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路面電車幻想その2・ジャック・フィニイ・ノスタルジア

新宿歴史博物館を後にして新宿通りまで出ると、真向いの新宿通り沿いに面白い外装のビルが。
とりあえず写真を撮った。

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時間があったので新宿通りを新宿まで歩くことにする。
歩いて30分弱といったところ。

ジャック・フィニイが読みたくなって、紀伊国屋に寄って文庫本を探す。
目当ては「ふりだしに戻る」と「ゲイルズバーグの春を愛す」。
どちらも以前は持っていたが今は手元にない。
「ふりだしに戻る」は無かった。
ハヤカワ文庫の「ゲイルズバーグの春を愛す」を購入。

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内田善美による表紙が印象的な本。

内田善美って人はたしか亡くなったんだよな、と思い検索すると、亡くなっていなかった。間違いを書くところだった。
どうやら吉野朔美と混同してしまったらしい。
この二人は同じ頃にマンガを描いていたんじゃなかったっけ。
しかし内田善美がずいぶん昔にマンガを描くのを止め、旧作の復刊もかたくなに拒んでいるということは初めて知った。
そうするとこの本の表紙は本屋で手に入る内田善美作品として貴重なものなのか。

前に持っていた文庫本と表紙も内容ももちろん変わっていないのだが、文字の大きさがずいぶん大きくなっていて驚いた。
まあ年寄りにはありがたいが・・・。
今どき紙の本を読む人間の平均年齢は相当に高いのだろう。

「路面電車と新宿風景」を見て感じた「郷愁」といってもいいような心持ちからこの本を連想したのだが、ジャック・フィニイを「ノスタルジーの作家」と言ったらそれはジャック・フィニイに失礼かもしれない。
ジャック・フィニイの代表作は何か、といえば、やはり「盗まれた街」ということになるだろう。
「ボディスナッチャー」という原題の方が今は知られているかも。
ハリウッドで4度映画化され、その4作とも水準以上の出来、というのは珍しいのではないか。
これはやはり原作の力が大きいのだと思う。
ちなみにその4本の映画の監督は
① ドン・シーゲル ・・・代表作「ダーティハリー」
② フィリップ・カウフマン・・・代表作「ライトスタッフ」「存在の耐えられない軽さ」
③ アベル・フェラーラ・・・代表作「バッド・ルーテナント」
④ オリバー・ヒルシュビーゲル・・・代表作「ヒトラー最期の12日間」

である。

小さな町で、隣人たちの様子が何かおかしい、良く知っているはずの人達が、誰かに乗っ取られてしまったみたいだ、という感じで始まるこの物語は、当時(1954年)の赤狩りの時代の空気―しのび寄る共産主義への恐怖―を反映していると言われている。
この作品は郷愁とは特に関係ないし、他にも多様な作品を書いた作家である。

しかしそれでもジャック・フィニイが「ノスタルジーの作家」と呼ばれることがあるのは、ノスタルジックな雰囲気を持つ彼の長編「ふりだしに戻る」と、同傾向のいくつかの短編が(そのうちのいくつかは「ゲイルズバーグの春を愛す」に収録されている)印象深く、多くの人に愛されているからだろう。
それらの作品の中で、主人公は「古き良き時代」になんらかの形で接触し、それに強く惹かれる。

「ゲイルズバーグの春を愛す」の訳者は福島正実。
「SFマガジン」の初代編集長であり、日本にSFの魅力を紹介し、定着させた人だが、この人もジャック・フィニイのこういった側面を愛した人であり、この本の「訳者あとがき」にも熱っぽい文章を書いている。(ちなみに文庫のあとがきは1972年に刊行された単行本に書かれたあとがきを再録したもの)

彼は現実の退屈さ、無意味さ、のっぴきならない平板さ、みっともなさ、醜悪なまでのドラマのなさをしっていた。認めていた。しかし、それをそのままには認めたくない。もっとちがう、もっと別の、劇的で、意味があって、美しくさえある第二の現実を、その背後に見出したかった。(中略)ほんとうは第二の現実などありえようはずのないのがちゃんと判っているにもかかわらず、嘘と承知で、それをつくりださなければおさまらなかった。
(「ゲイルズバーグの春を愛す」訳者あとがきより)

文庫本の解説とか訳者あとがきとかで、解説者や訳者が持論を展開するのはうんざりさせられるもので、「そんなのは自分の本でやれ、文庫本のあとがきには基本的なデータとちょっとしたエピソードでも書いてればいいんだよ」と思うことがあるが、この福島正実のあとがきがそれほど嫌味に感じられないのは、福島が本当にジャック・フィニイが好きなのが伝わってくるからかもしれない。

ここにははっきりと、気に入らない現実への拒絶があります。それよりは虚構の世界をえらぶという主張があります。
(同上)

「古き良き時代」などというものは存在しない、それはずっと後になって「作られる」ものなのだ、というのは良く聞く説で、良く聞く説の常として正しいけれどもつまらない話である。そんなことは誰だってわかっているのだ。ジャック・フィニィもそれはわかったうえで書いているのだ、ということなのだろう。

その魅力はたぶん、退廃の魅力でしょう。しかしそれは、フィニイほどに未来へのプロセスに生きることを嫌っていないし、たぶん何とか生き抜いていけると思っている大多数の一人であるぼくにさえ、やはり十二分に魅力的です。なぜなら、ぼくも、二十世紀というこの特定の世紀末に生きる人間の一人だからです。来たるべき未来に、疎外されうちひしがれ、傷手を負うだろうことを予感している一人だからでもあるでしょう。
(同上)


ジャック・フィニイのこの手の作品では、主人公が「古き良き時代」にあこがれ、それに引き寄せられていくことが多いが、「ゲイルズバーグの春を愛す」の表題作では逆に、過去の方が押し寄せてくる。
この作品の冒頭のエピソード。
ゲイルズバーグに工場を建てようとしていた実業家が、工場を建てる予定の土地の下見などをした日の夜、ぶらぶらとゲイルズバーグの大通りを散歩していた時、走って来た路面電車にあやうくひかれそうになる。向こうにもこちらが見えているはずなのに、路面電車はスピードを落とすこともせずに通り過ぎたのだ。男は身をひるがえして危うく避けたが、あまりに腹が立ったので大声で怒鳴り散らした。その声に驚いた近所の人たちが出て来て男に話を聞き、やがて警官が来てその実業家は「泥酔および風紀びん乱」の罪で逮捕された。
ゲイルズバーグでは、もう何年も前に路面電車は廃止され今はもう走っておらず、通りにも路面電車の走るレールなど残っていないのだった。
結局実業家はゲイルズバーグに工場を建てるのをあきらめる。

ゲイルズバーグの過去が現在を撃退しているのである。街が私たちに抵抗しているのだ。なぜなら、過去というものは、そんなにやすやすと消滅しはしないものだからで、昨日の新聞とともに簡単に消えてしまうものではないからだ。
(ジャック・フィニイ「ゲイルズバーグの春を愛す」より)


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しかし実際には、過去はやすやすと消滅してしまう。
廃止された路面電車が再び走ることは無いだろう。

「いくら過去が美しく見えても、そこに戻ることはできないのです。私たちは今を生きなければいけません」
これは正論で、正論であるからには正しい。

ただ時々、そんな正論は聞きたくないよ、という気持ちになってしまうこともあるのだ。

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