監獄がもたらす自然法則に捕まった人間

こんにちは。
最近よく考えていることがあります。

それは、人はどれだけ周囲の環境に支配されているのかということです。

ある人が言っていました。人間は環境動物であると。

確かにそうかもしれません。周囲の環境を全く無視した存在だったら自然界の生存競争で生き残ることができないと思います。自らを食べようとする肉食動物の存在に気づくこともできないし、食物も見つけることができません。「強いものが生き残るのではなく、変化できるものが生き残るのだ」という名言があるように、周囲の環境に適応することで人類は生き残ってきたのだと思います。あるいは、周囲の環境に適応できる種のみが生き残ってきたのかもしれません。

狩猟社会の時代はそれで生きてきました。

今はsociety4.0の情報化社会です。狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会と時代を経るごとに人々の生活は変化しました。長い時間をかけて人類は当たり前だった生活を変化させてきました。

過去と比較すれば人々の何が変わって何が変わらないかがわかりやすいかもしれません。

ここで、フーコーの構造主義を持ち出しましょう。構造主義とは、人は所属する共同体に定義される存在であると考える哲学のことです。

誰しも思い当たる節はあると思います。

自分の兄弟が挨拶をされても全く返事をしない人だったとします。すると、あなたはその兄弟に対して、「挨拶をされたら、返事をした方が良い」と思うでしょう。なぜ返事をした方が良いのでしょうか。

それは現代の人間は集団的に社会を構築していてそこから共同の旨みを享受しているからです。電気を作る人、水道を整備する人、道路を整備する人、車を作る人、PCを作る人、インターネット回線を管理する人、スマホを作る人、、、などなど多くの他者がこの社会を支えていて、共通の旨みを享受することで人々の生活が成り立っています。

つまりは、今の社会は、共同体に所属するように人々の行動が矯正されるシステムだということです。

狩猟社会の時はどうでしょうか。そもそも別民族間で共通の言語を話せていたかすら怪しいと思います。そう考えると、別に挨拶などしてもしなくてもよかったかもしれません。

ペットとして買われている犬や猫は声に出して挨拶しませんよね。いつの頃からか社会機能的に人は"挨拶"を生み出したのかもしれません。

このように、人間は共同体によって行動を定義されると言えます。
これが構造主義です。

フーコーはこの観点で刑務所について考えました。

刑務所ができる前は、盗みなどの犯罪を犯したり、権力者に逆らった人は、火あぶりの刑など見せしめにされたそうです。そうすることで権力者は統治していました。どんな人でも盗みはするし、権力者に逆らう勢力はいます。市民は嫌な部分がありながらも生活が安定するならと権力者に従っていた部分もあるでしょう。

ある時刑務所という仕組みができました。刑務所は世の中を、正常と異常に分ける仕組みです。刑務所ができる前は、正常異常が混ざり合ってできているのが人間でした。社会を形作る上でできた決まりごとを守らせるために”刑務所”という強力な仕組みを人類は作りました。すると、どうでしょうか。

「あの人はおかしい」「あの人は異常だと思う」

こういった言葉を耳にする機会が生まれたそうです。つまり、犯罪者に対する無意識のバイアスが強くなりました。

実際は、犯罪者と同じような立場に置かれれば他の人も”異常”な行動をとったのかもしれません。

本当でしょうか。思考実験をしてみましょう。

あるコンビニで強盗事件が起きました。強盗犯はコンビニから逃走しようとしました。すると、店の入り口に偶然通りかかった警察官が犯人の目の前にいました。犯人は「もう逃げられない」と観念し、降参と言わんばかりに両手をあげました。それをみた警察官は、強盗犯を銃撃して殺害してしまいました。

警察官曰く、「私は正義のためにやった。彼をこのまま生かしておくわけには行かなかった」とのことです。

こんな事件があった場合、マスコミは”行き過ぎた正義感”としてこの警察官の行動を異常なものと報道するでしょう。

さて、この一連の流れでおかしいのは何でしょうか?

警察官の"歪んだ"正義感ですよね。

”歪んだ”って何でしょうか。何が歪んでいるのでしょうか。

それでは、時代を変えましょう。

同じ強盗事件が武士のいる時代に起きたとします。ここでは警察官→武士と考えましょう。強盗犯を武士が切り捨てました。

この武士は当時異常な行動を取ったとみられたでしょうか。

答えはわかりませんが、少なくとも現代よりはおかしい行動をしたとみられないと思います。

当時武士は市民を守る役割でした。そのため、中国の古典論語など道徳を学ぶ機会があったそうです。一方市民はというと、商売や農耕に関する知識には優れていましたが、道徳を学ぶ機会は少なかったようです。そのため、武士は市民を守るという立場でした。市民を守るためなら殺人も厭わない。今の価値観からすると、やりすぎだと感じるかもしれませんが、当時の人は現代の人より、おかしいとならなかったのではないかと思います。

このように私たちの考え方は、所属する共同体によって大きな影響を受けています。

では、私たちはどれほど”自分の意志”で判断できているのでしょうか。自由に考えるためにはどうすれば良いのでしょうか。答えは誰にもわかりません。常識から自由に逃れたいと考えた時、この社会はまるで監獄のように映ります。この監獄から逃れる術はわかりません。それでも人は考えて考えて考え続けて監獄を突破しようとするとき、もしかしたら打破できるのかもしれません。

この監獄をより良くしようと足掻いてきた人たちのおかげで今の社会は成り立っています。監獄から逃れて初めて、監獄をより良く再設計できるのではないかと思います。


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