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宮城道雄と内田百閒

宮城道雄は内田百閒の琴の師匠である。
そして同時に友人でもあった。
宮城道雄は随筆も書いたが、百閒が文章についてアドバイスをしたりもしたらしい。
宮城道雄は1894年生まれ。
内田百閒は1889年生まれ、ということで百閒の方が5歳年上。
百閒が宮城道雄に入門したのが1920年、宮城道雄が死んだのが1956年だから36年のつきあいということになる。

1956年、宮城道雄は公演のため大阪に向かう寝台列車から転落して死亡した。
即死ではなく、落ちてから1時間以上経ってから発見され、病院に運ばれたが治療の甲斐なく亡くなったという。
転落のはっきりした原因はわかっておらず、自殺説も出たらしいが、前後の宮城道雄の言動などから見て、誤って転落した、という説が有力らしい。

宮城道雄の死について、内田百閒は「東海道刈谷駅」という随筆/小説を書いている。
刈谷駅は宮城道雄が転落した場所に近い駅である。

昭和三十一年六月二十四日の朝、大検校宮城道雄は死神の迎えを受けて東京牛込中町の自宅に目をさました。

内田百閒「東海道刈谷駅」

という、やや大仰な始まり方をするこの随筆で、宮城道雄が列車から転落する場面はこう書かれている。

宮城は列車の動揺でよろめきながら、一足ずつに通路を蹈んで手洗いに行こうとした。喜代子に連れて来て貰っているから、勝手はわかって居り、扉の開けたての順序も覚えている、折角寝込んでいる彼女を起こすがものはない。ひょろひょろしながら第一の扉の所まで来たが、閉まっている筈のその扉が開いたなりになっていた。
扉が開いていると云う事は宮城には見えない。まだその第一の扉まで来ないと彼は思った。
車掌やボイが後を閉め忘れて行くと云う事はない。彼等は必ず閉める。その後で起き出した深夜の寝台客が、手洗いの帰りにでも閉め忘れたかも知れない。しかしただ閉め忘れただけなら、扉の握りをよく引いていなかったと云うだけなら、その内に列車の動揺で大概はひとりでに閉まる。それでも開いていたとすれば、閉まらないように死神が押さえていて宮城を通したのだろう。

内田百閒「東海道刈谷駅」

× × × × × ×

この「東海道刈谷駅」の中には、まだ若い頃、宮城道雄にいたずらをした思い出話が出て来る。

夜は宮城がその坂の上の借家の二階で寝ているのを知っているから、私は下の往来から竹竿の先にステッキを括りつけて継ぎ足して、長くなった棒の先で二階の雨戸をこつこつ叩いておどかした。あとで宮城がくやしがるのが面白かった。

内田百閒「東海道刈谷駅」

盲人相手になにやってんだ、という感じだが、そんな子供っぽいいたずらを盲人相手にする大の大人は他にいなかっただろうし、そんなところを宮城道雄は面白がったのかもしれない。

宮城に対するいたずらではないが、百閒の「長春香」という随筆の中に、宮城も関わった印象的なエピソードがある。

百閒が自宅でドイツ語を教えていた長野初という女性が、関東大震災で命を落とした。
「長春香」はその長野初について書かれた随筆である。

余震も次第に遠ざかり、雑司ヶ谷の公孫樹の葉が落ちつくした頃、過ぎ去った何年の間に、私の許で長野と知り合った学生達と、同じく長野を知っている盲人の宮城道雄氏も加わって、一夕の追悼会を営む事にした。町会に話して、盲学校の傍の、腰掛稲荷の前にある夜警小屋を借りて、会場に充てた。だれかが音羽の通の葬儀屋から買って来た白木の位牌に、私が墨を磨って、「南無長野初の霊」と書いた。

内田百閒「長春香」

どこかで借りて来た大鍋を火にかけ、ビールや日本酒を飲みながら、みんなで持ち寄った食材をどんどん鍋に入れていき、なにがなんだかわからなくなった鍋をつついて食べる。
そのうちに酔いもまわってくる。

「お位牌を煮て食おうか」と私が云った。
「それがいい」と云ったかと思うと、膝頭にあてて、ばりばりと二つに折る音がした。
「こうした方が、汁がよく沁みて柔らかくなる」
「何事が始まりました」と宮城さんが聞いた。
「今お位牌を鍋に入れたところです」
「やれやれ」と云って、それから後は、あんまり食わなくなった。

内田百閒「長春香」

「長春香」は若くして亡くなった教え子を追悼する哀切な随筆なのだが、その中に故人の位牌を二つ折りにして闇鍋にぶち込む、というエピソードが出て来るところが百閒らしいところだ。
こうした、狂気すれすれの稚気を宮城道雄は気に入ったのだろうか。

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