっくりと歩き始めた。上等な革靴が、カーペットに沈み、耳触りの良い音を立てる。

「それにしても、今日はどこか顔色が良くない。何かあったのかい」

 エステルは焦るように周囲を見渡すと、恐る恐る、少し……と呟いた。

「今朝、侵入者の処分のために外に出たら、若い踊り子に姿を見られてしまって。今日、貴方がお話していた彼女ね」

「見ていたのかい」

 こくりと赤い髪が揺れた。

 建設当時からこの場所に住むエルテルは、誰よりもオペラ座の内部構造について熟知している。表の通り道から抜け道まで、全てを把握していた。曰く、今日の騒動も裏から眺めていたらしい。

「最初は覗くつもりはなかったのよ。でも、どうしても気になって」

「優しいね。少し驚いていたようだけど、今は落ち着いている。それにしても君が地上に上がるとは珍しい。何かあったのかい」

「昨晩見つけた侵入者が、炎の魔術を使う魔術師だったの。酷いのよ、地下道いっぱいに炎を溢れさせて……そのせいでいつも使っている通路が開かなくなってしまったの」

 普段使用している死体遺棄用の下水道へ向かうには、一度地上へ出る必要があった。夜明けの誰も居ない時間帯を見計らったはずだが、偶然にも踊り子に見つかってしまったのだという。

「それは災難だったね」

 ええ、とエステルの小さなため息が零れた。

「ほんの少し、太陽の下へでてきただけで騒ぎを起こすなんて、申し訳ないわ」

 俯く表情に、ペトロニーユの眉間が狭くなる。

「ねえ、エステル」

「なぁに」

「君もそろそろ地上で生活しても良いんじゃないか。来年で五〇年になるんだろう。先代、お祖父様への面目も立ったんじゃないかな」

 顔を覆う赤い髪を、そっと耳にかけてやる。隠れていた緑色の瞳が、寂しげな色をたたえていた。

「そう、かしら……でも」

 口ごもるその理由には、心当たりがあった。

『生涯をこのオペラ座と地下で過ごす』

 エステルと祖父の間で交わされた、この契約のせいだ。五〇年近く前のものであるが、今でも律儀に守り続けている。

「あれは支配人一族のガルニエ家との契約だろう。代代わりした今、君の雇用主は私だ。私が内容を変えれば君は出てきてくれるのかい、エステル」

「そ、そうね。確かに貴方の言う通りだけど……」

 目を泳がせ、視線を合わそうとしない。そうまでして、出たくないのだろうか。

「……わかった」

 ペトロニーユは、内ポケットから小さなケースを取り出した。

「開けてみて」

 受け取ったケースを開くと、黄金に輝くインタリオリングが収まっていた。中心にはオペラ座の紋章と、一九〇八年の文字が刻まれている。サイズは小さめでエステルの指にぴったりと収まる。

「今年は私が支配人に就任して一〇年の記念の年なんだ。今日完成したばかりで、どうしても早く君に渡したかったんだ」

「もう?そんなに経ったのね。時が流れるのは早いわ」

 受け取ったリングを愛おしげに見つめ、エステルは微笑んだ。

「でね、今月の末に記念公演があるんだ。その時、一緒に観劇してくれないかな。オペラ座の中だから、きっとお祖父様の約束を破る事にはならないし。君が誰にも見つからないように通路を確保するし、専用のボックス席をとっておくよ。五番ボックス席だ。一番眺めのいい特等席なんだよ。ね、だめかな」

 エステルは少し悩ましげに首を傾げるも、観念したように口を緩め言った。

「そんなに言うなら、仕方がないわ」

「やったあ!」

 凜々しい佇まいを崩さないオペラ座の支配人らしからぬ喜びように、エステルは懐かしさを覚えクスリと笑った。まるで幼い頃に戻ったようだ。

「そうか、じゃあ新しいドレスを見繕わなければ。靴も、髪飾りも、化粧品も!それに、その仮面も」

 ペトロニーユは、エステルの右半分を覆う白い仮面に目を向けた。白く濁った陶器の仮面。オペラ座の怪人が骸骨、死神と呼ばれる所以に当たるものだ。

 エステルの細い指が、冷たい仮面に触れる。

「……こんな仮面、本当は君に着けさせたくなかった。本当は着ける必要なんて無かったはずなのに」

「優しいのね、ペトロニーユ。あのね、貴方がくれたこの仮面、私結構気に入っているのよ」

 エステルの浮かべる表情に、嘘偽りは一つもないだろう。だが、彼女の仮面の下に深く刻まれた傷を思うと胸が痛む。

「それなら良かった。錆ついてしまった扉があったはずだ。それを直しておこうか。その手の魔術なら、私の得意分野だ」

「嬉しい。助かるわ」

 二人は並んで、オペラ座の地下へ続く道を目指す。舞台裏の細い廊下へとやってくると、行き止まりの壁から数えて五つめのタイルに触れる。力を入れて押し込むと、タイルは凹み、壁の向こうでかちりと音が鳴った。絡繰りの起動音と共に壁が回転し、地下へと続く階段が現れる。

 ペトロニーユが指先をくるりと回すと、壁に並ぶ燭台に一斉に灯が点った。こつこつと靴音を鳴らし、二人は地下へと降りる。

「魔力で動く扉にしてくれれば楽なのに。お祖父様はなんでこんな面倒な造りにしたんだか。この前だって、押すタイルを間違えて小一時間格闘していたんだよ」

「それは災難ね。でも、この絡繰りのお陰で私は安全に暮らせているのよ。魔力式だったら、直ぐに誰かに気取られるもの」

 なるほど、それもそうだ。

 階段を降り、現れた地下道を進んでいくと、壁沿いに扉が一つ現れる。ペトロニーユが取っ手に手をかけて揺すってみるもびくともしない。

「ははは……これは酷いね。私でも動かない」

「大丈夫かしら、治せる?」

「任せて」

 ペトロニーユは目配せをすると扉に掌を押し当てた。指先に魔力を集中させ、扉の構造と接続する。頭の中に、情報が流れ込んできた。

「錆で扉がくっついているようだね。溶接された訳じゃないみたいだ。大丈夫、すぐによくなる」

 ペトロニーユはランプから一つ、油の水滴を浮かせた。それを少しづつ、少しづつ大きくし、扉の隙間へと差し込んでいく。こびりついた錆のまわりをいくらかくぐらせると、強くドアノブを揺すった。重々しい音と共に、扉が開く。

「まあ、ありがとう本当に助かるわ……私が魔術を使えればこんな手間をかけさせないで済んだのに」

「いいよ。君が使えない分、何度だって私が手を貸すよ」

 そう言って、エステルの手を取った。手袋越しに触れる小さな手の暖かさは、ペトロニーユだけが知っていた。

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