ADHDの端くれとしての所感

今朝、いつものようネットサーフィンをするにしても、少しでも有益な情報を得たほうがいいだろうなと思って科学のデジタルニュースを配信する某サイトを流し読みしていた時に見つけた記事に、ADHDの話が載っているのを見つけた。
記事は、人類の進化の上でADHDがもっていたかもしれない強みについての内容だった。ADHDとしての特性に長年苦しめられ続けてきた私にとっては、ADHDでいることの利点などとは、目を引くような内容であったことは確かだ。

記事によると、海外だか国内だかで大学だか研究機関だかが、まぁともかくはADHDを持つ人を集めてこんな実験をしたそうだ。
参加者は、様々な人種の中から集めれられ半数ほどがADHD持ちである。そして彼らがプレイするのは、人類の祖先が行っていたであろう採餌行動を想定した、茂みの中からできるだけ多くのベリーを収穫するゲーム。
ゲームのなかでは、道を挟むように配置された茂みにカーソルを当てている間はベリーが回収でき、時間経過とともにその量が減る。また、回収をやめてしばらく経った茂みからはまた大量のベリーを回収できるようになっている。
実験の結果、ADHDスコアの高い人ほどベリーの回収量が多くなったそうだ。
ADHDスコアの低い人は同じ茂みに留まってベリーを回収しきる傾向があるようで、ADHDスコアの高い人には逆のことがいえた。
実験結果からは、ADHDスコアの高い人は同じ茂みに留まるとベリーの回収量が減ることで集中力を切らし、また思い立ったらすぐ行動する衝動性によって他の茂みに移るため、最終的なベリーの回収量が増えたのだろうとの考察がなされた。

記事は、ADHDにも負の側面ばかりではない、実は進化の上で重要な役割を担っていたのだ、という具合にまとめられていたが。
それを読んで、ADHDの端くれとしての私の所感だ。

私には、潜在的には重度のADHDの気がある。
というのも、血で繋がった家族である弟が、ADHDの遺伝特性を以てするとそれを証明してくれている。
それが表面化しないのは、俺がある程度「続ける」とか「頑張る」を理性で制御してなんとか一般人並みにはできるように努力してきたからだ。
そうやってADHDとしての特性を封印し続けてきた俺と、自分を貫き続けてきた弟。
今朝の記事で読んだことを踏まえて興味深いのは、二人でアクションゲームだとか瞬発力のいる遊びをすると、大抵俺が負けることだ。
弟は自分の特性と上手に付き合ってきたとは言えないけれど、ともかく自分を抑え込むような生き方をしてこなかった。
対する俺は本来のADHDらしい特性を抑え込んで、「一度理性で考える」工程を発心と行動との間に挟むせいで、あらゆる日常の動作、また長期スパンであっても決断を必要とする行動にタイムラグや葛藤が生じて、およそどんな生産性も本来のそれより低まってしまっていると自己分析している。
そして…こんな考察を通して気付くのだ。
もしかすると、これまで嫌悪してきた弟の生き方というのが、本当に俺が幸せになれる道だったのかもしれない、と。

世のすべてのADHD持ちに忠告したい。ADHDな自分を認めてほしい。
人生に生きづらさを感じるのはADHDが問題なのではなくて、周りと協力して活躍するか、周りとは違うところで活躍するか、それだけの違いなんだ。
よもや自分を抑え込んで、ADHDとしての特性を抑え込もうなんて考えないでほしい。本当は大事な自分らしさの一つで、価値なのに。それを失ったうえで、さらに苦しむなんて。俺のようにはなってほしくない。
ADHDの端くれにしかなれなかった俺としての所感。

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