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#5 『人の住処』-京都から学んだ、自然と生きる為の「諦め」の精神-

◎この本に出会ったきっかけ

最近良く聞いているJ-WAVEのPodcast 『INNOVATION WORLD ERA』で紹介された本。

隈研吾さんがゲスト出演している回で、ナビゲーターのアジカン後藤さんとの会話が、僕がずっと抱いていた疑問を解消してくれるもので、Podcastを聞きながら即買いしていた、そんな本。

◎こんな本だよ

隈さんの建築家人生を振り返りながら、新国立競技場を設計するにいたった背景、またそこに込めた想いを伝えているもの。

新国立は21世紀の新しい形の建築で、自然と調和する木の建築。

箱ではなく庇(ひさし)としての建築である。

◎こんな解釈をしてみました

留学からの帰国後、ずーっと考えていたのが街並みについてでした。
ヨーロッパも南米も行きましたが、街の至る所が絵になるのが本当に不思議でした。

(誤解を生まない為に補足すると、もちろん海外フィルターが掛かってより良いものに見えていると思うし、サンパウロの都市部は東京みたいで何も新鮮味を感じなかったし、ロンドンの銀行街の一角は殺伐としててあんまり好きではなかった。という例ももちろんあります笑)

それでも、ふとした路地が素敵なだなぁと思うことが圧倒的に多くて。
なんでだろうなー、というのを良く考えていました。笑

Podcastの放送があって、この本を購入してから2週間が経ち、やはり面白くてすぐに読み終わり、書きたいこともたくさんあったのですが、中々書く時間が取れず、ようやく文字に起こす時間を取ることが出来ました。

この本の中での一番のメッセージは、
庇としての建築でした。

この漢字、ひさしって読むんですよね。
恥ずかしながら、初めて知りました。笑
庇う(かばう)という印象の方が強いかもしれません。

庇というのは、箱に対比されたもの。
そもそも建築というのは閉じた箱を作りたいという歴史でした。
きっかけは14世紀のペストです。
コロナウイルスの流行と対比されることもあり、カミュの『ペスト』が再流行するなど、歴史上の出来事というより、身近になってしまった出来事です。

14世紀当時は、建物の中と外の境界が存在せず、街が汚いものでした。そこで、しっかりとした清潔な箱を作り、それにより衛生状態を保つことが幸せの条件でした。

それが19Cに入ると、
閉じた箱をもっとデカく、完璧にしようというのが人々のモチベーションとなり、それが高層ビルであり、私達が現在暮らす都市空間になりました。
そしてそれが多くの人の幸せの象徴となりました。

しかし、2011年の震災で鉄筋コンクリートの箱が案外脆いことが分かり、今回のコロナでは箱こそが感染を拡大させてしまう原因であり、箱に人が集まれなくなりました。

だから、これからの時代は、閉じた箱で成り立っていた都市空間ではなく、自然と共生する空間に、「ちょっと雨風を凌げる庇」を提供できる様な建築が求められるのでは?
というのが隈さんの提案です。

実は今日僕は、思い付きでで京都に来てみました。
渡月橋の脇で桂川が流れる音を聞きながら、気持ちよーくこの本の最後を読み切りました。笑

思い付きと言ってもテーマはありました。
京都の街並み、空間を観察することです。

冒頭に述べた、
海外街並み絵になりすぎ問題。笑

その答えの一つが建築のされ方にあると思い、ずっとアンテナを張っていた所に飛び込んできたのが今回のPodcastであり、今回の本でした。

僕の中で確信があったのは、
美しいと感じる街並みは、石やレンガなど昔からの素材をそのまま用いた建築で、新しく出来た建物が古いものと共生している、ということです。

そしてもう一つの確信は、日本ではその素材は木である、ということです。

でも残念ながら東京には立派な高層ビルはあっても、木の街並み、木造建築が美しい場所を僕は知りません。

そこで、木の街並みが美しいと感じる京都にふらっと来てみた訳です。

一日京都で空間を意識しながら散歩していた結果、気がついたことは、京都は都市空間ではないなぁということでした。

どういうことかと言うと、
街のメインは建物ではなく、あくまで山や川の自然でした。建物はそこに調和する形で存在していました。

数年ぶりに来た京都は、驚くほど自然が残されていました。

加茂川沿いを歩き、
京都御所から二条城へ。
さらに足を伸ばして嵐山で桂川の流れる音を聞きながらぼーっとする一日を過ごしました。

自然が多い場所にいたからというのも理由の一つですが、
自然によって建物の距離が規定されているので、街に一定の空間が確保されている気がしました。
今流行りのソーシャルディスタンスがそもそも構造上保たれている感じです。笑

もちろん全ての場所がそうではありません。がっかりする街並みもたくさんあったし、観光客だらけでうんざりする場所もありました。
僕もそのうんざりする観光客の1人なんですけどね。笑

でも、圧倒的な自然の多さと、そこに共生して人が暮らしている感覚がありました。

街を歩きながら、街並みを守るというのは、
例えばコンビニの色を茶色っぽくすることではなくて、笑
自然に合わせた空間を、距離感を保つことなんじゃないかな、と感じました。

本書の中で印象的だったのは、
「度重なる地震、災害が、自然というものの大きさ、強さ、そして人間というものの弱さ、はかなさを日本人に叩き込んできた。
だから、日本人は、閉じた箱を作ろうとせず、庇や縁側といった曖昧な装置を使って、自然に開きながら、自然の美しさを身体で感じながら、自分たちのささやかな場所を確保してきた。」という表現です。

そして隈さんはこれを「日本の知恵、諦め、謙虚さ」と評していました。

僕はこの「諦め」という表現が今の現状にすごく合っていると思っています。
都市を開発して自然をコントロールして来た現代ですが、地震や、今回のウイルスなど、個人的にはやっぱり人間は自然には勝てないと思い知らされた感じがしています。

本書の中で、木造建築は最初から古くなることを前提に建築されている、と書かれている箇所がありました。
これもある種の「諦め」だと僕は思います。

「諦め」と言うと一見ポジティブな意味には聞こえませんが、
大谷大学のホームページを参考に言葉の由来を辿ると、
漢語の「諦」は仏教由来の言葉で、サンスクリット語ではsatya:真理、道徳という意味であり、「諦観」「諦聴」という熟語は、「真理を見る、聞く」という意味を持ちます。

つまり「諦め」とは、
「物事の道理をわきまえることで、自分の願望が達成されないことを納得して断念すること」

もう少し軽い言葉で表現すると、「現実に向き合った上で、腹を決めて違う道を選ぶ」ことでしょうか。
現実を受け入れた上で次に進むので、気持ちは前向きです。
ある現実を受け入れた上で、「仕方ないね。じゃあどうしよっか?」が諦めることの本質的な意味です。

自然には敵わないよね。
全てのものは古くなっていくよね。

その真理に対して抗おうとするのではなく、受け入れた上で、
じゃあどんな街づくりが良いんだろうか。
どんな素材が持続性あるのだろうか。

そんな風に考えると結果的に、
一時的な煌めきではなく、街が昔から今までも姿がずっと変わらない「美しさ」を放つのではないかと思いました。

まだ何も分からないですが、
将来的にそんな街作りに携われたらいいなーなんて思った日でした。

長くなったので、今日はこの辺で。

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