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「脚本家が対峙するのは原作であって、原作者は関係ない」って、まあ正論だと思うんだけど、

「セクシー田中さん」というテレビドラマの脚本家が、自分の脚本に原作者が口を出してくることに対する不満をSNSにあげたことを発端とした騒ぎは、よくあるSNS上の炎上騒ぎなのかな、と思って見ていたのだが、色々あった末、最終的に原作者の自殺、という最悪の結果になってしまった。

その件についての調査結果が日本テレビからようやく出て来て、また少し話題になっているらしい。

自分はそこまで関心を持って見ていたわけでもないので、特にこの件に関して突っ込んだことは言えないのだが、ちょっと引っかかったことがあったのでそれを書いておきたい。

この騒ぎを受けて、当該の脚本家ではない何人かの脚本家が集まってYouTubeで色々持論を展開した中で、

「脚本家が対峙するのは原作であって、原作者は関係ない」

みたいなことを言った脚本家がいたらしく、それがまたずいぶん叩かれたらしい。

私はそのYouTubeを見たわけではないので、はっきりとしたところはわからない。
言い方が悪い、とか、このタイミングで言うことなのか、とかで批判されたのかもしれない。
ただ少なくとも、言葉の意味だけ取ってみれば
「脚本家が対峙するのは原作であって、原作者は関係ない」
というのは全くの正論だと思う。

読者が本を読む時に対峙するのは作品であって作者ではない。
作者が「こう読んでもらいたい」という希望を持っていたとしても別にその通り読む必要はない。
(もちろん明らかな誤読は別・・・どこからが明らかな誤読なのか、というあたりがちょっと微妙なところなのだが)
そこらへんは原作を読み込んで脚本にする脚本家であっても例外ではないはずだ。

キューブリックが原作よりも原作者に向き合っていたら「シャイニング」も「2001年宇宙の旅」も撮られていなかっただろう。
(2001年の場合は正確には原作ではないけれども)
「シャイニング」の原作者スティーブン・キングは映画に対して未だに文句タラタラらしいし・・・。

もちろん原作を使って商売をするのだから原作者の許可は必要である。
できれば「好きなようにしていいよ」と言ってもらえばいいのだが、原作者がどうしても自分が思うとおりにしてもらいたいと言ったらそれには従わざるを得ない・・・当たり前の話だ。

だから「セクシー田中さん」の件は結局「約束」の話なんだと思う。
書面での契約も、口約束も含めた「約束」・・・それがどういうふうに交わされたのか、そして守られたのか、と言う話。
そこに
「マンガの映像化、いかにあるべきか?」
なんて話を持ち込むと不必要に複雑になってしまうような気がする。

「セクシー田中さん」調査報告書は誰でも見られるようになっていて、私もざっと見てみた。
責任逃れだ、とかなんとか言われているようだし、たしかにそういう面もあるのかもしれないが、ただ、事実関係に関してはかなり詳細に書かれているな、という印象を持った。
その内容についてこまごまと触れるつもりはないけれども、ひとつだけ、読んでいてびっくりした一節があった。
それは、細かい事実関係の話に入る前の
「前提となる事項」
の中の次のくだりだ。

原作利用許諾契約については、制作体制がある程度整ったところで出版社からドラフトを提示され、出版社と日本テレビのライツ担当者間で交渉に入る。両社間で合意済みの原作契約の「雛形」がある場合は放送前に締結することもあるが、「雛形」がなく、ドラフトの条件等の交渉が難航するような場合は、放送後に締結されることが多い。



業界によって独特のしきたりとか慣習みたいなものが有る、っていうのはわからないではないんだけど、さすがに「原作利用許諾」の契約を放送後に締結するってオカシクないですかね?

ま、そういう事も含めてやっぱり「約束」の話なんだろう。

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