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#4 『からだを読む』-解剖学とレフェリーが考えるべき言葉本来の意味-

◎この本に出会ったきっかけ

養老孟司さんの本を最初から最後まで読んだのは、これが二回目の事です。

一度目は、留学からの帰国後、
現地での経験から日本人の身体性について深く興味を持ち何冊か本を読みました。
その時に出会ったのが、養老孟司さんとC.W.ニコルさんの対談形式の本『「身体」を忘れた日本人』でした。

(僕が興味を持った日本人の身体性と、この本の内容、お二人の考え方には共感する所が多くあり、語りたいことがたくさんあるので、いつかまとめる機会を作りたいと思います。笑)

高校時代の監督が、『バカの壁』の話をよくしていたので、
昔から養老さんは本を書く人だという認識はあったのですが、
解剖学者という事は、恥ずかしながら前述の本を読んで初めて知った事でした。

そこで今回は、
考え方に深く共感した養老さんが解剖学という専門分野で、どのように解説をしてくれるのか、ちょっと覗いてみたくなった、というのがきっかけです。

◎こんな本だよ

きっかけの中にも書いた通り、解剖学の本。
そもそも解剖学とは、「「言葉になっていなかった」人体を「言葉にする」作業」と定義することから始まる。
口から肛門まで20個に人間の体を分け、哺乳類とその他の生物の構造を比較する事で、我々にとってその器官が担っている意味を紐解いていくもの。

◎こんな解釈をしてみました

正直、僕は体の内部の構造は分からないし、
この本は専門用語だらけだけれども、それでもこの本を読み進められたのは、
養老さんが始めに提示した前提がすごく興味深かったからでした。

その前提とは、
「われわれは言葉が既成である世界に住んでいる」という事です。

どういうことかと言うと、
「正しい言葉遣いとは何か」
「より良いコミュニケーションとは何か」という議論はしばしばなされますが、
その議論が出来るのは、言葉が既に存在することが前提になっているから。

僕が#3で書いた『「ひらがな」で話す技術』に関して言うと、
ラジオDJの仕事は、自分が見た事、感じた事を人に伝えられるように、
既成の言葉を使ってなんとか表現すること。

では、ここで言う解剖学者の仕事とは、
こんな本だよ、に書いた通り、「言葉になっていなかった」人体を「言葉」にすることです。

「言葉にする」事で現実というものの曖昧さが消えてしまうのか、
現実の曖昧さを消すために「言葉にする」のか、
そんな哲学的な問いの答えを僕は持っていませんが、笑
言葉により現実を「切り取る」ということが解剖学ということです。

例えば、一般の私たちが「唇」と言って思い浮かべるのは、
ほとんど「赤い唇」でしょう。

しかし学術的には、私たちのイメージする「赤い唇」は、
「赤唇縁」または「唇紅」という術語が当てられているそうです。笑

では、解剖学的「唇」はどこか、というと、
哺乳類が乳を吸うために獲得した、爬虫類などにはみられない構造、
頬の複数の筋肉を含めたもっと大きな構造単位なのだそうです。笑

文中にあった分かりやすい例で言うと、
歯医者さんで麻酔をすると、唇が痺れて閉まらない感覚になるのは経験された方が多いと思います。これは口輪筋という筋肉が麻痺しているからで、実は「赤い唇」は痺れてはいないんです。
言葉の認識にズレが生まれているのは、これが理由です。

「難しいからもう唇でいいじゃん」と思うのは僕だけではないかもしれません。笑
ですが、体に問題が起きた時、
医者には、体の状況を正確に記載する責任があります。
だから、医者の為に、引いては患者としてのわれわれのために難しい専門用語によって細かく定義されているんですね。

ここで学ばなければいけないのは、
「赤い唇」か、「赤唇縁」かということではなく、笑
言葉が生まれる時には、その言葉が存在するには全て理由があるということです。
なので、言葉を用いる時にはその言葉が生まれた背景やその言葉が用いられる背景を知らないと、不十分な認識から誤った解釈をしてしまうことがある、ということにもなります。

レフェリーに置き換えてみましょう。
さぁここからが今日の本題です。笑

サッカーはイギリスで生まれたスポーツです。
なので、われわれレフェリーは、英語で書かれた競技規則を日本語に翻訳して使用しています。すると、翻訳するタイミングで、英語にあった本来的な意味が失われてしまうことがしばしば起こります。

例えば、レッドカードに相当する危険なプレーは、
競技規則上、「過剰な力を用いる」と表現されます。
この言葉を聞いて皆さんはどのような光景を想像されるでしょうか?

一方英語版では、
"using an excessive force"と書かれています。

でも、「力」を訳すなら誰もが知っている"power"という単語もあります。

そこには、"power"ではなく"force"が用いられた意図があるはずなんです。

このような言葉の意味は、
大抵語源を遡るとイメージすることが出来ます。
以前に書いた「レフェリー」と「審判」の響きの違いも同じようなものです。

Oxford Dictionary Englishによると、
"power"は元々ラテン語の"posse"が語源とされています。
"posse"とは英語の"able to"、つまり「〇〇出来る」ということです。

一方"force"は元々ラテン語の"fortis"
"fortis"とは「強い」という意味の"strong"が語源でした。

"power"の訳をいくつかみてみると、
権力や権限、能力、電力、そして、「物理的な力」とあります。
「〇〇出来る」という語源から考えると、
「何かを支配できる」権力や権限、
「何かを解決出来る」能力というのがメイン意味にあって、
あくまでその中の一つとして、「何かを(物理的な力で)動かすことが出来ること」、これが"power"だと分かります。

"force"の訳をみてみると、
「物理的な力」、そしてその後に、腕力や、暴力、精神的な力と続きます。
精神的要素が意味に入っているとしても、
こちらはあくまで"力"が意味の中心に来ていることが分かりますね。

では、本題の「過剰な力を用いて」に戻ります。
いかがでしょうか。
始めに見た時よりも、「強さ」を感じているのではないでしょうか?笑

これが、言葉本来が持つ意味を考える、ということです。

われわれレフェリーの仕事は解剖学の仕事とは異なり、
言葉を作る事ではありませんが、
自分の目で見た事象を既成の言葉を用いて説明する責任があります。

その為には、言葉本来の意味を理解出来ていないと、
説明が伝わらなかったり、意図とは異なる解釈をされてしまう可能性があるのではないかなと思っています。

ぜひ、普段何気なく使っている言葉の意味を考えてみては?
今日はそんな提案でした。

長くなったので、今日はこの辺で。


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