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効率より大切なもの

ボーっとする合理

コスパ。タイパ。それを突き詰めることが近年のトレンドになっている。YouTubeを倍速で見て、本の要約サイトを見て、日用品はクーポン券を使わないと買えない。いかに通常通りに過ごす場合と比べて効率よく生きられるか。現代人の多くは、そこにフォーカスを当てている。

だが私達が求めてる豊かさは、効率を突き詰めた先に存在しない。コンテンツのみを切り取った世界に、人間らしさを残すことは不可能だからだ。

音楽を聴く喜びは、スマホをタップする体験よりもレコードを探して再生機に差し込んで、わくわくしながら聴く体験に潜んでいるのではなかったか。

野球を見る喜びは、ピッチャーがバッターに投げるまでの牽制球やサイン交換、緊迫した空気を含めた球場の一体感なのではなかったか。

私達は非効率な状態に流れる時間感覚の中で喜びを感じてきたのだ。逆に言えば、現代の私達は体験を求めているのに関わらず、コンテンツのみを振り分けられていくのだ。本来的に求めている体験と、それを得る行為とが合致しないことを肯定されている。

音楽も映画もスポーツも、いわばショートケーキの苺だけを切り取って提供されているような構造になっているのだ。

確かに、電車に乗り遅れる体験は非効率で喜びなど微塵も無いかもしれない。食洗機や全自動洗濯機、ロボット掃除機の無い生活で、毎日の数分を労働作業に繰り出すことだって、非効率で喜びは無いだろう。

でも、そういう無駄な時間を過ごしている時こそ、自分を見つめ直したり、クリエイティブな発想が生まれたりするものである。それは散歩にとても近い感覚であろう。毎日の中で、ボーッとする時間は大切である。

ある意味でボーッとする時間は生きていく上での思考整理の時間になり、日々の中に合理を与え続けているのである。

無駄と美

オシャレは我慢から始まる。衣服で言えば寒いのにスカート履いたり、薄手のコートを着てみたり。食事で言えば、スペイン料理の盛り付けで葉っぱを置いてみたり、ドレッシングで皿を囲むように置いてみたり。

建築でも、大抵の場合美しいとされる建築は無駄だらけである。代々木の体育館を吊り橋構造で設計して工費を2倍にしてみたり、台湾の野菜市場の屋根をうねらせたり、アゼルバイジャンの音楽ホールをグニャグニャにして床と壁と天井の区別を無くしてみたり。

しかし、そういう事例に対していちいち口を出していたらこの世から芸術なんて迫害される。全てのデザインが無印な状態になれば良品で溢れ返る訳では無い。

少なくとも所有欲は、周りと峻別される個性を持ち、それ自体が美しく、愛着の湧く存在なのである。全ての車がテスラになる未来に、車への所有欲は無くなってしまうのである。(全自動運転で所有する未来すらも消えるかもしれないが)

無駄を追求したその先に美の境地がある。僕は強くそう思う。一見意味のない状態は、意味のある状態に対してプラスに働きかける。

ゆっくりと、焦らず強く。

だからこそ、私達は電車を逃さないように小走りしたり、歩行者信号が点滅して忙しくする生活を「避ける」ように心掛けねばならない。どんな些細な時間浪費でも気にせず、ゆっくりと生きれば良い。

どんなことが起ころうとも焦らず、自分の軸を持って強く生きれば良い。それが無駄な事でも、自分の生活に意味あるものとして跳ね返って還元されるからだ。

洗濯物を干している間に鳥の鳴き声に気が付いたり、春の香りを感じたり。人間の豊かさはそういう些細な無駄の中から醸成されるのである。毎日の無駄に、感謝しながら。

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