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ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ/柔らかな舞台

1月×日
東京都現代美術館で「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」

現代アートにはあんまり興味がないのだが、「ファン・オルデンボルフの映像制作では、音楽、映画、詩、建築、絵画といった芸術実践やその歴史も要素として多く取り上げられています」という紹介にちょっと興味を持って。

平日で、開館時間の10時に入場したのにもう行列ができていて、ほー、そんなに人気なのか、と思ったら、同時開催の「クリスチャンディオール、夢のクチュリエ」という展覧会に並ぶ列だった。
係の人に聞いて「柔らかな舞台」の方に入っていくと、エスカレーターの手前に誰も並んでいない受付があり、そこでスマホのチケットを見せ、無料の小冊子をもらってエスカレーターを3階まで昇る。
一番乗りのようだ。
3階に昇ると「ヘッドホンをお持ちください」と言われる。
展覧会の音声ガイドみたいなやつは今まで一度も使ったことが無いのだが、これはそういうのとは違うらしい。
壁にいくつもヘッドホンがかかっていて、その日の最初の客なのでヘッドホンはひとつも欠けずに並んでいる。
そこから一つを取って中へ。
最初の部屋にはスクリーンが二つ。
片方の映像の音声はスピーカーから流れていて、もう一つの方は音がない、と思ったら、映像の前に座れる場所があり、そのそばにイヤホンジャックのようなものがいくつかある。そこにヘッドホンのプラグを差し込んで音を聞くらしい。
この二つの映像は二つセットで1つの作品とのこと。
「マウリッツ・スクリプト」・・・ブラジル北東部にあった旧オランダ領ブラジルについて、資料が読み上げられ、議論が交わされる。

少し見て(聴いて)いたがどうにも興味を惹かれないのでとりあえず次へ進む。

日当たりのよい廊下のようなところ、角度によって見えるものが変わる写真パネル・・・これはちょっと面白い。あと資料としていくつかの本・・・手に取って読めるものもあった。

そこから次の部屋に入る。
次の部屋と言ってもその部屋で最後である(その部屋を通り過ぎると最初にヘッドホンを手に取った入り口に戻る)。

その部屋、というかスペースはずいぶん広く、そのなかに合計五つの映像作品が流されている。

五つのうち二つはスピーカーから音声が場内に流れていて、あとの三つはヘッドホンをジャックにさして音声を聞くようになっている。
それぞれの作品を区切る仕切りは一応あるのだけれど、簡素な衝立みたいなようなものであって、そんなにしっかりと区切られているわけではなく、また映像が写っている場所の高さも様々で、自然と複数の映像が視界に入るような作り。

ヘッドホンで音声を聞いていても、スピーカーで流されている別の作品の音声は耳に入ってくるし、そういうゆるい仕切りなので、なんとなくひとつの作品に集中できないような雰囲気がある。

それが不思議と心地良かった。
もちろん集中して一つの作品を最初から最後まで観て、次に別の作品を集中して最初から最後まで観て、と順番に見ていく見方も出来ないわけではないし、それが間違った見方だということも無いと思うが、しかしこの展示方法はあまりそういう見方を要請していない気がした。

上映されている映像作品は、
1)「彼女たちの」・・・林芙美子と宮本百合子について、朗読や、内容に関する対話(日本でのロケ)
2)「ヒア」・・・改装中の美術館の中で、三人組の女性バンドが演奏し、女性の文学者が自分の作品を朗読し、女性の歴史研究者が植民地時代の資料を読み上げる。
3)「オブサダ」・・・女性の映画撮影スタッフ(映画学校の学生や卒業生やプロ)が対話しつつ撮影を進める。
4)「偽りなき響」・・・インドネシアの近代的な建築物の中で歴史家が議論し、インドネシア独立運動のマニフェストがモロッコ系オランダ人のラッパーによって朗読される。
5)「二つの石」・・・1930年代初期にソビエト連邦で活動し、第二次正解大戦後はオランダで活動した二人の女性(建築家ロッテ・スタム=ベーゼと文筆家ヘルミナ・ハウスヴァウト)の言葉が、ロッテ・スタム=ベーゼが設計したウクライナのハルキウ・トラクター工場と、ロッテルダム(オランダ)で語られる。

正直自分がきちんと内容を理解したとは思わないし、あまり興味がわかないものもあったが、別にそれでかまわないような気がした。

こっちの映像をちょっと見て、それからあっちの映像をちょっと見て、というふうに、すこしでもマシな寝床を探す浮浪者のようにふらふらとうろつきまわって・・・いや、浮浪者になった経験はないので浮浪者の比喩を持ち出すのはあまり適切ではないかもしれないので表現を変えると・・・、ここに座って見ていたかと思えば、また少し場所を変えて座ってみたりと、ちょっとでも居心地の良い場所を探す猫のように、あちこちうろつきまわって・・・いや、猫になった経験も無いのでこれもあまり適切ではないかもしれない・・・なんと言うかつまり・・・自分がどこに腰を落ち着けたらいいのかを未だに決められない薄汚れた初老の男のようにうろうろとうろつきまわって・・・(これなら適切だ)・・・映像に付いた字幕の言葉や、演奏される音楽や、意味の解らない外国語の言葉の響きや、その言葉を発する人物の表情や、映像に映し出された建造物や、その他もろもろに、ふと焦点が合って、はっきりしたイメージや考えが浮かぶような気がしたと思ったらまたふっと遠ざかってしまう、という体験を幾度も繰り返して、ああ、ちょっと腹がへったな、と思って時計を見たら13時ちょっと前だった。どうやら3時間近くその空間でうろついていたらしい。
時間が経つにつれて少しずつ客も増えていたが、ふらふらうろつきまわる邪魔になるほど多くはなかった。

それぞれの作品の上映時間は20分から40分くらいなので、見ようと思えばほとんどの作品をちゃんと観ることも出来たはずなのだが、結局どの作品も最初から最後まで通してきちんと見終えることは無かった。

そしてそれで全然問題は無いように思えた。

この展覧会のチケットで常設展も観ることが出来たのだが、この時の気分・・・なにかふわふわしてはっきりしていないけれども、いつもより周りからの刺激に対して柔軟になっているような感覚を、他のもので上書きされてしまうのが嫌で、常設展は見ずに帰ることにした。

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