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Vol.0 「審判」と「レフェリー」

(本来であれば、今日はレフェリーとの出会いを書くつもりだったのですが、導入から脱線してしまい長くなってしまったので、急遽Vol.0を挟みたいと思います。笑)


僕がレフェリーに出会ったのは高校2年生の時でした

正確に言うと、その時に出会ったのは「審判」であったと思います。

これは完全に僕の中での主観ですが、

日本において「審判」という呼び方と「レフェリー」という呼び方には距離感があるなと感じています。

印象論として、

「審判」:チームの中でジャン負けで渋々やっている人

「レフェリー」:ガチで審判をやっている人

というのを感じます。

はじめに、で書いた「しんぱん!?」という言い方もなんとなく、

ハズレくじの役割をなんでやってんの?というニュアンスを感じます。繰り返しますが、これは主観です。笑

話がそれますが、語源的な話をすると、

「レフェリー:referee」は英語の「refer」=「委ねる」からきていて、「委ねられる人」という意味があります

これはレフェリーという存在が、

サッカーが娯楽から競技になる過程で生じた「勝利」を巡る上での争いを仲裁する役割を委ねるという必要性から生まれ、

その存在を持って、セルフジャッジで成り立っていたサッカーが競技の体を成したという歴史にあるからで、一緒に協力してサッカーをつくってきたというという過去があります

では、日本語の審判とはどのような意味なのでしょうか。

辞書で「審判」を調べると、このように定義されています。

①問題となる案件を審議し、判定を下すこと。(大辞林 第三版)
②スポーツ競技などで、規則への適否・優劣・勝負を判定すること。また、それをする人。審判員。                                              
 (大辞林 第三版)

僕は個人的にこの意味に近いのは、"refer"よりも"judge"かな、と思っていて

この"judge"の本来的な意味は世界で最も権威のある辞書、『Oxford English Dictionary (OED)』から語源を遡ると、

"God or Christ considered as a supreme arbiter or adjudicator (1212 or earlier)  "   (Oxford English Dictionary)

これが元々、キリスト教の「最後の審判」などで使われている「審判」の意味であり、神が人間のことを裁くという構図であったものが、

"classical Latin iūdic- , iūdex individual appointed to decide a case at law, person appointed to adjudicate in a contest, umpire, critic, assessor, person who decides an issue"            
(Oxford English Dictionary)

ラテン語において、「裁判官や判事」などの人対人での「裁く人」の意味に変わっていったことが分かります。

例えば、中国ではレフェリーは「裁判官」と書かれるのですが、

日本語における「審判」というのは、"referee"というより「裁判官」に近いのかなという印象を受けます

だからこそ、「一緒にサッカーをやる仲間」というより、

「威厳があり、選手より上の立場から判定をする人」で、正しい判定をすると思ってたのにミスジャッジが起きるので、時として「敵」になってしまうことがあるのではないかな、と思います。

僕が感じる「審判」と「レフェリー」の距離感は、語源的にはそんなところにあるのでは、と思っています。

これは選手側の認識ももちろんそうですが、レフェリー側でも「審判には威厳がなくてはならない」「レフェリーには強さがなければいけない」という固定概念に縛られてしまっていて、その威厳を守るためだけに苦しい思いをしている方がいらっしゃったりもします

僕らレフェリーは競技の中での役割上、笛を吹いたり、旗を降ったりしますが、仲間であることを忘れてはいけないし、

本質的には、まず役割である正しい判定を追求しなければいけないですね

このnoteを通じてここで言う「審判」が「レフェリー」になっていけば嬉しいです。


さぁ、話がだいぶ逸れてしまいました。

長くなったので、レフェリーとの出会いは次回にしたいと思います。笑

それでは。

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