できない配慮というだれかへのそれ

自分が配慮してやったことが人の琴線に触れて責められた時、どうすればよかったのかと混乱してしまう。
仕事上だったらどうとでもできる。
恋人や家族との関係でのそういうのが本当に対応できない。
その度、家族もパートナーも持てないし、おそらく誰とも共に生きていくことはできないだろうと思う。物悲しい話だ。
しかし、どうにもならないことがあるとすればこれだ。
自分のせい、自分のおかげで物事が起きた時、配慮したにもかかわらずそれが事件になったならば自分の「配慮」の根源を見直さざるをえない。
そして、見直したもののさらにそれに気を配って配慮してとった行動がまた問題になった場合、もうどうにもならない。

おそらく配慮ってもんを間違えて覚えてきたんだろうし、もしかしたら自分が近くなりたい人にはこの私による配慮が不快なのかもしれない。
そうならば近くなりたい人との関係を友達までにすればいいことに気づいた。
家族や恋人はうまくいかないが、友達とはまあまあ良い関係を保っている。

だから家族や今の恋人と別れる時は世界中に友達を作って人と繋がり、あとは1人でいたい。
動物と生きたい。
彼らにする配慮に言葉はないから大丈夫だろう。話もできるだろう。

きっと何かが欠けている。欠けているけれどそれを悪とは思わない。
人生って悪くない。素敵なことは沢山沢山あるんだから。
見方を変えて生きればいい。
ただそれだけのこと。

#屈強に弱小

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